64話 おふく、躍り出る

 川柳に云う。

──聖天は 娘の拝む神でなし

 浅草聖天様とは、つまりそういう寺社である。


 篠井里哉と福籠屋ふくろうやのおふくは、翌日の朝早くに深川の花六軒長屋を出発した。


 隅田川沿いを向島須崎の三囲みめぐり稲荷を目指し、待乳まつちの渡しから対岸へ渡る。そのまま三谷堀に沿って日本堤にほんつつみを行くと吉原遊郭へ至り、舟を降りた左手、こんもりと緑濃い小山への参道を上がれば、待乳山まつちやま聖天こと金龍山浅草寺支院、待乳山本龍院である。


 渡しには、行く船よりも帰る船が多い。吉原帰りだろう、お供を連れた見るからに身なりのよい旦那衆だ。


「二人で浅草聖天とは思い切ったな」

 出掛けしなに、破戒坊主の真慧しんねが言った。

「吉原詣での客目当てに、けちな物盗りが出るそうだから気をつけな」

 鑿で一刀に彫ったような目を細め、里哉の腰の辺りを確かめる。両刀を手挟んではいるが、丸眼鏡に小柄で色白、片笑窪というだ。どう見ても手練とは言い難い。

「おふくちゃん。こいつをよおく見張っとけよ」

、おふく殿を守ります」

 鍔元に手を遣り、睨む。

「おふくさん、無茶しないようお里を頼むよ」

「はい! 倫太郎様」


 それほど遠出をするわけでもないのに、

(そんなに頼りないのかなあ、私は)

 船縁から隅田川に手を入れると、思いの外冷たい。


「旦那、ご新造さんですかい」


 乗った舟に客はふたり。気安げに船頭が話しかけてきた。

 違います、と言いかけた里哉を、おふくが引っ張る。


「まだよ、おじさん。年明けにこのお人のところへ嫁入りすることになったの」

(えええええっ!?)

「そりゃ、おめでたいこって」

「このひとね、こう見えても実は、剣術やっとうの方は大層腕がたってね。深川にある夢想一刀流の篠田道場って知ってる? そこの跡取りよ」

「そりゃ、そりゃ、大きにおみそれ申しやした」


 肘でつつかれて、里哉はあわてて姿勢を正す。


「それでね」

 とおふくは少し俯く。今日の小袖は、しっとりと涼しげに秋草をあしらった意匠だ。年よりも少しだけ大人びて見える。


「よい子を授かるようにお参りしてきなさいって、義母上おかかさまのお勧めで」

「そりゃあ、まあ」

 気が早いおっか様でござんすねえ──と船頭が言うのへ、里哉はひきつった笑顔になる。おふくは「黙っていろ」とばかりに睨んでいる。


「ほら、見えてきなすった」


 船頭が指す舳先の先に、鬱蒼と繁る高台が見えた。川沿いの低い土地が続く中で、そこだけが小山のように盛り上がっている。遠目にも、石段を往来する人の姿が見えた。


「ご新造さんの足には、ちいときついかもしれねえですから、旦那、ゆっくり行っておあげなさいまし」

「あ、ありがとう」

「やだ、おじさん。まだ、ご新造さんじゃないってば!」

 おふくは頬を赤らめ、ばんばんと船頭を叩く。


 程なくふたりは今戸橋の袂で舟を降り、参道へ向かった。

「なんであんなこと言ったんですか」

 昼間の暑さを避けてか、思いのほか参詣客がいる。

「里哉さん。本当のこと、言うつもりだったでしょう」

「それは」

「嘘ついてもすぐにばれて、逆にあやしまれちまうかもしれないわね」

 あのね、とおふくは国許の姉によく似た目で言う。

「目立つの。あたし達みたいな若い二人連れが聖天様にお参りするって珍しいのよ。女連れで吉原へ行くわけもないし、祭りや桜の季節ってわけでもないしね」

 にこっと笑って並んで歩き出した。


 里哉は改めて周囲を見た。確かに、同じような年頃の姿はない。それにどちらかというと男が多く、その男たちもおふくのことをちらり、ちらりと見て通り過ぎていく。


「それにね、船頭さんもいい人かどうかわからないし。もし鴨だと思われたら、大変。ほら、真慧さんも気を付けろって言ってたでしょう」


 そもそも、浅草という土地は粗い。

 隅田川沿いには景勝を求め、商家や大名の別宅、別邸が続く。浅草橋近辺は御蔵屋敷が連なり、大勢の荷上げ人足が働いていた。明暦の大火で引っ越してきた新吉原へ至る道も、周囲は田畠であり、夜間ともなればまさに闇夜に浮く不夜城である。金龍山浅草寺近辺は物見遊山と参詣客で溢れているものの、ひとつ道を逸れるとの噂も絶えない、なかなかに物騒な土地柄なのだ。


