24話 二兎を追う
「二木さん、いるかえ?」
南町奉行所の町廻り同心、堤清吾が深川門前町一丁目の花六軒長屋を訪ねたのは、午後も遅い時刻だった。夕暮れには一刻ほどあるが陰は長い。
「堤様、先日はありがとうございました」
出迎えたのは、二木倫太郎の侍者、里哉である。と言っても狭い長屋だ。二階があっての二間で、それでも多くの棟長屋よりも余裕のある
先般の〈白〉騒動のあと、堤は時折ふらりと立ち寄っては、長屋の誰かと無駄話をして帰っていくようになった。
その堤に、なぜか里哉が懐いていた。堤の方でも、「里坊へ」と、菓子折を手土産にすることもある。
「この間のは、
「はい。麩の焼!(どら焼きの原型)みなさんで頂きました」
「二木さんは?」
二階を顎で指す。
「外です」
外とは、裏北の菜っ葉畑のことである。畠と桜の見事な古木があった。
そうかい、と受けながら、
「挨拶に寄っていくよ。ところで、今日はやけに静かだな」
この長屋はいつも
「おふくさんは、えっと、
里哉のものいいに、微妙な引っ掛かりがある。
「お凛先生と
「流行り病?」
里哉は眉を寄せた。鼈甲枠の眼鏡と生真面目な表情が、昌平坂あたりの私塾に通う書生のようである。
「はい。詳しくはまだわからないのですが、小石川養生所の小川先生もおいでになっているみたいです」
「そうかい。後で確かめよう」
本当に流行り病なら、大事になる。堤は幾人かの目明かしの顔を浮かべながら、長屋の突き当たりの厠を曲がり、北側の畠へと出た。
こんな所に、と思うほど視界が開ける。青々と何かの野菜が茂り、畦道が真ん中を突き抜けて、その先に桜があった。
春にはさぞかし見事だろうが、今は枝葉を四方へ茂らせ、気持ちのよい木陰を作っている。
その木陰の下に、二木倫太郎は座り、本を広げていた。
「堤さん」
顔を上げ、いらっしゃいと本を閉じる。
「武田の『甲陽軍鑑』か」
「ええ、まあ」
二木倫太郎は、不思議な若者だ。
年の頃は
面立ちは美丈夫というより、人柄と育ちのよさを伝えるものだ。
自称ただの素浪人だが、
さらに、上司である南町奉行より、倫太郎の身辺を調べるよう命じられていた。無理は承知で理由を問うたが答えはなかった。ただ一言「知らぬ」との返答から、さらに上の方からの話と踏んでいた。
そんなことは
「二木さん、退屈してねえかい?」
案の定、倫太郎は目を輝かせて身を乗り出した。
「事件ですか?」
「
大源寺である。
住職の良徳を訪ねたのは、八卦見の小川陽堂であった。
二人は庭の見える座敷で、寛いだ様子で茶を嗜んでいる。
「さらに、猿は比叡山の山王権現
江戸の三大祭は、山王祭、神田明神祭、深川祭である。特に山王祭はもっとも盛んで、豪華絢爛かつ巨大な山車が、市中より江戸城中まで練り歩き、将軍家自らが天覧した。
「かの天海僧正は、江城の鬼門を寛永寺をもって封じ、裏鬼門に増上寺をおいたとか」
「左様。城を縄張りする際は、必ず鬼門封じを致すもの。天下普請となった江城はなおさらであったろう。このようなことは、拙僧よりも、陽堂殿の方がよく存じておられよう」
陽堂は、
「では、
「鬼、であろうな」
即答にううむ、と唸る。
「やはり、鬼でごさいますか」
では、と問う。
「猿が動けば、鬼も動く。このように言えるのでしょうか」
「はて」
小川陽堂の問いに、大源寺良徳は首を傾げた。
「方位自体は動かぬもの。動けば方位とならず、違えられぬ」
「左様でございますな」
まるで禅僧同士の問答だ。
「なれど、除けるべき鬼門は、方違えのごとく人により、ものにより、その方位を変ずる。鬼門そのものよりも、何にとっての鬼門であるか、そこが大事かも知れませんぞ」
「やはり、そう思われますか」
と、よくわからぬ結末に二人で深く頷き、煎じ茶を啜った。
「それにしても、嫌な夢見ですな」
陽堂は、ため息をついた。
「私に予見の力などありませんが、さすがに困っております」
頼まれた失せ物の行方を占じたら、何かが妨げるように卦が定まらない。そのうち妙な夢を見た。気味の悪い夢見の意味するところに迷い、良徳を訪ねたのである。
「つまり、誰にとっての鬼なのか、でございますな」
「恐らく」
陽堂は、心中やれやれとため息をついた。
「失せ物は、大層な
「まあ、なければ探さぬだろうて」
「最も、最も」
二人で呵呵と笑い、ではこれでと陽堂が席を立つ。
「そういえば」
帰りしなに思い出したように付け加えた。
「原殿ですが、先日、こちらから戻って以来、相当に思い詰めた目をしておられますぞ」
何があった、とは訊かない。
「それだけ伝えておきましょう」
「それはそれは」
二人はゆっくりと礼を交わし、夕暮れの中、小川陽堂は帰途についた。
(続く)
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