47話 南海の竜(上)

 馬上から振り返ると、火の手が上がっていた。屋敷が燃えている。


「小三郎!」

「お掴まりください!」


 途端、長田小三郎の叱責が飛ぶ。倫太郎は小三郎の腰に腕をまわした。血だ。血のにおい。


「小三郎!」

「ご心配なく。決して手を離してはなりませぬぞ!」


 馬が跳ねた。門を蹴破るように跳躍し、夜陰を疾走し始める。


「小三郎、叔父上は!?」

「左門様のご命令です!」

「叔父上!!」

 振り向こうとして身体が浮く。小三郎の手が引き戻す。

「舌を噛みます! 黙っていてください!」


 聞こえぬとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。小三郎が獣のような唸り声を上げている。まるで悲鳴のようなそれに、倫太郎は目を閉じ、しがみつく腕に力を込めた。

 耳元で風がごうごうと音をたてる。胃の腑がひっくり返りそうな吐き気を抑え、あふれ出る涙を飲み込んだ。


(なぜだ、なぜだ、なぜだ!!)


 倫太郎は振り落とされまいと必死にしがみつき、馬とともに駆け抜けた。






 時は少し遡る。

 安藤申之介が高野山へ発ってほどなく、秋津屋敷に客人があった。めずらしく倫太郎も呼ばれ、書院にて対面した。


 篠井児次郎こじろうと名乗った男は、宝満寺で出会った二子ふたごの父親だった。寺では遠目にうかがうのみであったが、あらためて相対すると、親というよりまるで兄のようである。大叔父と談笑する様子から親しい間柄とわかったが、いったい誰なのか、なぜおのれが呼ばれたのか見当がつかなかった。


「わが家の腕白どもも、倫太郎様のことはよく覚えております」

音哉おとやどのと、里哉さとやどの、ですね」

 瓜二つの兄弟は、が大事にしている白菊人形のように愛らしかった。


「実は、里哉が兄で音哉が弟なのですが、実際は逆のようで、なにごとも音哉が里哉を引き回している始末です」

「うらやましいです。わたしも時折、兄弟がいたらと思います」

「ならば丁度よい。わが居館やかたへ参られても、仲ようやっていけましょう」

 倫太郎は驚いて、大叔父を振り返った。

「小三郎が高野山から戻り次第、出かけてくる」

「遠方へいらっしゃるのですか」


 秋津屋敷へ来て約半年。大叔父が、田辺の城下を越えて遠出した姿を見たことない。左門は、笑みを含んだ声で言った。


「ここに囚われているわけではない。小松原に用がある。少し足を伸ばして、和歌山まで行ってこようと思っている」


 和歌山城主である紀伊大納言徳川宗直むねなおは、前伊予西条さいじょう藩主であり、大叔父左門の実弟にあたる。和歌山城下までは海路を取れば往復二日、陸路でも三、四日あれば十分な旅程であった。


「では、私はここでお帰りをお待ちしております」

「そうしてもよいのだが」

 と、左門と児次郎は軽く頷きあった。

「少し、外で話をいたしましょう」


 倫太郎を庭へ誘ったのは、篠井児次郎であった。首をかしげながらも、倫太郎は連れ立って新緑に彩られた庭へと降りた。桜に代わって、紫木蓮しもくれんが満開だ。


「倫太郎様は、かつてこの紀州の地に水軍があったことはご存知ですか」

「水軍、ですか」

 絵巻物の源平旗が目に浮かぶ。


「熊野水軍、九鬼水軍などと申し、半島南部より瀬戸内にかけて、源平の頃より覇を競ってまいりました。元亀天正の世まで、この田辺も熊野水軍の本拠地の一つで、わが一族は水軍を束ねた熊野別当に近しい家筋であった聞いています」

 いきなりの話で、倫太郎は曖昧に頷く。


「その後、天下分け目のいくさのあとは浅野様に仕え、浅野様のお国替えとともに、紀伊徳川様に仕えることとなりました」

 二人は、広く砂利が敷き詰められた庭へ出た。禅寺によくある枯山水の庭である。


「そうはいっても、水軍とはいわば海賊。乱世にいう乱波らっぱ透波すっぱの類いに近い。それゆえ篠井はその素性を活かし、表には出て来ぬ御家の大事を、未然に防いできたのです」

「つまり、忍びの者、ですか?」

 江戸の屋敷で、申之介が持ち込んだ絵草紙が浮かぶ。それを察してか、児次郎は苦笑した。

「呪文を唱えて蝦蟇がまに乗ることなどありませんが、当たらずとも遠からず、と申しておきましょう」

 

 と、庭の中央で足を止めた。もとより周囲に人影はない。


「なぜこのような話をするのかと、不思議に思っておられるでしょう」

「はい」

 児次郎は遠くを見遣った。

「姉、なのです」

 倫太郎は、きょとんとした。

「あなたの母は、悠女は、私の母違いの姉にあたります。つまり、私は──」

「『叔父上』なのですか?!」

 声が裏返っていた。

「はい。そういうことになります」

「では、里哉どのと音哉どのは」

「従兄弟、ということになりましょうな」

 突然のことで、倫太郎は目の前に突然現れた『叔父』を、目を瞬きながら見返すばかりであった。


「左門様は、万が一を案じておられます。留守の間だけでも、我が家へお越し下さい」

 倫太郎は首を振った。

「それではご迷惑がかかります。この間の賊も、わたしの身に用があるようでした。そんなことをしたら、皆様にご迷惑がかかってしまいます」

 従兄弟だという幼いふたりにも。しかし、児次郎はきっぱりと言った。


「御身が危険なのは倫太郎様。すべては左門様と……」

 と、そこで口をつぐむ。

「そのことは、追々道中にてお話ししましょう」


 倫太郎は、そこでようやく考えが至った。先日の賊が言っていた「母のもと」という意味は、まさか──。


「もしや、母上は」

 児次郎は、倫太郎の目を見て頷いた。

「あなたの母は、生きている」


 倫太郎の周囲から、音が消えた。母の声が、ぬくもりが、忘れかけていた思い出が次々とよみがえってくる。

 左門より父のことは聞いていたが、母はすでに亡きものだと思い込んでいた。


「お元気……、なのですか」

「私の知る限り」

「お会いできますか?」

「いずれ」


 倫太郎がその意味を知るまでには、いま少し時を要する。





(続く)




 



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る