48話 南海の竜(中)
それから七日の後、
「申之介殿は、戒名を師の僧より授かりました」
「なんという名ですか」
大叔父松平左門の居室で、少し日に焼けた小三郎が笑顔で語る。
「はい。
懐紙を出して、書いて見せた。
「なんだか、別人のようですね」
「別人のようでした」
声を立てて笑い合う。倫太郎はその紙を、おのれの懐へ大事そうにしまった。
「倫太郎殿、少し小三郎と話がある」
「はい」
「では、後ほど」
部屋を辞する際、大叔父の沈鬱な表情が気になった。
倫太郎は、文机に「
硯を出して、横に小さく「申之介」と入れる。そうすると、ようやくふたつが繋がったような気がした。
夏には
(友だから)
と、宝満寺の
(和歌山から送ってもらおう)
小三郎へ託そうと、倫太郎は大叔父の居室へ引き返した。
「──いまさら何用だ」
渡り廊下まで響いた怒りに、倫太郎は足を止めた。広縁へまわり、開け放たれた障子戸の際へにじり寄る。膝を突き合わせるように話し込む、二人の姿をうかがった。
「──のことはご存知なのでしようか」
「知ってのことであれば、叛意ありと疑われても仕方なかろう。そこまで私怨に目を曇らせているとは思いたくない」
「安藤様のご心配も、そこにあるものかと存じます」
左門は、しばし黙した。
「ならば、できることをやらねばならぬ。待つばかりでは、また手遅れになる」
「左門様」
「あの時も、私が父を諫めるべきであったのだ。その責を結局、
「そうではありません」
小三郎はきっぱりと言った。
「大殿と殿、お二人の身になにかあれば、それこそお家は改易となっていたでしょう。左門様は、西条藩をお救いくださったのです」
「そうではない」
断じたが、すでに声音は和らいでいた。「小三郎」と普段どおりの柔らかに呼ぶ。
「おまえも損な役回りだな。付いてこずともよかったのに」
「また、申されますか。殿おひとりでは、心
「そう言い続けて、もう
「そろそろ
二人は笑った。
「来いというならば行こう。何かが変わるかもしれん。太守となって、あれも思うところがあろう」
「お変わりなき時は……」
左門はしばらく黙した。
「その時は、私にも考えがある」
倫太郎は、そっと自室へ戻っていった。
──大叔父は、誰かに呼び出されて出かけていくらしい。
倫太郎は文机に、新しい紙を広げた。
真ん中に、「松平左門」と書く。大叔父の名を中心に、聞き知った人物の名を入れていく。おのれの名も入れ、互いの関わりを朱墨で加えた。
「安藤」というのはこの紀伊田辺の領主であり、紀伊徳川家の附家老だろうか。
では、さきほどの「渥美」とは、誰なのか。
倫太郎は「紀伊大納言 徳川宗直」と入れ、「弟」と朱書きした。
(なぜだろう)
なぜ大叔父ではなく、弟が西条藩を継いだのだろう。おのれに非があると左門は言うが、倫太郎には信じられなかった。立派なひとだと思う。大叔父を知る誰もが、親しみと敬いを持って接していた。
小三郎も、嫡子となる前から、多くの家臣に慕われていたと言っている。
それがなぜ廃嫡され、このような暮らしをしているのか。
倫太郎は父の名を加え、さらに朱墨で囲む。そして「紀州から江戸」と書き、宗直の横に「伊予から紀州」と書いた。左門にさらに「江戸から紀州」と入れ、ため息をついた。
それから十日余の後、左門は小三郎と小者をひとりを伴い秋津屋敷を出立した。五月も末近い、よく晴れた朝だった。
倫太郎のことは、日をおかず篠井児次郎が迎えに来る予定になっている。
「留守の間は、剣術も学問も児次郎がみてくれよう。しっかり励みなさい」
皐月の風を背に、馬上の大叔父は目を見張るほど立派だった。
「叔父上も、どうかご無理なさいませぬよう」
左門は、馬の首を巡らしながら笑った。
「久しぶりの騎馬ゆえ、倫太郎殿の忠告、肝に銘じよう」
小三郎は、騎乗する前に倫太郎へそっとささやいた。
「立ち聞きは不調法ですぞ」
「はい」
頬が熱くなる。
「殿、参りましょう」
「そうだな」
二つの騎影が、ゆっくりと道を下って行く。
倫太郎は里を見下ろす高台へ走った。手を振る。遠ざかる影が小さく、木々の陰に入るまで見守った。
それからの数日は、倫太郎の出立の用意で大騒ぎだった。奥女中のときは目の縁を赤くし、行李に倫太郎の身の回りのものを整えながら「さびしくなります」と繰り返してさわに叱られていた。
倫太郎はというと、いつも通りの日課を過ごしながら、つい笑顔になってしまう。
もうじき新しい「旅」が始まるのだ。不安よりも期待が勝った。
叔父の
(母上は、お元気だろうか)
夜、床に入っても様々なことを思い巡らし、いつの間にかぐっすり寝入っていた。
肩を揺すられ、目を覚ました。
「倫太郎様」
「さわ?」
「お支度ください」
まだ暗い。ほんのり東の空が白み始めた頃だ。
さわは手燭を置くと、手早く倫太郎を着替えさせた。用意してあった旅支度である。
「どうしたの。なんで急に」
張り詰めた面持ちで、「お静かに」とだけ言う。
「待って、叔父上から頂いた短刀を」
支度ができると庭へ降り、手を取られたまま裏門へと走った。
「小三郎?!」
さわは無言で倫太郎を手渡すと、深く一礼して戻っていった。
「どうしたの、小三郎」
「ご説明は後ほど」
倫太郎を鞍へ上げると、おのれも騎乗する。
「小三郎、叔父上は? どちらにいらっしゃるのですか」
「掴まってください」
──なにか、おかしい。
変事が
「小三郎! 叔父上は?!」
馬を操りながら、小三郎は油断なく辺りに目を配っている。
「教えて! 叔父上はどこ!」
「左門様は」
小三郎は、声を飲んだ。
その時、風に乗って煙のにおいが流れてきた。
馬上から振り返ると、屋敷内から火の手が上がっている。秋津屋敷が燃えている。
「小三郎!?」
「決して手を離してはなりませぬぞ!」
馬が跳ねた。裏門を蹴破るように跳躍し、夜陰を疾走し始める。
倫太郎は振り落とされまいと、必死にしがみついた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます