46話 天と地の

 その夜半、秋津屋敷に賊が侵入した。

 気がついたのは、手水ちょうずに立っただった。不審な人影に寝巻姿のまま、長田おさだ小十郎の室へ走った。普段のさわであれば、自ら顔をしかめる大胆さである。


 小十郎は、即座に主君のもとへ駆けつけた。

 賊は三名。左門の寝間に押し入ろうとしていた。

 小十郎は、三陰流剣術の遣い手である。その場で一人いちにんを斬り捨て、残る二人は仲間のむくろを残し、逃げた。


 左門は無事であったが、賊と切り結んだ際に小十郎は腕に浅手を負い、小十郎の縁戚であった夜番の若者が命を落とした。左門はこの一件を口外無用とし、屋敷の者にかたく口止めをした。


 その時である。姿の見えぬ倫太郎らに気づき、大騒ぎとなった。もしやと、小十郎の指図で宝満寺へ人が走り、慧安えあんらが間一髪で倫太郎らを見出した。

 これが倫太郎がのちに聞いた、その夜の顛末であった。


 幸い、安藤申之介も無事であった。

 石畳に落ち昏倒したが、額を割った程度で大きな怪我はない。抱き起こした際、倫太郎の手に触れたのは、申之介の血ではなかったのだ。一夜明けて、鐘楼で血跡の残る短刀が見つかった。


 申之介は、委細を左門と小十郎へ申し述べたあと、黙り込んだまま部屋にこもってしまった。

 左門は申之介へ、倫太郎を守った礼を言ったという。小十郎はきつく叱った。倫太郎を戒めたのは、大叔父の左門である。


 しかし、倫太郎には何が起きているのか、まるでわからなかった。

 襲われたのは大叔父なのか、おのれなのか。あの賊が言っていた「母のもと」とはどういう意味なのか。


 ただならぬ様子で見知らぬ人物が出入りしたと思うと、大叔父と小十郎は奥の間で話し込むことが多くなった。倫太郎と申之介は、ふたりだけの外出を禁じられ、しばらくは息が詰まるような日々が続いた。


 そうしてひと月ほどが経ち、春の気配が膨らみ始める頃、秋津屋敷にもようやく日常が戻り始めた。





「申之介、見て。里では桜が咲き始めているよ」

「そうだな」


 屋敷の築地塀に沿う林道は、海近い城下町までを一望にできる。青々とした麦畑が風に揺れ、桜木が淡く染まり始めていた。

 倫太郎が、この道を鏑木かぶらぎ半兵衛はんべえと上がって来たのは昨秋のことだ。しばらく思い出すこともなかったが、どうしているだろうかと懐かしくなった。


 申之介は、近頃ようやく笑顔を見せてくれる。避けているとか、機嫌が悪いとかいうのではなく、ふと気づくと、黙ったままおのれの手をみつめているのだ。どうしたのかと尋ねると、いつも「なんでもない」と答えは変わらない。

 小十郎や大叔父と、真剣な様子で話している姿を見かけることもあった。あの日から、申之介との間に見えない溝ができたようで、倫太郎は友のこころをつかみあぐねていた。


 しばらく里を見下ろしたのち、申之介が言った。

「御山に戻ろうと思う」

「おやまって」

 ひとつしかない。

「金剛三昧院。俺が逃げ出して来た寺だ」

「どうして」

 倫太郎は、驚いて友を見上げる。

「どうして、か」

「申之介は、わたしに仕えると言った。わたしが主君あるじだって。忠義のために来たんだって、あの時」

 声が尖るのを止められなかった。

「なのに、わたしを置いて出て行くつもりなんだ。どうして」

「だから、こうして話している」


 申之介は落ち着いていた。二つしか違わないのに、おとなのような静けさだ。


「わたしは嫌だ! 離れるな! これは、……これは命令だ!」

 怒ると思った。しかし、申之介は静かな目のまま語った。


「倫太郎、俺は力不足なんだ。このままだと、おまえを守れない。俺はもっと学ばねばならない。鍛えないと、大きな人間にならないといけない。そのためには多分、逃げたらいけないんだ」

「申之介は、逃げてなんかいない! 理不尽に怒っただけだ!」

「いいや。俺は逃げたんだ」

 いまになって、なんでそんなことを言うのだろう。

「殿とも相談した。俺の考えをよしといってくださった」

「叔父上が」

 では、もう決まったことなのだ。


 気持ちの勢いが削がれていく。代わりにひとり蚊帳の外におかれたようで、自然と涙がにじんできた。

「俺と倫太郎は『友』だ。それは最初から変わらない。ずっと変わらない。でも、今のままでは『友』じゃなくて、『家来』にもなれなくて、ただの厄介者だ。だから『友』でいられるように修行して、おまえの役にたてるようになって、必ず戻ってくる。約束する」


