61話 お鯉の店
「そいつは、確かに紀文の隠居さね」
堤清吾は、二木倫太郎の
深川下元町の居酒屋「こひぢ」は、堤の御用聞き留蔵の女房が商う店だ。自慢は無論、
「紀文のご隠居、お元気でしたか」
蕎麦切りと味噌だれを並べながらお鯉が尋ねると、倫太郎は驚いたように目を見張った。
「おこい殿はご存知ですか」
「深川で知らない者はおりませんよ」
深川八幡──富岡八幡宮の三基の総金張り神輿を寄進したのは、その紀文である。
紀伊國屋文左衛門は、明暦から元禄にかけて活躍した政商だ。江戸の発展とともに莫大な富を築き、材木に留まらず銅座を請け負うなどしてきたが、後年は奮わず、だいぶ前から隠居となって深川に住まう。かつての権勢には及ばぬものの、相応に豪勢な隠居所らしい。
「それほどのご老体とは見えませんでした」
堤は声を立てて笑った。
「金儲け以外、散々に遊び尽くした爺さんだ。俺も御用で幾度か会ったが、食わせ者であることに変わりはない。奈良茂との一件は知っているだろう」
「奈良茂とは何ですか」
「知らねえのかい。二木さんは、まるでお大名の若君だね」
茶々を入れる堤の横で、お鯉が心底気の毒そうに言う。
「黒江町の奈良屋茂左衛門さんですよ。先代はともかく、昨年亡くなった若旦那は不憫だったねえ」
「あれが不憫かねえ。金子があまってんなら、ほかに使い道があるだろうに」
留蔵である。いつもは絡げた裾を下ろし、奥で包丁を握っている。
紀文と競った奈良茂の跡取り息子は、親が商いを整理し遺した莫大な資産で、遊蕩の限りを尽くして死んだ。潔くもあり、どこか哀れでもある生き様だった。
暖簾をしまった店には、町廻り同心の堤清吾と留蔵、お鯉、そして倫太郎のみである。
「吉原での一件も、紀文には紀州様、奈良茂には尾州様がついていなさると評判でね」
「留蔵、まるで見てきたみたいじゃねえか」
「親父から聞いたんでさあ」
元禄の時代、吉原の花魁を巡った豪奢な見栄と意地の張り合いは、江戸中から拍手喝采で迎えられた。
「わっちはね、疑ってますんで。あの話のどこまでがまことで、どこまでがそうじゃねえのかって」
「どっちだっていいんだよ、おまいさん。すかっとする話じゃないの」
「そうなんだけどよう」
「この人は、いっつもこうなんですよ。かわいいったらありゃしない」
留蔵の四角い頬を撫でて、お鯉は店の奥へ引っ込んだ。代わりに留蔵は前垂れで手を拭きながら、堤と倫太郎の側、框の縁に「御免なさいよ」と掛ける。
「で、何かでてきたかい」
「それがまあ、きれいなもんで」
と、留蔵は声をひそめた。
倫太郎からの依頼である。〈謎謎百万遍〉の受付会所を仕切る備前屋について、何か気にかかることがあるらしい。
「備前屋の主人は徳右衛門。元々は飯田あたりの
桂庵とも称される、働き口の斡旋業である。
江戸は幕府城下町としての発展に伴い、多くの働き手を要した。また、百姓の次男、三男や主家を失った浪人など、仕事を求める多数の人々が流入し、土木作業から参勤交代の臨時雇い、さらに女衒のような遊女の斡旋まで、あらゆる「ひと」の仲介がはやりの商売なのである。
「〈謎謎百万遍〉の講元の旦那衆が、その備前屋から人を遣って、一切合切を取り仕切っているというのかえ」
「ま、そんな具合でさあ」
講元になっているのは、日本橋本町を中心とした大店ばかりだ。その差配一切を備前屋が代行している。
「かなりの儲けだな」
「まあ、ある処にはあるもんです」
倫太郎はというと、見慣れぬ蕎麦というものをどうしたものかと眺めている。
「留蔵殿、その備前屋徳右衛門とは、どのような人物ですか」
「それが」
と、懐から書き付けを出した。
「徳の高いお人、お優しい旦那様、親身にお世話くださった、菩薩様のようだ、嫌な顔ひとつしない、物乞いを店に招いて食い物を渡している」
留蔵が、次々と備前屋の善行を読み上げていく。
「まだ続くのかい」
堤がうんざりと遮ると、留蔵はしめたとびかりに口の端を歪めた。
「まだ、たんとありますぜ」
「大した人物のようだね」
「そうなんでさ、二木様。実はわっちも段々薄気味悪くなってきちまったんでね。どれほどの善人でも、大抵ひとつやふたつ、悪口とは言わねえでも、なにかしら出てくるもんなんですがね」
「ひとっつもかえ」
「へえ、まったくなんでさ。堤の旦那もご存知の通り、こんなことは滅多ねえことなんで、こうやって並べてみたんで」
と、渡された書き付けは、まさに
「しかも、口入屋なんですぜ。叩けば埃のひとつやふたつ」
「ふん」
堤は手酌で進めている。
「ちょいと嫌な気配だな」
「どうしますかい」
「伊織さんは、何か言ってたかい」
伊織とは、密偵のよろず屋吉次のことである。
「そういや、ここ数日お会いしてねえですが、吉次さんは吉次さんの筋で動いてらっしゃるようで」
「そうかい」
堤は平たい蕎麦切りを頬張り、目元を緩める。
「悪いが、続けて調べてくれ。だが、滅法用心しろ。どこから横槍が入るかわからねえ」
「へい。わっちもなんだか引っかかりますんで、こっそりつついてみましょうや」
倫太郎は、ようやく箸で蕎麦切りをつまみ、味噌だれを付ける。柚となにか香りが立ち上がって見かけよりも旨い。
「おまいさん、話は終わったかい。旦那方にこれをお出しして頂戴」
「いま、行くからな」
頃合いを見計らったお鯉が、留蔵を呼ぶ。
「堤さん」
ふと、倫太郎は尋ねた。
「吉次殿を、どうして伊織という名で呼ぶのですか」
伊織とは武家の名だ。堤は目許を綻ばせる。
「そりゃ、言わぬが花だ」
倫太郎が花六軒長屋へ戻ったのは、戌の刻(午後八時頃)過ぎであった。
「里哉様は、夕刻にお帰りになっています」
「いつもすまないね」
木戸番の才助をねぎらい、仄かに明るい住居の戸を引く。
「お里、いま戻ったよ」
「お帰りなさいませ」
倫太郎の侍者でもある篠井里哉は、いつものように満面の笑顔で迎えてくれた。
「夕餉はどうなさいますか」
「堤さんと、お鯉さんの店で済ませて来た。今度、お里を連れて来ると言っておいたよ」
「はい、ぜひ!」
どこか浮かれていた。倫太郎に向ける笑顔にも締まりがない。
「ああ、第三の謎謎が解けたのかい」
「はい! それで、第四の謎を手に入れました」
里哉は灯火を引き寄せると、懐から謎謎を出す。
四角く折った紙片。隅に「八二」。広げると、
「なんだい、これは」
まるまると太い大根の絵だ。墨一色で一気に描き切った勢いのある画である。
尻尾は二股となり、今にも立ち上がって歩き始めそうな勢いだ。
「二股……の大根」
「はい」
それが第四の謎謎であった。
(続く)
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