55話 端切れ屋藤助
翌日も、朝から雲一つない
辰ノ刻(午前八時頃)を過ぎて、篠井
「原様、里哉です。そろそろ出かけようと思いますが……」
花六軒長屋は、木戸内が十二軒。通りに面した小店が三軒、合わせて十五世帯の
これから訪ねる──訪ねるというのは大袈裟だが、
「お珍しい、里哉さん。今日は原様とご一緒ですかい」
「すぐそこまでだよ」
木戸番の才助へ声をかけ、二人はくねくね道から脇道へ、角のさびれた稲荷神社を曲がれば、もう藤助の店が見えてくる。
「篠井殿、肩に力が入っているぞ」
「里哉で構いません。長屋の皆さんもそう呼んでいますし」
店先の長暖簾が、時折風に揺らいで客の姿が見え隠れする。色柄から、若い女のようだ。
里哉はその場で足を止めた。目は揺れる長暖簾に釘付けなのだが、腰が付いてこない。次の一歩が進めなかった。
「……原様、こういう時はどのように話せばよいのでしょうか」
「こういう時、とは」
要もないのに、鼈甲枠の眼鏡を何度もかけ直す。
「あー、け、懸想された時です」
暑さのせいか、首まで赤い。
賢吾は「なるほど」と呟き、暫し思案した。
「里哉殿は、迷惑と思いますか」
「迷惑?」
「もし、藤助に好いていると言われたとしたら、煩わしいと思いますか」
里哉は十六。元服しているとはいえ、色恋にはまったく関心がない──と思っている。
好きなことは学問で、楽しいことは学問だ。だが、いくら学問を究めても、おのれの立場で益はないともわかっている。むしろ武芸を、刀術や体術や、身を守る術を学んだ方がよい。
好きな人と言えば、まず倫太郎だ。国
つまり、里哉が最もこころを痛めているのは、この弟音哉の消息で──。
様々なことが浮かんで答えあぐねていると、賢吾は重ねて訊いてきた。
「もし好いていると言われたら、里哉殿はどのような心持ちになりますか」
(おさと、泣くな! 父上がなんと言われても、おとは今のおさとが大好きだ!)
里哉は微笑んだ。
「嬉しくなります」
「嬉しい。そうですか」
原賢吾は難しい顔になった。
「では、里哉殿に好いたおなごはおりますか」
「好いたおなご、ですか」
何を訊きたいのだろうと、里哉は賢吾の意図を図りかねて空を見やる。
雲一つない青空に、ぽっとおふくの笑顔が浮かんだ。お天道様のように笑うおふくの頬。時々生意気過ぎて頭にくるが、にっこり笑って「里哉さん」と名を呼ばれると、どこまでも付いていきたくなる。
(付いていくのか、私は!)
「い、いや、いません! そんなひと!」
不必要なほど、ぶんぶんと首を振っていると、さらにぎこつなく且つ不得要領な問いがきた。
「では、そのひとと藤助とは、里哉殿にとってどのように違うのですか」
(どのように?)
違いは山ほど浮かぶが、そういうことを言いたいのではあるまい。おふくと藤助と何が違う。
「たぶん」
里哉は言った。
「たぶん、私がなんとも思っていないところです。確かに、気持ちは嬉しいのですが……」
賢吾が、ほっとしたように頷いた。
「そう伝えたらよいのではありませんか」
里哉は頷きかけ、はたと止まる。次第に、難しい算額の課題にでも挑んでいるような顔になっていく。
「ああ。でも、もしそう伝えたとして。もし、もしですよ、原様。もし、藤助さんが、これから好いてほしいと言うかもしれません。そうしたら、どうしましょう。将来のことはわかりません。もちろん、
と、端切れの美しい守袋を出し、
「返してもう結構ですと、私ははっきり言えるのでしょうか」
賢吾は天を仰ぎ、ため息をついた。里哉の背中を押す。
「まあ、ともかく、行ってみましょう」
「……はい」
足早に残り二十歩を行き、藤屋の暖簾を潜った。
「藤助さん、いますか」
先客が振り返る。
「おふく殿!」
「あら、里哉さん」
振り向いたのは
「ここで何をしているのですか」
「何って」
店先に腰掛けたおふくの前には、色とりどりの端切れの小物が並んでいる。その奥で、当の藤助が満面の笑顔で両手を開いた。
「サトさん! これはこれは、いらっしゃいまし!」
「あたしはおっかさんに頼まれて、引き札(広告)の
「福籠屋の引札ですか?! 父上が聞いたら卒倒します!」
ちなみに、日本橋
「ば、馬鹿いうんじゃないわよ! そのくらいあたしだってわかってるわよ! うちの近所の呉服屋の引き札! それとも里哉さん、あたしのこと、そこまで馬鹿だと思ってんの!?」
「いえ、私は。まさか!」
「ああ、おふたりさん。ちょっとお待ちなさいよ」
ふたりの間に藤助が割って入る。左右に分けて右へ分けた里哉へ向かい、どこか今若面に似た下がり眉を、さらに嬉しそうに笑み下げた。
「守袋、受け取っていただけましたか」
「は、はい」
里哉は手の中のそれを、藤助へ突き出した。
「でも、私が頂く理由がありません。だから、これはお返ししたいのです」
(言えた!)
「理由ですか」
藤助は、くびを傾げた。突き出された里哉の手を、そっと両手で包む。
(うわあああああっ)
「理由なんて、どうでもいいじゃありませんか。これはサトさんに持っていて頂きたいのです。たぶん、大事にして頂いて損はありませんよ」
ぎゅっと握られた。その手の中へ、滑り込むものがある。
(え?)
「
耳許で囁いて、藤助はおふくを振り返った。
「おふくさん、おっかさんに明後日までに直して届けると伝えてください」
慌ただしく暖簾を下げる。
「すいませんねえ。実は、急に大事な用を思い出しまして。そいで店を閉めるんで、今日のところはどうか勘弁してください」
あれよあれよという間に、三人は店を閉め出された。じりじり照り付ける真夏の日差しと蝉の声だ。
「それでは、皆々様方、また」
藤助は行商人のような
原賢吾は、人波に紛れるまで追っていたが、わすがに首を捻った。
「妙な男だな」
「藤助さん、どうしたのかしら」
「さあ」
里哉は
(なんだろう、これ)
小さな黒い石だ。艶々と丸く、守袋にぴったり入りそうな大きさだった。
その場で捨てるわけにもいかず、里哉は小石を守袋に入れた。
手元をじっと見ているおふくに気づき、慌てて懐に仕舞う。
「駄目です。これは藤助さんに返すものですから」
「里哉さんの
「おふく殿!」
夏の餅は犬も食わぬなんとやらである──賢吾は二人を残し、通りを東へ、やはり福島橋へと向かった。
(続く)
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