60話 新たな助っ人
「で、私のところに来たってわけなんだね」
佐々
お堀端の神田鎌倉河岸、竜閑橋と出世不動に近い猫屋
里哉が時折、本を借りに訪ねるのだが、「まあ、勝手に持っていきな」と、何事にも無頓着な男である。
「是非、燿太郎さんのお知恵をお貸しください」
篠井里哉は寝転ぶ燿太郎に、丁寧に頭を下げた。
「興味ないんだけどなあ」
ちらりと二人、里哉とおふくに目を遣り、また書物に戻す。小ぶりな黒紫檀の眼鏡を鼻までずらし、またちらりと目を遣ってから鼻をしかめた。
佐々燿太郎は、お凛のすぐ上の兄だ。太郎というが三男である。出藍の誉を地でいく天與の才に、親兄弟は法眼の株を買い得て幕府御典医にと望んだものの、本人は血を見て昏倒する質を幸いに「医者にはならない」と宣言、今に至る。頼まれれば伊勢町の和薬種改会所で本草学の手ほどきをするが、あとは実家を頼りに学問三昧の日々であった。
さて、どうにも二人は動かない。里哉は膝に手を置き、背筋を伸ばして待っている。おふくはというと、初めて来たお凛の兄の家に、もの珍しげに、あちこち首をめぐらせていた。
「ああ、もう。いい加減におしな」
とうとう根負けして起き上がったのは、半刻(約一時間)あまり後であった。
「で、なんで私なんだい。確かに、私は天才だけど、世情のことは疎いって知ってるだろう」
「お凛さんです」
「お凛?」
「あー、えー、そのー。燿太郎さんがよく、よ、吉原に」
里哉は真っ赤だ。
「よ、吉原に、か、通っておられると聞きました」
「里哉さん、真っ赤」
横からおふくが言う。
「放っておいてください。それより、なんで付いて来たんですか」
「えー、だって、あたしと一緒に謎解きするんでしょ。あたりまえじゃない」
「これは、私の謎解きです!」
「こないだ、助けてあげたの忘れたの?!」
「頼んでいません!」
「そ」
ぷっとふくれる。
日本橋通旅籠町の福籠屋から、この猫屋新道までは四半刻(約三十分)もかからない。母のお登勢も「いってらっしゃい」と笑顔で送り出した。若い女子とふたり、これでよいのかとと、里哉は少々不安になる。
「吉原ね。ああ、あれかい」
燿太郎の声は、底抜けに明るい。
「確かに、春先に月に幾度が
「かさ?」
「鼻が欠けちまう、あれだよう」
面倒くさそうに言った燿太郎に、遅れて里哉も曖昧に頷く。
「
つまり、梅毒である。治療法はない。遊女の多くがこの病で命を落とし、吉原に限らず遊里、岡場所を通して庶民にも広がった性病だ。
「ちょっと、ある処から相談されてね」
表立つと
「お凛のやつ、勘違いもいいところだ。私はお勝一筋だっていうのに、あいつが聞いたら」
と、上目がちになって考える。
「
ははっと笑った。
お勝とは、燿太郎の幼馴染みで、羽織芸者の勝弥のことだ。もと侍の娘というが、それは閑話である。
「里哉さん、あれだろ。〈謎謎百万遍〉。私は興味がないけど、どうしたんだい。なにか欲しいものでもあるのかい」
「はい」
じっと燿太郎を見上げる。腕を組んで見返そうとするが、すぐに燿太郎は天井を仰いで呻いた。
「その謎、お出しな。なにか思いつくだろう」
大源寺を辞した二木倫太郎は、ぶらぶらと深川八幡の参道を戻った。夕陽を背に東へ行くと、ようやく海風も吹き始めていた。このまま長屋に戻れば、また原賢吾が「若君」とやって来そうだ。
倫太郎は、人波に従ったまま富岡八幡宮へと足を向ける。
良徳和尚は、原について話す気がないようだ。あと尋ねるとすれば、里哉の父篠井児次郎本人に直接あたるほかない。普段、表立って現れぬ叔父でもあったし、わざわざ呼び立てても、この一件はどうものらりくらりと
(進まぬときは待つべし)
急いては事を仕損じるという。
(しかし、お里には話さねばなあ)
原賢吾のこと、なによりも二子の弟音哉のこと。
さりげなく、とはいかない従兄弟の侍者である。気を回し過ぎて遠慮がちな様子は、見ていてつらい。弟のことを知れば、どれほどの思いを抱えるか。
倫太郎は参詣客の列から逸れると、永代寺から富岡八幡宮本殿裏へまわる。時折この銀杏のご神木を見に行く。銀杏は火伏せの木。天へ向かってそびえ立ち、火事に遭っては水を吐く。
倫太郎は、ため息をついた。
「お武家さま、長い長いため息でございますなあ」
倫太郎は、驚いて周囲を見回した。
大銀杏を介し、丁度反対側に
「これは失礼しました。おいでになることに、まるで気がつきませんでした」
「こちらこそ、年寄りになると息をするのもおっくうになりましてな」
絽の羽織に頭巾、手にした矢立は使い込んだ飴色だ。富裕な商家の隠居といった風情で、にこにこと笑っている。膝上には大福帳。
「下手の横好きで、句作に興じておりました」
「それはそれは。こちらこそお邪魔をいたしました」
老爺は、倫太郎を手招いた。
「ここからの眺めが格別でしてなあ」
葉の緑が傾いた日差しに濃い陰をつくり、風に合わせて揺れていた。葉の擦れる涼しげな音がする。
「確かに。よい眺めです」
老爺は、千山と名乗った。深川門前仲町に住まう、材木屋の隠居であると。
(続く)
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