 倫太郎は、目をこすりながら首を振る。絶対に申之介を行かせたくない。行ってはいけない──またひとりになってしまう。


 申之介は、ため息をついた。手を引かれて、倫太郎はとぼとぼと歩き、見晴らしのよい斜面に並んで腰かけた。早春の景色が、沈んだ鈍色にびいろに思えてくる。


「あのな、倫太郎。なんでこんなことが起こったと思う」

 わかるわけがない。そう言うと、申之介は背後の秋津屋敷を指さした。


「どうして自分で確かめない」

「え?」

「おまえは、何者だ」

「わたし?」

「そう。二木倫太郎って何者なんだ?」


 倫太郎は答えられなかった。おのれはおのれでしかない。それ以上、どうだというのか。


「なんで知ろうとしないんだ。おまえはどうしたいんだ、倫太郎」

 淡々と尋ねられ、倫太郎は混乱する。

「だって、わたしが知ってどうするの」


 そうじゃない、とわかっていた。知りたくないのだ。怖い。何が出てくるのか、こわい。考えないわけじゃない。江戸の屋敷と、突然の紀伊田辺への旅と、大叔父の左門と。おのれの身がらしいと覚えても、だからどうだというのだろう。母はいない。父もいない。自分の根っこがわからぬ気持ちが、申之介にわかるはずがない。


「俺と倫太郎は『友』だ。一生変わらない。俺を信じろ。信じられないなら、血判してもいいぞ」

 死をもって贖う武士もののふの約束だ。

「だから聞いてくれ。おまえは備えなければならないんだ。俺も、友であるおまえのために備える。しかし、それが何のためなのか、おまえ自身が知らなければ、意味がない。知ることは武器だ。武器があれば、定められた道でも変えられる」

「申之介は、わたしが何者なのか知っているの?」

「たぶん」


 たぶん、おのれも知っている。だが、


 その時だ。ふと、ひらけたような気がした。

 おのれがどこに立ち、何を思っているのか。何を嬉しいと、楽しいと、苦しいと、悲しいと感じているのか、同じ自分なのに、目に映るもの、肌をなでるものが、まるで別物のようにくっきりと際立ってくる。


 おのれのなかに、もうひとりの「倫太郎」がいた。ほんのひとまわり小さいおのれの姿だ。怯えた目をして、膝を抱えて丸くなっている。

 倫太郎は、手を差し伸べた。ともに踏み出そうと、両の手をとる。


 途端、足元から緑が薫った。草の青さが匂い立つ。

 倫太郎はそれをいっぱいに吸い込んで、少しづつ吐き出した。


「わたしは、知りたい」


 自然じねんと声になった。声にすると、ずっと望んでいたことだとわかる。


「わたしは知りたい」


 おのれが何者であるのか。何者にならねばならぬのか。知らねば道が見えぬ。知らねば、選ぶこともできぬ。

 振り返ると、申之介が真っ直ぐに秋津屋敷を指差していた。


「行けよ」

「うん」


 倫太郎は駆けた。全力で駆け、屋敷へ飛び込む。

 大叔父は、今日も自室で書物と向き合っていた。障子戸を勢いよく開け、肩で息をしながら言った。


「教えてください」

 左門は、驚いた様子もなく問い返した。

「何を知りたい」

「すべてを」

「座りなさい」


 待っていたのだとわかった。与えるのではなく、倫太郎自らが求めるその時を。


「叔父上、わたしはおのれが知らねばなりません。なにもかも、すべて教えてください」





 安藤申之介が秋津屋敷を発ったのは、桜の花が里から咲き登り、満開を迎えた頃だった。

 左門は高野山金剛三昧院の住持宛に書状をしたため、小三郎へ持たせた。高野山まで、申之介を送っていくためである。


 出立の日、申之介は髷を切って頭を剃り上げた。

 申之介は少し恥ずかしそうに倫太郎へ笑いかけると、左門へ礼をとる。


「皆さまのご厚情、肝に刻み決して忘れません」

「折を見て、また遊びに来なさい」

「はい。ありがとうございます」

「倫太郎殿のことは案ずるな」

「殿もお健やかに。倫太郎様をどうぞよろしくお願い申し上げます」


 成人のような挨拶を交わし、倫太郎へはいつものようにと笑う。


「夏になったら、枇杷びわを食いにくる」

「待っている」

 必ず。

 うん。必ず。


 そうして申之介は、小三郎に伴われて高野山へと戻っていった。田辺の城下へと遠ざかる背を、倫太郎は丘の上から見送った。


「そろそろ入りなさい」

「また、会えるでしょうか」

「唐天竺へ行くのではない。来られずば、行けばよい」

「はい!」


 大叔父の掌を肩に感じた。その重みとあたたかさに、別れの寂しさがかすかに癒やされるようだった。





(続く)


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