 江戸で育ったおふくには、里哉にはわからぬ身の守り方があるようだ。


「里哉さん、あれ見て」


 石段を上りきり、本堂らしき姿が見えてきた。立ち止まったおふくが大振りの提灯を指差す。


「本当だ。二股大根ですね」


 二本の二股大根が交差した紋が付いている。もう一方は巾着だ。

 そのまま本堂へ進み、手を合わせてお参りする。奥の方では若い夫婦と親族が、御祈祷をあげてもらうのを待っているようだ。


「あとでご本尊にお参りしましょう」

「……本気?」

「あとで、です」


 里哉は気恥ずかしくなって、お参りの列から足早に出た。傍から本堂を見上げて、唐破風下の紋を指す。

 二本の二股大根と、交差する中央に巾着らしきもの。その上でも、二本の二股大根がなんとも妖しく絡み合っている。


 よく見ようと、一歩下がった時だった。

 肘が何かに当たった。

 あ、と思う間に、


「無礼者!」


 そのまま肘を取られ、引き倒された。


 一瞬何が起こったのかわからず、尻餅をついたまま唖然と見上げる。その鼻先に、なぜか刀のきっさきがあった。


「武士の魂に肘鉄を食らわすとは、若造、そこへ直れ!」


 浪人者らしい。年は三十前後か。尾羽打ち枯らしたというほどでもないが、質素な身形に総髪である。抜身を突きつけ、座った目つきでゆらり、ゆらりと上体を揺らした。どれほど呑んだのか、鼻先まで臭ってくる。


「おい、止めろ」

気づいた連れらしい男が振り返る。これも同様の年頃で、まだ午前ひるまえだというのに、首筋まで真っ赤だ。


「いいや、許さん。この小僧、儂の刀を足蹴にしたんだぞ」

「してません!」

「煩い!」


 鋒が揺れる。にじり下がると、吸い付くようにが付いて来た。


「逃げるな! いまこの手で」

「止めろ! 寺領で騒ぎを起こせば不味いことになるぞ!」

「うるさい!」


 振り上げた刀身を見上げて、思わず目を瞑る。


「ぎゃっ!!」

(え?)


 目を開くと、浪人が三間先まですっ飛んでいた。

 そうして、おのれの前に立ちはだかるのは、秋草をあしらった小袖姿のか細い背中だ。


「お、おふくどのっ?!」

「里哉さん、早く逃げて」


 おふくは振り向きもせず、歯の欠けた塗り下駄をひとつ、ふたつと脱ぎ捨て遠くへ放った。紅色の鼻緒を追ったその先で、すっ飛んだ浪人者がむくりと起き上がった。


「サトさん、こっち!」

(え……?)


 手を引かれて立ち上がり、そのまま神楽殿の方へと引かれて行く。


「ちょっと、離してください!」


 背後で、ぎゃっともわっとも言えぬ声が上がる。手を振り解こうとするが、貼り付いたように離れない。


「離せ!」

「わたしですよ」


 ふいと振り返ったのは、端切れ屋の藤助ふじすけだった。花六軒長屋の表店おもてだな、その向かいにある小さな人気の小間物屋で、優しげな面立ちに優しげな笑を浮かべて、里哉を神楽殿の裏まで導く。


「藤助さん、どうしたんですか。最近、お店も閉めっぱなしで……」

「サトさん、お渡しした守袋の中身、お分かりですか」

「守袋?」


 周囲に人影はない。ようやく手を離し、藤助は言った。

 里哉は怪訝そうに眉を寄せ、それからはっと目を見開く。


「いえ、ここにそのまま」

「あー、ならば、やはりおいで頂かねばならぬようで」

「どこへですか」

「サトさんに、会いたいっていうお方がいてね」


 誰がと尋ねる間は無かった。鳩尾に重い岩を叩き込まれたようで、蹲った身体が何故か宙に浮いた。


「里哉さん!!」


 おふくの声が、遠くから聞こえる。

 次の瞬間、里哉は奈落の底へと落ちて行った。





(続く)


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