56話 第二の謎謎
さて、同日午後、篠井
菜葉畠と言っても、いまは
その中心にある桜は結構な大木だ。四方に枝を伸ばし、春には花、夏には気持ちのよい木陰となる。
里哉は持参した
そうして懐から出したのは、昨日〈謎謎百万遍〉でもらった第二の謎謎。
二寸(約六センチ)四方。ほぼ真四角に折った紙の隅には小さく「八二」と朱書き。折り目の端は糊付けと印がある。
里哉は指を入れて封を切ると、膝の上で丁寧に広げた。
(なんだ、これ)
数字が並んでいる。半紙を横にして隙間を空けず、一から七までの数字がびっしりだ。数えると五行分。
二 七 六 三 二 二 三 七 六 三
四 六 七 三 七 二 四 五 五 二 五 二 一 四
三 一 二 四 七 三 五 五 四 二
六 四 六 五 二 一 二 五 六 二 一 六 一 四
七 二 一 七 一 三 一 七 二 七 六 五 六 七
里哉は床几から滑り降りて、地面に置く。しばらく眺めてから、夏の陽に翳す。翳してから地面に戻し、腕を組んで遠目に眺める。
「うーん」
目を閉じて眉を寄せる。近づく蚊の唸り声に、おのれの頬を
「〈謎謎百万遍〉だと? ああ」
ああ、とさらに言って、堤清吾は寝転んだまま団扇をばためかした。
日本橋佐内町の一角、こじんまりとした借家である。以前は大店の隠居が後家を囲っていたとかで、どことなく洒落た佇まいの屋であった。
──よろずひきうけ
懸かる木札の端っこには落書。立ち上がった
「ああ、じゃわかりませんよ」
熱い茶を客に供しながら言ったのは、この家のあるじ吉次である。二十半ばの町人で、一見、感じのよい笑みを綺麗な顔に浮かべている。長い付き合いの堤が言うには、「イオリさんは、何を考えているのかわからねえ」。踏み込まぬ代わりに踏み込ませない。
実のところ、堤が遣う密偵のひとりであった。
その吉次が茶を勧めた客は、暑さに汗ひとつかかぬ態で碗を手にした。
「堤さんでしたら、いろいろとご存知だと思いましてね」
「俺ならば。へえ、そうかい」
満更でもない様子だ。
着流しに二刀を放り投げ暑い暑いと唸るのは、南町奉行所の定町廻り同心である。八丁堀の組屋敷に年老いた母と住み、三十過ぎでいまだ二人暮らしだ。定町廻りらしい洒脱な男で、貴賎貧富を問わぬ事情通として、奉行所内では一目おかれている、らしい。
「では、二木様も〈謎謎百万遍〉をお買いなさるんですか」
「私ではなくて、里哉がね」
そこで二木倫太郎は、
「──だ、そうですよ、堤さん」
堤はようやく起き上がり、なおも懐を寛げて扇ぐ。
「ま、お里坊なら十両稼ぐかもなあ」
俺もあやかりてえやと言い、大欠伸をした。
「で、何が聞きたい」
「何でも」
「そりゃ、物騒だ。二木さん、あんたの『知りたい』は恐ろしいからなあ」
客──二木倫太郎は破顔した。
この二人、倫太郎と堤は縁がある。春からすでに二件の騒動に関わっていた。ひとつは、〈白〉と名乗る義賊が絡んだ拐かし。十年前に起こった旗本の悪行が起因の事件で、吉次の表の家業がきっかけだった。
二つ目は、いわくつきの猿の掛け軸「朱厭の掛軸」の行方を追って、堤の方から助っ人を頼んだ。倫太郎の物見高い気性を見込んだことと、なによりも上司である南町奉行大岡
事件は無事解決し、
しかし困ったことに、堤は倫太郎が気に入っていた。常日頃用心深い吉次さえ、倫太郎には敷居を下げるほどだ。
「二木さん、何が引っ掛かっているのかい」
胡散臭いが、倫太郎の勘のよさと、見えぬ糸を結ぶ才を買っている。
「それが、……特にこれと言ってないのです。ただ、お里が関わるなら確かめておきたいと思いまして」
「なるほどね」
と、頷くものの腹に落ちない。堤は吉次へ顎をしゃくった。
「伊織さん。なんか聞いてるかい」
腕利きの密偵は、倫太郎を真っ直ぐに見返した。
「
「五代様(徳川綱吉)以来、寺社普請以外の
陰富とは、非公認の安価な富籤のことだ。
「では、百文という値は」
「安くはねえが、高くもない。富籤と言えねえこともないが、そうでもない。賞金も十両と低いしな。まあ、お
寺社が勧進元となる富籤は、数百両から一千両の賞金が出る。富裕な町人のみならず、武士までもがこぞって購入した。
「今回の講元総代は、駿河町のあの越後屋さんと聞いています。水害や飢饉の供養と、豊作祈念と手堅い話で、妙な噂も聞こえてきません」
駿河町の越後屋は、「現金掛け値なし」で巨万の富を稼いだ呉服商だ。日本橋駿河町に店を構え、間口は三十五間(約六十三メートル)にも及ぶ。さらに三都を結ぶ両替商として、幕府との結びつきも深い。
その越後屋が総代である所為か、
「まあ、それが妙と言えば妙かもしれねえな」
そういえば、と倫太郎が言った。
「会所で見た者は、みな備前屋のお仕着せだったそうです。用意周到な仕切りに感心していましたが、この備前屋とはどのような人物ですか」
「備前屋ねえ」
有りふれた屋号である。〈謎謎百万遍〉の講元は、数十の商家に及んでいた。
「それは、こちらで」
吉次が万事飲み込む。
「必要なら留蔵もつかえ。最近、暑さで腹が出ちまったようだからなあ」
堤の最も信頼する御用聞きだ。鬼瓦のような顔をしているが、細やかで義理堅い。
「話は終わりだ。伊織さん、酒をだしてくれ。この間の貰いもんがまだあるだろう」
「ますます暑くなりますよ」
「おう。願ったり、叶ったりだ」
倫太郎も膝を崩し、扇子を出して扇ぎ始める。
「本当に、江戸は暑いですね」
「当たり
堤は肩まで袖を捲り上げ、恨めしそうにため息を
里哉はいまだ唸っていた。
夜半となり、倫太郎はすでに二階で休んでいる。
縁近くで蚊遣りを焚き、月明かりに
(数字は六十二、六十二)
二 七 六 三 二 二 三 七 六 三
四 六 七 三 七 二 四 五 五 二 五 二 一 四
三 一 二 四 七 三 五 五 四 二
六 四 六 五 二 一 二 五 六 二 一 六 一 四
七 二 一 七 一 三 一 七 二 七 六 五 六 七
縦、横、斜め。同じ数を抜いたり、足したり。思いつく限りのことをやってみた。
考えすぎだとも思う。
誰もが挑む、市井の謎掛けだ。解ける者がいなければ意味がない。
(数字は六十二。五行で六十二。数字は一から七まで)
これまで学んできたことを、隅の方から掘り返しているようだ。一度習えば忘れない。武芸は幾度やっても身につかないが、学問だったら誰にも負けない。
「あ」
思わず声が出た。
(もしかして)
里哉は別の紙を出した。筆を舐める。里哉は慎重に、記憶のそれを書き始めた。
(続く)
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