32話 一陽来復

辰砂しんしゃとはね、赤い石。血のように赤い、とても綺麗な鉱石のことなんだ。別名丹生にうともいってね」


 佐々燿太郎は、懐紙を広げた。竈門かまどから集めた、木屑と燃えかすだ。


「ほら、おやしろの朱塗りの柱。塗りや、絵具としても使われているあれ。辰砂には、不思議な質があってね。晒していると次第に黒くなっていくんだ。これを黒辰砂っていうんだけど。──ああ、勿論、時間はかかるけれどね。そういえば一度、長崎で恐ろしく綺麗な辰砂を見たよ。清の国から逃げてきた漢人が、秘宝の竜血を見せると言うので付いて行ったら。まあ、……いろいろあってね。そう、その石なんだけど、まるで血が凝ったようだったよ。日本では、西国でよく採れるらしいけれど、お大師様が各地を回って掘り出したとか言うんだよね。どこまで信じていいのか。私は、かなり眉唾ものだろうと思うんだよ」

「ちょっと、横筋に逸れないで」

「これからが、いいところなんだけどなあ」

 放っておくと、燿太郎はどこまでも続けそうだった。


 神田紺屋町、うなぎ長屋の一部屋である。

 燿太郎とお凛、具合の悪い真慧しんねのほか、小石川養生所の小川笙船しょうせん、森島四郎も戻ってきていた。二人はうなぎ長屋以外にも、近隣で同じような病状がないか診て回っていた。

「あ、笙船先生」

 嬉しそうに手を振る。

 お凛は、実兄の馴れ馴れしさに目眩がしそうだった。元々は、燿太郎の方こそ笙船と知己であった。しかも、確か師匠筋になるはずだ。


「燿太郎。つまり、丹生の水銀朱。その毒にあたったという見立てか」

「ええ、たぶん」

「水銀毒は、以前診たことがある。鉛毒と似て、長い時をかけ体内に堆積し、発症する。病状は重篤だ。長屋ここでは、総じて軽い。それに、食べるものが汚染されていたのであれば、近隣からもっと多くの患者が出てもおかしくない」


 笙船の言うことも最もだった。

 確かに、うなぎ長屋を起点に患者の広がりはあるが、場所は限定されている。


「そこなんだよね」

 燿太郎は、眉を寄せて何度も頷く。相手が師匠でも、態度は変わらない。


「水銀毒には、二つあるらしい。ひとつは笙船先生が仰るように、長い間食べたり、触れたりして病に至る。で、もうひとつは、燃やして煙を吸い込んだ時。こっちも相当危ない。なによりも、すぐに病状に出てくる」

