30話 深川八幡
梅乃は曲がりくねった路地を抜け、賑やかな通りに出てから息をついた。
町の活気とは裏腹に、沈んでいく気持ちを抑えられない。最初から期待はしていなかったが、それでももしかしたらと、思うことはあったのだ。
お屋敷へ戻って、ことの次第を奥様へお伝えせねばならない。
(どれだけ気落ちなさることか)
幼過ぎる若様の手前、精一杯気丈に振る舞っておいでだったが──。
梅乃は、薄曇がたなびく皐月の空を見上げた。
永代寺の大屋根に、遠くに朱の大鳥居。物売りの声に加えて、海の方からは微かに潮の香りがする。
(帰りたくない)
まだ、
梅乃は、人の流れに入って行った。
富岡八幡宮は、寛永四年(一六二七)に創建された、江戸随一の八幡宮である。
源氏の氏神、八幡大神を祀ったことから徳川家の手厚い庇護を受け、門前町を中心に発展してきた。
参道には大小料理茶屋が、一歩入れば“深川七場所”と呼ばれた岡場所(私娼窟)が軒を連ね、聖と俗とが入り混じった歓楽地として、広く庶民に親しまれたのである。
梅乃は、参道を進んで二ノ鳥居をくぐる。朱の太鼓橋を渡れば境内だ。
視界が一気に開け、足元からは正面の本殿へと石畳が続いていく。
右手には、松や桜に囲まれた大きな池。左手は、別当寺である永代寺へと続くのだろう。
梅乃は、本殿を目指して大勢の参詣客と石段を上った。
御詣りしようとして、ふと気が変わった。
本殿の奥、茶屋や料理屋の一角の、賑やかな人の流れがある。
「お尋ねしますが、皆さんはどこへおいででしょうか」
すぐ前に並んでいた、年配の母娘らしい二人連れに声をかけた。
「ああ、お嬢様。あれは大山
老婆は、にこにこと答えて道順を教えてくれた。
「ありがとう存じます」
梅乃は丁寧に礼を言って、列から外れた。
本当の山など、登ったことはない。見たこともなかった。
十六までは麹町の呉服屋で育ち、外出といえばお稽古ごと程度。必ず乳母やか女中が連れ添った。
大久保様に行儀見習いに上がっても、たまにお供の外出か、せいぜいお蔵の二階から眺める程度である。
山というからには、覚悟して行ってみたものの、目の前に現れたのは、庭の大きな築山のようなものだった。土というより石積みで、頂上まで石段が続いている。
この山の名は石尊山。石尊権現を祀る高さ二丈(六メートル)ほどの築山だ。
思いの外苦労して上ってみると、老婆のいう通り頂上からの眺めは格別だった。江戸の町を遠くまで見渡せる。
海も見えた。その向こうに富士山が霞んでいる。海辺には小舟が繋がれ、転じて足元は八幡宮の弁天池。永代寺のお庭も見えて、東の方は木場らしい。浮かぶ材木の上に職人たちが、豆粒のように見えていた。北はずっと寺社や大名屋敷の瓦屋根。手前の町屋や御旗本の牡蠣殻葺きが続いている。
梅乃は、目を凝らした。
おそらく、あれが仙台堀。大久保家の下屋敷はその近くだ。
「──あれが仙台堀です。少し東へいって、小さな寺が続くあたり。あの橋を渡って、大きな池が見えるのが久世様のお屋敷。大久保様のお屋敷は、たぶんあの辺りでしょう」
突然、隣から声がした。梅乃は驚いて振り返った。
若い男が立っていた。武家拵えで、にこにこと笑顔で北を指している。
「あれは、伊達様のお蔵屋敷。夏の花火は素晴らしい。今年も、またぜひ拝見したいものです」
年はおのれと同じほどか。身軽な
なによりも、いきなり声をかけられたのに、警戒する気持ちがまるで湧かなかったのだ。
男は、やはり心を読むように、自ら名乗ってきた。
「失礼した、梅乃どの。私は、二木倫太郎と言います。小川陽堂殿と同じ、花六軒長屋に住居する者です」
では尾けてきたのか、とようやく警戒に目を細める。
二木倫太郎は、軽く首を振り否定した。
「尾けてきたわけではありません。陽堂殿から、お屋敷までお送りするよう頼まれたのです。おひとりで町歩きは物騒ですからね。ところが思いがけず、深川八幡へ足を向けられたので、あわてて後を追ってきた次第です」
やはり尾けたことになりますねと続け、倫太郎は爽やかに笑った。
不埒者が、自ら怪しいと名乗るわけがない。梅乃はほっとしたように警戒心を解いていた。
「私もここへは幾度か足を運びましたが、何度来ても飽きません」
「私は初めてでございます」
梅乃は指を伸ばして指し示す。
「あれが大川でごさいますね。永代橋に、新大橋、そして両国橋」
大勢の行楽客が、同じようにあちこち指さして声を上げている。
「木場があれほど広いとは存じませんでした。何よりも、波間に浮かぶ富士の美しいこと。それから大きな千代田の御城。あの辺りが、麹町でございましょうか」
そこには、梅乃の生家がある。しばらく宿下りをしていないが、父母や兄に変わりはないだろうか。
続けたのは、倫太郎だった。
「そして、あの辺りが桜で名高い隅田堤です。中洲を挟んだその向かいが、先日、梅乃殿がおいでになった、今戸です」
「今戸」
梅乃の胸が、どきりと鳴った。
「はい。梅乃殿がお訪ねになった和久井屋の寮は、ちょうどあの辺りになります」
消えた警戒心が戻ってくる。
「二木様、なぜ、それをご存知なのですか」
「そうですね」
「もしや、もしや二木様は、御公儀
掛軸の件が漏れ、すでにご詮議が始まっているのかもしれない。しかし、倫太郎はあっさり否定した。
「違います」
「では、なぜそのことを」
「大久保様が、あるものの探索をある方へへ依頼しまた。私はそれを手伝っているのです」
殿様がなにを、どなたに頼んだのか。この男は、なぜそれを知っているのか。
「では、小川先生もすべてご存知なのですか?」
「陽堂殿は、まったく知らぬことです」
ますます訳がわからなかった。
薄気味悪さと、滅多なことを言うまいと身構え、倫太郎から身を引いた。
「貴方様は、一体何者ですか」
「単なる野次馬です。それを買われて、時折奉行所の役人を手伝っています。こたびの事件は、聞けば聞くほど不思議な話で面白い。ぜひ、お力になりたい」
ふざけたものいいだったが、倫太郎の口調は真剣だ。
──このお方は、嘘をついていない。
梅乃にとって、それは勘としか言いようがないものだった。
役人を手伝っていることも、力になりたいと言っていることも、
しかし──。
「私にはほかに申し上げることはございません」
「そうですか」
二木倫太郎は、あきらかに落胆していた。
「わかりました。しかし、お屋敷へはお伴させてください。送っていきます」
「ありがとう存じます」
倫太郎は、あたたかな笑顔で大きく頷いた。
(続く)
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