29話 梅乃の決意
場違いな女が迷い込んで来た。
原賢吾は思った。
深川門前町一丁目の、花六軒長屋である。
水を汲もうと桶を持って外へ出ると、あきらかに武家とわかる頭巾姿の若い女が立っていた。周囲を見回し、どうしたものかと迷っているようだ。
巳の刻(朝八時頃)も過ぎ、留守にしている店子も多い。賑やか過ぎる女医者は、坊主と一緒に出かけたままで、落ち着かない旅籠の娘は、今日も家業の手伝いのようだ。
「どうされた」
声をかけると、女は飛び上がらんばかりに驚いた。
年は二十から二十五の間。真っ直ぐな目線が印象的な女だった。
「あの、こちらに小川陽堂様のお住まいがあると聞き、お訪ねしたのですが……」
ああ、と賢吾は納得した。八卦見の小川陽堂は、思いのほか有名らしい。普段は本人が出かけていくが、時折、急ぎの客が訪れることがあった。武家、町人、男女問わず、それぞれに理由があるようで、一様に思い詰めた目をしている。
「陽堂殿ならば、左側中央です。この時刻であれば、居られるはずだ」
「ご親切にありがとう存じます」
女は深々と頭を下げ、目的の戸口で訪った。
「もうし。小川陽堂様はご在宅でございましょうか。先日お目にかかった梅乃でございます」
原賢吾は井戸へ向かいながら、背中で聞いていた。
「梅乃どの、どうされたのです」
小川陽堂は、慌てて戸を開き招き入れた。
供もなく、ひとりで立っている。梅乃は、もともと麹町の大店育ちだ。深川一帯の猥雑な土地柄は、あまり得意ではないだろう。
「さ、お上がり下さい」
陽堂は、畑地に面した障子戸を開き、風と光を入れた。煎じ茶を温めて勧める。喉が渇いていたと見え、一息に飲み干し、恥ずかしそうに茶碗を置いた。
「急にお訪ねして申し訳ありません」
「一昨日、福籠屋の
「はい、伺っております。生憎所用があり、すぐにお返事できずに申し訳ありませんでした」
三つ指をついて頭を下げた。
「それで、いかがでしょうか」
梅乃の目は縋るようだ。
「梅乃どの」
陽堂は、慎重に言葉を選んだ。
「もともと
「はい。承知しております」
「その後、幾度か卦を見てみましたが、やはり一向に定まりません」
「と、申されますと」
「恐らく、お探しの物はひとところに留まっておらず、幾つにも分かれて広がっているのではないかと、こう思うのです」
「どういうことでございましょう」
陽堂は、まったくの推測であると断り、
「掛軸は人の手から手へ渡っているのか、それとも」
言い淀む。
「それとも?」
「ご存知のように掛軸は画そのものと、軸木など表装と、それぞれに価値があります。もちろん一体であることでその値を上げますが、
梅乃は、陽堂の見立てを検分するかのように、幾度か小さく頷いた。そしてふと頭を上げると、外から流れてくる風にようやく気付いたように目を向け、口元を綻ばせた。
「小川容堂様のお見立て、確かに頂戴いたしました」
「あまり役に立てず、申し訳ない」
とんでもないと、梅乃は首を振る。
「私の方こそ、急にお訪ね申し上げ、大変失礼いたしました。福籠屋のお登勢様より、こちらは気持ちのよいお住居とうかがっておりましたが、確かにさようでございますね」
梅乃は懐から包みを出し、陽堂の膝元へと置いた。
「どうぞお納めくださいまし。私の金子ではござりませぬ」
「梅乃どの、いまひとつ」
陽堂は、立ちかけた娘を止める。
「いずれ、すべてはうまく納まりましょう。それだけは確かなこととしてお伝えできるのです」
梅乃は微笑んだ。
「左様でございます。うまく納めねばなりません」
梅乃は、幾度も礼を言いながら帰っていった。その後ろ姿を見送ったものの、次第に様子が気になってきた。
奥へ取って返して身支度を整え、急いで後を追おうとする。
「陽堂先生!」
木戸をくぐり、通りへ続く曲がりくねった一本道を行くと、向こうから二木倫太郎の侍者、里哉が向かって来るところだった。
「里哉殿、よいところでお会いした。武家仕えのお女中を見なかったでしょうか。どちらへ曲がったのか教えて頂きたい。
「ああ」
言い終わらぬうちに、里哉は満面の笑顔になった。
「陽堂先生のお客様でしたか。そのお女中でしたら、倫太郎様が後をついていかれました」
「二木殿が?」
「はい。倫太郎様もご存知のお方のようで、おひとりでは危ないので、そっとお屋敷まで送って行かれると、そうおっしゃっていました」
陽堂は迷った。梅乃と倫太郎が知り合いとは聞いていない。追うべきか、任せるべきか──。
「そうですか。二木殿が送ってくださるのであれば安心です」
「若様がついていれば、心強いですよ」
陽堂は、おのれの勘を信じた。
「ところで里哉殿、おふたりでどこへお出かけだったのですか?」
「湯屋です」
なにかよいことでもあったのか、里哉は漏れ出す笑みを抑えられないようで、くつくと喉で笑っていた。
(続く)
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