65話 拐かし
「何をする! ぶ、ぶ、無礼者!!」
顎を摩りながらよろよろと立ちあがった男の頭の上で、おふくの下駄がよい音をたてて跳ねた。
「お、おのれっ!」
泥酔した顔が、赤くなってからどす黒くなる。
「小娘! 武士の頭に下駄を落とすとは、無礼にもほどがあろう! そこへ直れ!」
おふくは、ちらりと後ろを振り返る。騒ぎに人垣ができ始めていた。その向こう、里哉が手を引かれて逃げていく。
(あれって、藤助さん?)
後ろ姿と横顔が、近所の端切れ屋によく似ている。
おふくは背伸びしながら、二人が神楽殿の方角へ行くのを確かめ、改めて激昂する浪人者へ向き直った。
「逃げるなっ!」
「逃げないわよ」
「おい、止めるんだ」
連れが宥めるが、耳に入らない。
さすがに抜刀せずにはいるが、よたよたと両手を広げ、大声を上げて迫って来る。
「やだ、気持ち悪い」
酒臭さはもちろんのこと、
「逃げるな!」
「お武家様、臭いってば」
にこりと笑うと、見物人からどっと笑いが上がる。
「か、重ね重ね、無礼な!」
とうとう抜いた。抜いたら斬るまで納められぬのが武士である。千鳥足でよろめきながら、奇声を上げて振りかぶる。
小柄な身体が宙を舞った。
「ごめんなさい!」
ぐっとも、げっとも言い難い音がして、ひらりと舞い降りたおふくの足元で、鳩尾を押さえてげえげえと吐き始める。
周囲は、やんややんやの大喝采だ。
「あたし、急ぐの!」
「ま、……まてっ!」
あんぐりと口を開けた連れの浪人は、軽やかに駆け去るおふくを見送るばかりだ。
人垣を分け、神楽殿へと飛んで行く。おろしたての下駄を無くしたのは残念だけれど、里哉を守れたのだから、きっと母も褒めてくれるだろう。
(ほんとに鈍くさいんだから、里哉さんて)
いい人なのに、いまいち頼りない。
「里哉さん!」
神楽殿の杉戸は閉まり、参詣客もまばらだ。
おふくは、二人の浪人者が追ってこないのを確かめてから、神楽殿をぐりると廻った。奥はすぐに崖のようで、木々が生い茂っている。
(あれ……?)
誰もいない。
確かに、こちらの方へ向かった。藤助らしき男に手を引かれ、おふくを振り返りながら駆けて行った。
「痛いっ」
おふくは、素足に踏んだもの取り上げる。
(これ、里哉さんの……?)
丸い鼈甲枠の眼鏡だった。
まさか、と思う。しかし、滅多にある品ではないし、手放した姿を見たことがない。
(どういうこと?)
「里哉さん!!」
おふくは、念のため神楽殿をもう一廻りした。階段を上がって杉戸の中も確かめる。遠くを見やって里哉を探す。
(どこへ行ったの?)
おふくを残して、先に行ってしまったのか。
(まさか)
それこそ、あり得ない。
おふくは、もと来た道を引き返した。
いない。
二人の酔っ払った浪人者も、すでにどこかへ姿を消していた。
「里哉さん!!」
おふくは走った。寺領をくまなく見て周った。本堂の僧侶へ祈祷に来ていないか尋ね、参道の茶店へも声をかける。
しかし、篠井里哉の姿は煙のように消えていた。
取り乱した娘から話を聞くと、福籠屋のお登勢は下男を走らせ駕籠を呼んだ。旅籠屋の切り盛りを女中頭のお紋へ任せ、すぐさま娘と深川へ向かう。すでに七ツを過ぎ、日も傾きかけていた。
花六軒長屋で二人を迎えた二木倫太郎は、ひととおりの話を聞いて首を傾げた。娘のおふくならともかく、里哉は元服した歴とした大人である。しばらくすれば「おふくとはぐれた」と、真っ青になって戻って来るかもしれない。
「このことを篠井の叔父上には」
「まだお伝えしておりません。異変が
お登勢は、異変と言う。
「おふくさんは
倫太郎は、あくまでも穏やかだ。
おふくは傷だらけの足に晒を巻き、泣き腫らした目でしっかり頷いた。
「
「藤助とは、向かいの端切れ屋の藤助さんかい」
「はい。あたしの見間違いでなければ」
倫太郎は、数瞬黙した。
「私の失態かもしれない」
「倫太郎様?」
「お登勢殿は、念のため叔父上へ一報を入れてください。至急、お会いしたいと。それから」
と、倫太郎は向かいの原賢吾の住居へ目を遣る。
「私の方でも、心当たりを当たってみます」
「若君」
お登勢が言いかけるのを制す。
「無理はしませんから。これが拐かしなのか、そうじゃないのか。拐かされたのならば、目的は里哉か──私か。まず、今晩はここで里哉の帰りを待つつもりです」
それよりも、と思い詰めたおふくへ笑いかける。
「お登勢殿、おふくさんをよく見張っておいてください。決して一人で動かぬように」
「承知いたしました」
母に睨まれ、おふくはぷっと頬を膨らませた。
「大丈夫です。安心してください」
そう言う倫太郎の目は、少しも笑っていなかった。
吐きそうだ。
里哉がまず思ったのはそれだった。胃の腑が重い。
頬の下は、ひんやりとした板間だった。冷たい床に頬をつけ、しばらくじっとしていると次第に楽になっていった。
薄暗い。闇というほどではないが、夜明けなのか夕暮れなのか。ここがどこで、おのれが何をしているのか、里哉は混乱する。
(落ち着け)
目を閉じ、ひとつひとつ記憶をたどる。
「おさと」
呼ばれて、目を開ける。
顔があった。
顔というより目だ。
「久しぶりだね、お里」
「おと……?」
「うん」
里哉は、突かれたように飛び起きた。
「
失ったと思っていた半身が、闇のなかで笑っていた。
(続く)
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