幕間(四)
その年、享保三年秋──。
江戸は江城、二の丸の広大な庭園である。池を囲む植栽は葉の色を変え、紅葉の艶やかさはひときわだ。池の中にには、色とりどりの水魚が泳ぐ。
波打ち際のような洲浜に、壮年の武家が立っている。傍らに初老の男が膝をつき、魚へ撒く餌を手渡していた。その二人を遠巻いて、多くの奥女中が控えている。
秋晴れの午後だ。一筋の雲が流れ、気持ちのよい風が吹いていた。
「それで、安藤はなんと言って寄越した」
餌を撒くと、水面が跳ねるようだ。
「はい。
「憤死とな」
吐き捨てるように言った。
「お声が高うございます」
「儂が紀州に招いた客人ぞ。叔父上の
「ご葬儀は田辺の本正寺にて執り行われ、戒名は『本地院殿守玄日得大居士』、墓所は和歌山の感應寺に建立されたとのことです」
徳川吉宗は目を閉じ、餌を握り潰した。
「怠慢なり」
「上様」
「安藤は附家老の身で、我が目となるを拒むか」
「それは酷でございましょう」
加納久通は、呆れたような口調で言った。
「上様が大納言様(紀州藩主)であらせられた当時、安藤殿はどちらを向いておりましたか」
「わかっておる」
吉宗は、しばらく無言で餌を撒き続けた。
「あれに変わりないか」
「はい。そのように」
吉宗は最後の餌を撒き終わると、両の手の屑を払った。
「雲龍斎に伝えよ。児次郎を江戸へ寄越せと」
「宜しいのですか。
答えは自明であったが、念のため加納は尋ねた。それがおのれの役義でもある。
「考えがある。雲龍斎も天秤をかけての策であろう。何よりも、尾を踏んだのは
暗に紀伊大納言
「それだけでは、すみませんぞ」
「わかっている。──角兵衛」
吉宗は声を落とし、水面を凝視した。
「運命などとは言いたくない。我ら二人は、互いに見出し、互いに選んだのだ。そしてまた、互いに……おのが意思で道を違えた。その狭間に
「新之助様」
吉宗は瞑目した。
「頼む」
加納久通は、無言で平伏した。
「わかさまー!」
鞠のようにかけてくる小さな姿があった。五つか六つぐらいの二人の子供だ。ひとりが途中で転ぶと、申し合わせたようにもうひとりも転び、ふたりで草叢を転げ出した。
二木倫太郎は手を振り、ふたりが遊びながら近づいて来るのを笑顔で見守った。
「ちちうえが明日、お見えになるそうです」
「お小夜が、わかさまを呼んできてくださいって」
「姉上も一緒に来ればいいのに」
「姉上は、姉上のしごとがあるんだって」
倫太郎は、にこにことふたりの会話をきくばかりだ。
そのうち二子のひとり、
「わかさま、まだ、お話できませんか?」
「おさと、そんなこといっちゃだめだ。姉上もいってたじゃないか」
「でも、おと。わたしはわかさまとお話ししたい」
倫太郎は里哉の頭を撫で、音哉の肩に触れた。「大丈夫」とでも言うように。
あの日以来、倫太郎は声が出なかった。話したいが、話そうとしても声にならない。篠井の里の薬師は、一時的なものだというが、すでに秋の風が吹き始めていた。
いま住うところも、里から離れたどこかだ。長田小三郎の葬いをすませたのち、里哉と音哉、ふたりの姉である
「だいじようぶです」
倫太郎のこころのうちを察するように、里哉が小さな手を絡めてくる。
「みんないっしょだから、お里はへいきです」
「あ、おさと、こわいんだ」
「こわくない!」
仔犬のようにじゃれあう。
倫太郎はその姿を見ながら、東へと雲が流れる空を見上げた。
そういえば、
(どうしているだろう)
懐かしい友の顔が、ひどく遠くに思えた。
夜半、紀州徳川家の芝屋敷である。奥向きの中庭に面した座敷から、庭先を睨め付ける男がいた。癇性な質であるのか、眉間のあたりが険しい。
障子戸は開け放たれ、周囲に人の気配はない。睨め付けるその庭先に、影が平伏していた。
「それで、行方はわかったのか」
「未だ」
影は平伏したまま言った。低いが、男の声ではない。
「そなた、行方を存じておろう」
「存じませぬ」
「誓ってか」
「我らは紀州様にお仕えする身。嘘は申しておりませぬ。さらに何に誓えと申されますか」
徳川宗直は笑んだ。信じていないぞ、と言わんばかりの笑みだ。
「まあよい。続けて探せ。見つけ次第、城下へ伴え。そう配下へ伝えよ」
「はい」
「
影は、さらに深く頭を下げた。
「たとえ我が子といえどもな」
(第四章「雲の旗手」へ続く)
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