 と、燿太郎は、目の前の燃えかすを示した。

「水銀をね、燃やした臭いがする。──ああ、念のため嗅がないで、そこのお兄さん!」

 お兄さんとは、手を出した森島四郎のことらしい。


「真慧、ここでなにを燃やしたんだ」

 お凛の問いに、泥のような顔を上げた。

軽目焼カルメやき

軽目焼カルメやき?」

「近所の餓鬼どもに、作ってやってた。で、そこにあった薪と火口ほくち、あと、近所からもらった付け木だ。──お凛、それより、俺、死ぬのか?」

 目眩に吐き気、あまりの怠さに、真慧は床に頭を付けた。

「おい、真慧! しっかりしろ!」

 焦るお凛の横で、燿太郎は呑気なものだ。

「ああ、牛若はたぶん大丈夫だ。これ以上、吸ったりしなければ。時間がたてば抜けていくよ。他の長屋の人たちも回復しているようだしね。うん。たぶん」

「たぶんて、燿太郎さんよ、おい……」

 お凛は、真慧の頭を膝に乗せて、子供のようになでてやった。


「では、この朱いものが」

 森島四郎は、箸先で燃差しを寄せて、付け木らしきものを示す。確かに、朱の色が残っていた。息を詰め、箸で摘んで茶碗に入れる。

「こんな付け木は珍しいですね。元がなんだかわかれば、経緯いきさつがわかるかもしれない」

「最初の病人は誰? それこそ、最初の人に聞いてみてよ」

「わかった」

 幾分むっとしたように答え、森島は燃差しを入れた茶碗を持つ。長屋で最初の病人は、表店おもてだなの小間物屋だ。

 佐太郎と市松親子から、まず話を聞く必要があった。




「これが、でさあ」

 御用聞きの留蔵は、懐から緋色の包みを取り出した。銀座竹川町のおゆたから預かったである。

 大きさから、掛軸そのものではなさそうだった。


「なかは改めたのか」

「滅相もない」

 間髪入れずに言って、留蔵は首を竦めて見せた。まるですっぽんである。


「いつもなら、むろんわっちの目で確かめてから、旦那にご披露するんですがね。今度ばっかりは迷ったもんで。まず、旦那にご覧いただくのが筋と思いやして」


 武部小路を一本入った、日本橋佐内町の借家である。

 そこで南町奉行所町廻り同心の堤清吾と、家主の吉次、そして堤の御用聞きである留蔵が、膝を突き合わせていた。

 時刻は日暮れて六ツ半。西の空にほんのり茜色が残っている。


 吉次は座敷に行灯を集めると、灯明に火を入れた。

「二木さんはまだかえ」

「先に始めますか?」

 吉次の家に、大抵酒はない。留蔵から報せが届くと同時に奉行所を抜けて、まず酒屋と煮売屋へ寄った。

 今晩の菜は、浅利の生姜煮らしい。旬である。


 丁度その時、訪う声と戸口が開く音がした。

「やあ、皆さん、お揃いですね」

「二木さん、あんたはいつも最後だな」

 堤の文句は、手にした徳利と早く昵懇になりたいためだろう。二木倫太郎は、にこりと笑って、堤の隣に座る。


「実は、今日、長屋で妙なひとに会ったのです」

「妙?」

「大久保家のお女中、梅乃殿」

「なんでまた」

 堤は湯呑みに酒を注いで、倫太郎へ回した。

「どうぞ、わっちはお構いなく」

 留蔵だ。

「いやね、お鯉が飲むなら家で飲めって煩いんで」

 鼻を鳴らして、堤はおのれの椀へ注いだ。


「で、あの奥女中が二木さんのところへ何しに来たんだ」

「私のところではなく、陽堂殿を訪ねて来たのです」


 倫太郎は手短に、梅乃から聞いた小川陽堂との関わりを伝えた。屋敷まで送る道すがら、福籠屋ふくろうやの女将、お登勢とも知り合いであることがわかった。


「それよりも、例の猿の掛軸で、なにか進展があったそうですね」

「実は、二木の旦那」

 今度は、留蔵が表絵師の娘、おゆたの一件を報告する。

 地道な探索が、あれよあれよと繋がる様は、芝居の筋書きを見ているようだった。

「だから、御用聞き《この仕事》は辞められねえんで」と破顔する。


「それで、こいつが」

 と、留蔵は最後に、勿体をつけて緋色の鹿子絞りの包み指した。

「例のに違いねえ」

「驚いたなあ」

 倫太郎の感心したような嘆息で、妙な間があく。

 謂れと因縁への畏れか、物好きからの酔狂なのか。つまり、包みを開けるのか。


 実のところ、堤も迷っていた。

(ここで改めるか、このままお奉行へ渡すか)

「確かめないんですか?」

 止める間もなく、横から手が出た。

 その手は、あれよあれよという間に包みを解いて、出てきた巻紙を広げていく。倫太郎は広げて、重石に酒徳利を置く。


「なんだこりゃ」

 わずかに下がって見ていた留蔵が、突拍子もない声を上げた。


 確かに“猿”だった。猿の画だ。表装の上下は千切れ、しみや、にじみ、汚れがついている。

 それでも確かに、猿なのだ。


 一匹の獣が岩場に四つん這いになって、笑いながら此方こちらを見ている。ぎょろりとした目は、獣よりもひとに近い。全身を豊かな茶金の毛がおおい、しかしその首より上は雪のような白、脚はといえば、──べたりと赤黒い。

 まるで血が乾いたような、濁った赤だ。赤というよりも黒に近い。しかも絵の片足は切り刻まれて、そこだけぽっかりと穴が空いていたのだ。


「──困ったな」

 倫太郎は畳に画を広げ、腕を組んだ。

 誰彼となく、全員からため息が漏れていた。




(続く)




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