33話 三者を継ぐ
「どうした。なにか気に障ったか」
声をかけてきたのは、お凛だ。
「気に障ってなどいません」
「どうしたんだ」
お凛の大きな目は、嘘を許さない厳しさがある。
「単なる
「妬心? どういうことだ」
森島は、燃差しが入った茶碗を差し出した。
「私がこの長屋へ入って、すでに七日。原因が何なのか、まったくわかりませんでした。しかし、お凛殿の兄上は、着いてものの
ああ、とお凛は頷いた。口元に笑みを掃く。
「燿太郎は、非凡だから」
「おのれの無能ゆえですが、それでも
「これが原因とは決まったわけじゃない。だが、その気持ちはわかる」
森島は、怪訝そうに眉を寄せた。
「私には、ああいう兄が三人いるんだ。それぞれ才は異なるが、到底太刀打ちできない」
「お凛殿とて」
と言って、言葉を呑んだ。
「おなごにしては、か?」
「いや、そういうことでは」
否定したものの、首まで赤くなっていた。
するとお凛は、まるで初めて会ったかのような目で、森島四郎を見上げた。
「おまえ、案外にいい奴だな」
どう返せばよいかわからず、森島は口ごもる。
お凛はというと、さっさと小間物屋の勝手口へ向かって行った。
「早く来い! 置いて行くぞ」
「──お陰をもちまして」
と、小間物屋の佐太郎は頭を下げた。
まだ
やつれは残るが、顔色もよい。今朝からは粥を食べらるようになったと、息子の市松が嬉しそうに言った。
「先生方のお陰です。こいつも母親を亡くしたばかりで、どれほど心もとなかったか」
「平気だよ、おれ」
あくまでも父親に心配をかけたくないらしい。
森島は佐太郎へ、燃差しの入った茶碗を差し出した。
「佐太郎さん、これに見覚えありませんか」
かすかに朱が残る、付け木らしき残骸。手を伸ばそうとするのを制止する。
「毒? この燃えっかすが、ですか?」
「今回の流行り病の元かもしれないのです。心当たりがあったら、教えてください」
「これは付け木ですね。うちは、いつも向かいの五平さんから買ってるんですが、それ以外は、これといって。──そういえば、五平さんの様子はどうでしょうか」
「安心してください。大分よくなりました」
お凛が、残った朱を示す。
「色はどうだ。寺や、お社みたいな
「差物」
さっと、佐太郎の顔色が変わった。
「心当たりがあるのか?」
「佐太郎さん、どうしました」
ぶり返したかと、案じるほどの顔色だった。
佐太郎はしばらく茶碗を抱えていたが、意を決したように顔を上げた。
「もしかしたら、この騒ぎは自分の所為かもしれません」
「──で、俺が呼ばれたってことか」
翌朝辰ノ刻(午前八時頃)、場所は同じく、神田紺屋町のうなぎ長屋である。
南町奉行所町廻り同心の
お凛が呼んだのは堤だけだったのだが、いつの間にか、倫太郎までが付いて来ていたのだ。
「牛若、気分はどうだ」
「やあ、倫太郎」
「当代一の医者がついている。心配するな」
「いやだね。心配してくれよう」
漢方で吐気や腹痛を抑え、あとは水分をとりながら寝ているしかないのが現状だ。
「南蛮菓子なんか、作らなければよかった」と、ぼやくのへ、
「治ったら、今度はお里に作ってやってくれ」
「あー、だなー」
額に乗せた倫太郎の手は冷たい。真慧は気持ち良さそうに小さく息をついた。
「二木さん、こっちに来てくれ」
部屋にはお凛に森島四郎、堤と倫太郎である。お凛の兄燿太郎と小川
「真慧は辛そうだな」
「ああ。心配ないと思うが、あと数日はこちらにいて様子をみたい」
倫太郎は、お凛へ微笑みかけた。
「あいつの運の良さは知っているだろう? 何よりも、流行り病ではないとわかってよかった」
「それを言うなら悪運だ」
すかさず「うるせー」と背中の方から返ってきた。
土間の隅には、わずかに朱が残る付け木の束。細く割かれた朱い木切れが少し。そして、燃差しが一山置かれていた。すべて病人が出た世帯から集めたものだ。
「お里坊が神田紺屋町の長屋で流行り病が出たと言っていたが、これが原因だっていうんだな」
「そうです」
森島は、並んで座るお凛と倫太郎が気になるようだ。
「病人が出たすべての世帯にありました。付け木は、五平さんが長屋の道端に落ちていた箱を、もったいないからと商売道具にしたものです」
盗んだのではないと、五平は何度も繰り返していた。
「その程度のこと、咎め立てるほどのことじゃねえだろう? 俺を呼んだ理由は何だ」
「市中の噂は、ご存知でしようか」
「どんな噂だ」
「さる旗本屋敷より、東照神君様ご拝領の家宝が盗まれたとか」
「ふん」
堤は、興味なさそうである。
「それと、この流行り病がどう関わる」
森島は、佐太郎から午後一杯かけて聞いた話を、かいつまんで説明する。
「表の小間物屋は、佐太郎さんの亡くなったお内儀の商いで、佐太郎さんは紙屑買いをしているそうなんです」
紙屑買いとは、買い集めた
──あの日、買い付けた屑ものを仕分けていると、妙なものが入っていることに気づいたんです。
それは、朱塗りの箱だった。しかし、どこで誰から買ったのか、まったく覚えがない。
家紋付きの塗箱で、開いてみると
「それほど小さいものでもないのに、どこで手に入れたのか、誰が持ってきたのか、まるでわからないそうなのです。かといって、探して回るのも気が進まず、そのままにしてしまったそうなのです」
探し回り、
「家紋とは、どんな紋ですか」
のんびりと、倫太郎が横から口を出した。
「藤紋のなかに、大の字のようなものが、こう」
と、森島は聞いたように描いて見せた。
「ああ、なるほど」
確かに、“大久保
「それで始末に困って、掛軸は気味が悪いので通りがかりの古道具屋へ、二束三文で売ってしまい、箱は持ち帰って、煮炊きの薪にしたところ、嫌な臭いがしたので外へ投げておいたそうなのです」
「で、五平が拾ったって訳か」
「まあ、そんなところです」
「つまり、こうか?」
堤は、面倒臭そうに話をまとめる。
「その箱と掛軸が、噂のお宝かもしれない。万が一、東照神君様のお宝を売ったり、バラしたりしちまったとしたら、とんでもないことになるんじゃねえかと、今になって心配になった」
お凛は、むっとしたように堤を睨む。
「いけないか。だから、念のためだと言った」
途端、堤は爆笑した。
「そりゃ、
あっさり否定して、さっさと大刀を執る。
「こちとら忙しいのに、そんなことで呼ばれちゃ堪らねえな」
「倫太郎」
お凛が隣を肘でつつくが、にっこりと笑顔のまま、堤を引き止めもしなかった。
「大丈夫だよ、お凛。堤さんこういうなら、案ずる必要はない、ということだ」
「じゃあな。長屋の連中には大事にしろと伝えてくれ」
また、何かあったら遠慮するな、と言い残し、堤は奉行所へ戻って行った。
森島とお凛は、どこか釈然としない様子で、それを見送った。
(続く)
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