51話 謎謎百万遍
そもそもは江戸市中、噂でもちきりのあれであった。
きっかけは、門前一丁目の
篠井里哉は、
男湯の入口から板間の脱衣所へ上がり、衣装棚の左手、よろず貼り出している壁が人だかりの中心であった。
「何でしょうか」
里哉は近づきのぞこうとしたが、無数の頭が邪魔で見えない。もともと小柄で、さらに目が悪い。
「なんだろうねえ」
隣に立つ倫太郎は、里哉の従兄であり、守るべき主筋でもあり、なによりも幼い頃より共に育った兄のような存在だ。年の頃は
「『
「サトさんと、二木様じゃありませんか」
おはようございます、と声をかけてきたのは花六軒長屋の
若いながら女好みの「端切れ」をよくそろえ、ちょっとした小間物も作っている。藤助という名と、名に合った優しげな容姿もあって、近頃繁盛している小店だった。
「藤助さん、この間いただいた
藤助は、あからさまにがっかりした顔になる。
「そうですか。あれはサトさんに、と思って作ったんですよ」
どこか恨めしげだ。
この藤助、なにかというと里哉に小物をくれる。どう見ても女物だからと、同じ長屋の福籠屋の一人娘のおふくや、女医者のお凛へ贈ってしまう。
「意外に極悪非道な男だな」と、坊主の
「ああ、いいです。また、作りますから。今度こそ人にあげちゃだめですよ」
「それで、あれはなんですか」
倫太郎が気をそらすように、壁を指す。
「謎かけ巡りのあの件ですよ」
「謎かけ巡り?」
「ご存知ないんですか?」
藤助は、驚いたように目を見張った。
「日本橋本町通りの旦那衆が講元になって、すべての謎かけを解いたら十両、もしくは好きな品がもらえるっていうんで、みんな目の色が変わっちまって」
「十両ですか」
里哉は目を見張った。
「うちの小間物屋も、十両あれば商いをもうちっと大きくできるんですがねえ」
「十両、ですか」
里哉は湯屋通いの道具を倫太郎へ渡すと、壁前の人だかりへ飛び込んだ。
「サトさん!」
「お里……?」
唖然として見ていると、すぐ最前列に現れた。眼鏡を外して瓦版に張り付く。
「お里、あぶない!」
途端、肘鉄を喰らって人の波に沈んでいった。
「知ってる、あたし、知ってる!」
手拭いを絞りながら叫んだのは、おふくだ。日本橋
この花六軒屋、深川門前町一丁目の南東角、さびれた稲荷神社の脇を入り、くねくねと路地を入った突き当たりにある。界隈では噂の「騒がしい」長屋だが、女医者の佐々
花六軒のいわれは、長屋の裏手、青物畑の真ん中にある見事な桜の大木だ。今は葉が繁るばかりであるが、花の季節になると菜花の黄色と相まって、それはそれは見事な眺めだ。
「あんた、相変わらず鈍くさいねえ」
湿布薬を練りながら、お凛が言った。
佐々凛は、長屋で診療所を開いている。実家は高名な町医者で、かつて仕えていた大名家が取り潰しとなり、江戸に出て開業した。お凛に言わせると「医者か
「脱げ」
里哉は踏まれた手首と、肘鉄で腫れた脇腹をさすりながら、お凛へ困ったような顔を向けた。晒に渋紙を敷いて、たっぷり湿布薬を盛る。
「早く脱げ」
「──はい」
「いいか、打身は温っためない。まず、冷やす」
「はい。すみません」
腫れた脇へぺたりと貼る。おふくは、濡れた手拭いをお凛へ渡すと、
「ちょっと、待ってて」
履き物をつっかけて、倫太郎の住居からおのれの住居へと飛んで行った。瓦版を手に戻り、座敷へ広げた。
「里哉さん、これでしょう?」
湯屋で見たものとは別の版だが、同じように〈謎謎百万遍〉との大文字がある。
「見せてください!」
湿布を当てたのを忘れて利き手を伸ばし、思わず呻いた。
「どれ、見せてごらん」
倫太郎が目を通し、「なるほど。面白そうだ」と里哉へ渡す。里哉は食い入るような目で、何度も読み返した。
大筋はこうだ。
これは、寺社への寄進を目的とした無尽講である。
講元は、江戸一番の目抜き通り日本橋本町の大店の旦那衆。主旨に賛同するならば、講衆となってほしい。
というのも昨年からの天候不順で、全国で不作や飢饉が続いている。今春も越前勝山では大雨に山津波と、多数の死者が出た。
だから死者の供養と豊作を祈念して、大江戸謎かけ巡り〈謎謎百万遍〉を催すことにした。
「倫太郎、なんで豊作祈願が無尽講で、しかも謎謎ごっこになるんだ」
お凛の疑問は最もである。
ちなみに無尽講とは、相互扶助で資金調達を行い、寺社の建築の資金に充てたり、困った仲間を助けるための仕組みだ。歴史は古く、五百年以上遡るという。広く同じような仕組みが全国にもあり、例えば上方では
「ああ、それは……ここだね。参加するには、掛金を納めるようだ。それをまとめてどこかへ寄進するのだろう」
「へー。なんだかあたし、騙されてるような気がする」
お凛は興味なさそうに、手早く道具を片付ける。午後の診療まで、それほど間がない。
「謎かけは八つだそうだよ。八つすべて解けたら十両か、発起人の店で好きな品を一点もらえるそうだ」
「十両、ですよね」
里哉は、
倫太郎は首を傾げた。里哉がこれほど「
「お里は、十両がほしいのかい」
「違います」
間髪入れず否定する。倫太郎はさらに首を傾げた。
「あの、若……倫太郎様、この謎かけをやってみてもよいでしょうか」
目が必死に訴えている。里哉にしては珍しいことだ。
(わけは、あとで聞き出すか)
倫太郎は頷いた。
「もちろんだよ。好きにおやり」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げて、また痛みに呻く。
「ただし、今日は安静にしてなさい。それが条件だ」
翌朝、里哉は住居の前で、紅色の千代紙包みを見つけた。小さな短冊がついていて「さとさま」とある。
「里哉さん、また?」
声をかけてきたのは、おふくだった。生家の福籠屋へ手伝いに出かけるところのようで、動きやすいこざっぱりとした格好をしている。紅い扱きで裾を端折り、同色の鹿子を髷に。娘らしい長めの袖がふりふりと愛らしい。
(おふくさん、かわいいなあ)
見とれる里哉の手から、素早く包みを取ると、断りもなく開いてしまった。
「なにかしら、これ」
出てきたのは、おそらく守袋だ。あざやかな色目の布を細かく
「きれいねえ」
「よかったら、差し上げます」
藤助だろうと思うが、やはりどう見ても女物だ。
「いいの?」
ぱっと花開いたように笑う。一日の元気が湧いてくるような笑顔だ。里哉もにっこり笑い返した。
「藤助さんも、使ってもらった方が喜ぶと思います」
「藤屋さんの小物って、結構人気なのよね」
ありがとう、とおふくは嬉しそうに懐へ入れ、手を振りながら出かけて行った。
(続く)
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