57話 上杉の暗号
越後流軍学というものがある。
上杉謙信に仕えた参謀、
宇佐美定行は上杉二十五将に数えられ、武田信玄の参謀山本勘助の知略を唯一見破った智将として伝えられる。
謙信亡き後、定行の子勝行は上杉家を離れ、孫の定祐の代に江戸へ出府、尾張徳川家、水戸徳川家と渡り歩き、慶安二年(一六四九)に初代紀州藩主徳川
その定祐が記した越後流軍学書『武経要略』。そのうちの「字変四八ノ奥義」
篠井里哉は、これではないかと思い至ったのだ。
「つまり、こうです」
里哉は書き付けを広げた。その横には
倫太郎が目覚めて降りると、座敷に里哉が座っていた。徹夜をしていたのか、目を瞬きながら倫太郎を迎え開口一番、「わかりました」と、言った。
夜を徹して謎解きに苦心惨憺していたようで、目の下には隈、反して
里哉は、別の書き付けを示す。
「これは、
縦横それぞれに、一から七まで数字が振られていた。
「七で思いつきました。父上の軍学書です。越後の上杉が、かつて
「ああ、確かにね」
言われてみればと、倫太郎も思い到る。武田の甲州流軍学と合わせて、越後流軍学も学んできた。
「つまり今回の謎謎は、符牒か暗号だというんだね」
里哉は頷く。嬉しくてならないといった様子だ。
「見てください。第二の謎謎の数字を二つずつ区切り、そしてこちらに」
と、七文字七行の以呂波を指して、
「当てはめて拾ってみます」
もともと書いてあった数字はこうだ。
二七 六三 二二 三七 六三
四六 七三 七二 四五 五二 五二 一四
三一 二四 七三 五五 四二
六四 六五 二一 二五 六二 一六 一四
七二 一七 一三 一七 二七 六五 六七
以呂波に直す。
かきりなき
おもひのままに
よるもこむ
ゆめちをさへに
ひとはとかめし
「
かぎりなき
思ひのままに
夜も来む
夢ぢをさへに
人はとがめじ
(限りもない思いにまかせて、わたしは、
せめて夜の夢で会いに行こう)
「なるほどねえ」
「まさかこのようなところで、軍学書が出てくるとは思いませんでした」
「随分と凝ったことをするものだ」
十両という賞金が掛かっているとはいえ、
「おふく殿によると、昨今の江戸では絵解き謎掛けが大流行り、だそうです。軍学を学んだ市井のご浪人が、この謎謎の作者かもしれません」
倫太郎も里哉も、一応浪人だ。
「それにしても、よく思いついたね」
浮かべた照れ笑いが、見る間に萎んだ。
「でも、小野小町の歌と解けても、このあとどうすればよいのかわからないのです」
「日本橋の会所へ届けるのではないのかい」
「第二の謎謎の答えが、第三の謎に繋がると言われました」
「なるほど」
ふたりは頭を突き合わせ、仮名で書いた恋歌を覗き込む。
「どうしたらよいのでしょう」
「──さあ」
倫太郎も、ただ首を傾げた。
「はーっ?! しんじらんない!」
大きく目を見張って驚いたのは、おふくである。
おふくは日本橋
里哉と同じ花六軒長屋に住んではいるが、よく実家の福籠屋へ家業の手伝いに行っている。
あれから倫太郎と二人、ああでもないこうでもないと考えあぐね、いつの間にか
濡れた小さな足指と、白いふくらはぎに目を取られていると、
「謎掛け、どうなった?」
おふくが訊いてきた。
これこれこのように解けた、とうわの空で伝えたらこうである。
「なんであたしがいない時に解いちゃうのよ!」
「なんでって……」
「それで?」
「それで……?」
里哉は、足元からなんと目を引き剥がす。
「だから、歌の答えはわかったのかってきいてるの!」
「え? 答え?」
「ああ、もうまどろっこしい!」
おふくは里哉の手を掴んだ。
(う、うわあっ)
婦女子に手を取られるなど、姉以外はない。熱い鉄を押しつけられたような、水に濡れてひんやりしたおふくの手がやけに柔らかいような。
「里哉さん、早く!」
ぐいぐいと引っ張られてつんのめりそうになった。
「倫太郎様!」
叫んだのは、無論おふくである。さっさと里哉の手を離すと、履物を散らして座敷へ上がる。
「おふく殿、どうしました」
「あたし。答え、知ってます」
「ええええっ!?」
飛びついたのは里哉だ。
「おふく殿、こ、答えがわかるんですかっ?!
「あたしがわかっちゃおかしいの?」
「違います!!」
ふふん、とおふくは口の端を上げて里哉を見上げた。
「もしかして、悔しい?」
「違います!!」
ぎゃあぎゃあと応酬が始まる。倫太郎は、右のこめかみのあたりを揉みながら、目を閉じて収まるのを待った。
「これは日本橋堀江町の玉屋さんです。そこの小町
「小町紅? 玉屋…?」
「知らないの、里哉さん。最近評判の下り物の紅。すっごくいいけど、すっごく高いんだから」
「ふ、婦女子の化粧道具など知りません!」
「そりゃ、そうね」
「おふくさんは、どうしてその玉屋だと思うのかい?」
里哉を抑えて、倫太郎が尋ねる。
「新しくお
菊之丞とは、上方で評判の
「倫太郎様」
互いに頷く。
「恐らく、その玉屋だね」
「では、私は早速」
善は急げと、立とうとしてつんのめる。
「おふく殿! 袖を離してください!」
「どこ行くの、里哉さん」
「その、玉屋です」
「ひとりで?」
「はあ?」
「あたしが教えてあげたのよ」
「ああ、そうでした」
里哉は座り直すと膝に手を置き、丁寧に一礼した。
「どうもありがとうございました」
「……それだけ?」
「それだけ?」
嫌な予感がした。
「そこ、婦女子の化粧道具ばっかりの小間物屋だけど、里哉さん一人で大丈夫?」
里哉とおふくが連れ立って出掛け、戻ってきたのは夕刻である。里哉の手には、しっかり次の謎掛けが、第三の謎謎が掴まれていた。
玉屋の店の者に、第二の謎謎を見せると、第三のそれを渡されたという。
「倫太郎様、これはもしかしたら」
おふくと話すうちに、「江戸名物めぐり」かもしれないという話になった。そうなるとこの春に出府したばかりの里哉には解けぬ謎も多いだろう。
「それで、おふく殿にも手伝ってもらうことになりました」
倫太郎は、その言い回しに微笑んだ。
「おふくさんは、
「はい。今日は泊まってくるそうです」
「終わったら、御礼をしないといけないね」
「……はい」
倫太郎は、思わず含み笑った。里哉も照れたように咲う。
「実は、今日も助けてもらいました。店に入りあぐねていると、おふく殿が行ってくれて」
婦女子であふれかえる店先は、さぞかし色あでやかだったろう。
「さすがお登勢の娘さんだ。気をつけて続けなさい。何か困ったことが起きたら、すぐに言うんだよ」
「はい!」
里哉は、未開封の第三の謎謎を懐に戻す。
これは、明日、おふくと開ける約束だ。紙の端には朱書きで「八二」。この意味も考えた方がよいだろうか。
目を閉じると、穴の底に引き込まれていくようだ。
「お里?」
座ったまま眠っていた。
倫太郎はそっと横にしてやると、幼い頃にしたようにしばらく団扇で扇いでやった。
(続く)
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