32話 一陽来復
「
佐々燿太郎は、懐紙を広げた。
「ほら、お
「ちょっと、横筋に逸れないで」
「これからが、いいところなんだけどなあ」
放っておくと、燿太郎はどこまでも続けそうだった。
神田紺屋町、うなぎ長屋の一部屋である。
燿太郎とお凛、具合の悪い
「あ、笙船先生」
嬉しそうに手を振る。
お凛は、実兄の馴れ馴れしさに目眩がしそうだった。元々は、燿太郎の方こそ笙船と知己であった。しかも、確か師匠筋になるはずだ。
「燿太郎。つまり、丹生の水銀朱。その毒にあたったという見立てか」
「ええ、たぶん」
「水銀毒は、以前診たことがある。鉛毒と似て、長い時をかけ体内に堆積し、発症する。病状は重篤だ。
笙船の言うことも最もだった。
確かに、うなぎ長屋を起点に患者の広がりはあるが、場所は限定されている。
「そこなんだよね」
燿太郎は、眉を寄せて何度も頷く。相手が師匠でも、態度は変わらない。
「水銀毒には、二つあるらしい。ひとつは笙船先生が仰るように、長い間食べたり、触れたりして病に至る。で、もうひとつは、燃やして煙を吸い込んだ時。こっちも相当危ない。なによりも、すぐに病状に出てくる」
と、燿太郎は、目の前の燃えかすを示した。
「水銀をね、燃やした臭いがする。──ああ、念のため嗅がないで、そこのお兄さん!」
お兄さんとは、手を出した森島四郎のことらしい。
「真慧、ここでなにを燃やしたんだ」
お凛の問いに、泥のような顔を上げた。
「
「
「近所の餓鬼どもに、作ってやってた。で、そこにあった薪と
目眩に吐き気、あまりの怠さに、真慧は床に頭を付けた。
「おい、真慧! しっかりしろ!」
焦るお凛の横で、燿太郎は呑気なものだ。
「ああ、牛若はたぶん大丈夫だ。これ以上、吸ったりしなければ。時間がたてば抜けていくよ。他の長屋の人たちも回復しているようだしね。うん。たぶん」
「たぶんて、燿太郎さんよ、おい……」
お凛は、真慧の頭を膝に乗せて、子供のようになでてやった。
「では、この朱いものが」
森島四郎は、箸先で燃差しを寄せて、付け木らしきものを示す。確かに、朱の色が残っていた。息を詰め、箸で摘んで茶碗に入れる。
「こんな付け木は珍しいですね。元がなんだかわかれば、
「最初の病人は誰? それこそ、最初の人に聞いてみてよ」
「わかった」
幾分むっとしたように答え、森島は燃差しを入れた茶碗を持つ。長屋で最初の病人は、
佐太郎と市松親子から、まず話を聞く必要があった。
「これが、その画でさあ」
御用聞きの留蔵は、懐から緋色の包みを取り出した。銀座竹川町のおゆたから預かった例のものである。
大きさから、掛軸そのものではなさそうだった。
「なかは改めたのか」
「滅相もない」
間髪入れずに言って、留蔵は首を竦めて見せた。まるで
「いつもなら、むろんわっちの目で確かめてから、旦那にご披露するんですがね。今度ばっかりは迷ったもんで。まず、旦那にご覧いただくのが筋と思いやして」
武部小路を一本入った、日本橋佐内町の借家である。
そこで南町奉行所町廻り同心の堤清吾と、家主の吉次、そして堤の御用聞きである留蔵が、膝を突き合わせていた。
時刻は日暮れて六ツ半。西の空にほんのり茜色が残っている。
吉次は座敷に行灯を集めると、灯明に火を入れた。
「二木さんはまだかえ」
「先に始めますか?」
吉次の家に、大抵酒はない。留蔵から報せが届くと同時に奉行所を抜けて、まず酒屋と煮売屋へ寄った。
今晩の菜は、浅利の生姜煮らしい。旬である。
丁度その時、訪う声と戸口が開く音がした。
「やあ、皆さん、お揃いですね」
「二木さん、あんたはいつも最後だな」
堤の文句は、手にした徳利と早く昵懇になりたいためだろう。二木倫太郎は、にこりと笑って、堤の隣に座る。
「実は、今日、長屋で妙なひとに会ったのです」
「妙?」
「大久保家のお女中、梅乃殿」
「なんでまた」
堤は湯呑みに酒を注いで、倫太郎へ回した。
「どうぞ、わっちはお構いなく」
留蔵だ。
「いやね、お鯉が飲むなら家で飲めって煩いんで」
鼻を鳴らして、堤はおのれの椀へ注いだ。
「で、あの奥女中が二木さんのところへ何しに来たんだ」
「私のところではなく、陽堂殿を訪ねて来たのです」
倫太郎は手短に、梅乃から聞いた小川陽堂との関わりを伝えた。屋敷まで送る道すがら、
「それよりも、例の猿の掛軸で、なにか進展があったそうですね」
「実は、二木の旦那」
今度は、留蔵が表絵師の娘、おゆたの一件を報告する。
地道な探索が、あれよあれよと繋がる様は、芝居の筋書きを見ているようだった。
「だから、御用聞き《この仕事》は辞められねえんで」と破顔する。
「それで、こいつが」
と、留蔵は最後に、勿体をつけて緋色の鹿子絞りの包み指した。
「例の猿の画に違いねえ」
「驚いたなあ」
倫太郎の感心したような嘆息で、妙な間があく。
謂れと因縁への畏れか、物好きからの酔狂なのか。つまり、誰が包みを開けるのか。
実のところ、堤も迷っていた。
(ここで改めるか、このままお奉行へ渡すか)
「確かめないんですか?」
止める間もなく、横から手が出た。
その手は、あれよあれよという間に包みを解いて、出てきた巻紙を広げていく。倫太郎は広げて、重石に酒徳利を置く。
「なんだこりゃ」
わずかに下がって見ていた留蔵が、突拍子もない声を上げた。
確かに“猿”だった。猿の画だ。表装の上下は千切れ、
それでも確かに、猿なのだ。
一匹の獣が岩場に四つん這いになって、笑いながら
まるで血が乾いたような、濁った赤だ。赤というよりも黒に近い。しかも絵の片足は切り刻まれて、そこだけぽっかりと穴が空いていたのだ。
「──困ったな」
倫太郎は畳に画を広げ、腕を組んだ。
誰彼となく、全員からため息が漏れていた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます