49話 南海の竜(下)
馬は、曙光のなかを疾走した。
丘を駆け下り、川沿いの道を右手に折れる。途中、橋を渡ってさらに北上する。
小三郎は追手を気にするように、絶えず背後を振り返っていた。
やがて紀州の深い山林が迫り、薄暗い山道をさらに進んだ。次第に道は狭く、足元が悪くなっていく。馬を歩かせ、いくつかの峠を越えた。
空見上げると、鬱蒼とした木々が覆いかぶさってくるようだ。こずえの合間から陽が降り注いでくる。
しがみつく腕も、鞍にあたる尻も痛かった。なによりも小三郎の様子が心配だ。少しずつ、身体が前のめりになっていく。心配というより、恐ろしかった。
「倫太郎様、ここで、少し、休んで参りましょう」
道幅が広くなり、山側には丸太が積んである。小三郎は馬を止め、落ちるように下馬した。
倫太郎は鞍から飛び降りて、地面にうずくまった小三郎へ駆け寄った。
「大事ありません。少し休めば……」
馬から水筒を外して手渡すと、やっと一口飲んだ。倫太郎の手を借りて身体を起こし、丸太へ寄り掛かる。
「ああ、よい天気ですね」
空がよく見えた。視界が開け緑の尾根が続く。空は五月らしく晴れ渡り、鳥の囀りが降るようだ。
「教えてください。なにがあったのですか」
小三郎はまず全身をながめ、倫太郎の無事を確かめた。
「刺客です」
「刺客?」
とっさに理解できなかった。
「殿と小松原の九品寺を目指しておりました。到着直前に、賊に襲われたのです。あれは物盗りではありません」
「叔父上は、ご無事ですか?!」
「わかりません」
「ならば、早く戻らないと」
馬駆け出そうとする倫太郎の袖を、小三郎がつかんだ。
「左門様のご命令です。あなた様を無事お送りし、見届けるようにと」
「どこへですか」
「児次郎殿の
そして、疲れたように目を閉じた。
「ここまで来れば、あちらが見つけてくれるでしょう。幸い追手もいまのところ──」
疲れ切ったのか、目を閉じようとする小三郎を、倫太郎は揺さぶった。
「刺客とは、どうしてですか」
「甚太郎様とは思いたくありませんが……」
「小三郎!!」
大きく揺すると、はっとしたように顔を上げた。倫太郎を認め、道の先を指差す。
「私は、ここで少し休みます。すぐに追いつきますので、倫太郎様はこの道をまっすぐ行ってください。迷うことはありません」
なおも深い山道が続く。
「何があっても、道を外れてはなりません」
「嫌だ」
ここに、小三郎を置いては行けない。
「わたしは戻る。叔父上のところへ行く。一緒に戻ろう!」
小三郎は首を振った。その目は冥い。
「ならば」
必死に言葉を探す。小三郎を連れて行くための言葉を。
「ならば……、ならば、わたしを送れ。叔父上の命を果たせ。わたしが叔父上に代わって命じる!」
小三郎は、驚いたように目を見開いた。その奥に、わずかに生気が戻る。
「あなた方は、よう似ておられる」
深く息をつくと、倫太郎の肩につかまって、ようやく立ち上がった。
「わたしは歩くから、小三郎が乗って」
もう逆らわなかった。
なんとか騎乗し、鞍に掴まる。おそらくどこかに
(早く着かないと)
「小三郎、篠井の叔父上の
一刻ほど歩いたが、まだなんの気配もない。足元の道だけが、わずかな人の往来を物語っている。
馬を止めると、小三郎の身体が揺れ、落ちた。
その時だ。
小枝を踏み折る音に、倫太郎は驚いて振り返った。周囲の木々と重なるように、複数の人影があった。屈強そうな男たちが姿を現す。
警戒にうなじがちりちりと痛んだ。
小三郎を庇うように前に立ち、短刀を抜く。
「倫太郎様!」
男たちをかき分け、小柄な篠井児次郎が駆け上がってきた。
それから後は、夢のようだった。
大勢の男たち、女たちが現れ、児次郎の指図で、小三郎が運ばれていった。
倫太郎は児次郎らとともに、さらに山の奥へと踏み入った。悪路だからと担がせようとしたが、倫太郎は頑として聞き入れなかった。
どれほど歩いたか。
里だ。田畠と住居が並び、なかでもひときわ大きな
「あれです」
(ああ)
あそこならば安全そうだ。
すると、疲れが大波のようにやってきた。踏ん張って立ってようとするが、足に力が入らない。
「──小三郎は」
「倫太郎様!」
返答を聞く前に、視界が暗転した。
気がつくと、白木の天井の部屋にいた。
板間に夜具がのべられ、ひとりで寝ている。外はまだ明るいから、それほど時は経っていないのだろう。遠くからは、心地よい水の音が聞こえていた。
(ここは、どこだ)
起き上がると、全身が痛んだ。
「あ、おきたよ」
「ちちうえに、お知らせしなくちゃ」
閉めた杉戸の向こうから、幼い子供たちの声がした。倫太郎は、そっと歩みよって戸を開けた。
「わっ!」
「きゃっ!」
「ちちうえに、知らせてくる!」
「まって、おと、まって!」
ひとりが長い廊下の奥へかけていった。残ったひとりは、なにかおそろしいものでも見るように、倫太郎を見上げている。
「里哉どの……?」
振分け髪の頭を振って、にじり下がる。
「ここは、どこ」
「倫太郎殿、目が覚めましたか」
篠井児次郎だった。二子の片割れを抱いて廊下の奥のほうからやってくる。
その姿を目にしたとたん、ぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。
「小三郎は、……小三郎はどうしましたか? 怪我は大丈夫ですか?!」
児次郎は、音哉を下ろした。
「まる一日眠っておいででした。ご気分はいかがですか」
「一日も?」
まさか、まだ日は高い。
「疲れていたのでしょう。だから、起こしませんでした」
「小三郎は」
首を振った。
「かなりの深傷を負っておいででした。よくここまで倫太郎様をお連れできたものです」
「まさか。そんなこと」
実感がわかない。さきほどまで、一緒に馬に乗っていたのだ。しがみ付いていた温もりも憶えている。
「では、叔父上は……?」
小三郎は、賊に襲われたと言っていた。九品寺という寺の近くで。
児次郎は答えない。倫太郎は、なにが起きたのかまるでわからなかった。
それでも理解したことがある。
大叔父も小三郎もすでに、いない。
そう悟ると、身体が震えた。それが怒りなのか、悲しみなのかわからなかった。だだ全身が震え、ガチガチと奥歯が鳴る。拳を握りしめ、叫び出しそうになるのをぐっと堪える。
と、倫太郎の拳を、小さな柔らかものが包んだ。
里哉だった。
怖さをこらえるように眉を寄せ、おずおずとしながらも、両の手で倫太郎の手を包んでいる。
「わ、わかさま。あの……、どこか痛いのですか?」
倫太郎は、幼い従兄弟とおのれの拳を交互に見やる。
「あの、い、痛い時、わたしは……おとと手を結んで泣きます」
倫太郎は、里哉の手をとった。柔らかな、小さなあたたかい手が、そっと握り返してくる。その温もりを心地よいと思った瞬間、鼻の奥の痛みに目を瞑った。大粒の涙が、次から次へとあふれてくる。
「なぜ」
それ以上、言えなかった。
倫太郎は、里哉を縋るように抱きしめ、声を殺して泣いた。
(続く・第三章了)
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