23話 流行り病の源は
付け木売りの五平は、裏長屋の隅で朱い箱を見つけた。長さ一尺、幅五寸ほどの朱塗りの箱だ。蓋付きらしいが、それはない。
丁度、振り売りの商いから戻った時だった。
表長屋の小間物屋、佐太郎親子の勝手口、その向かいの板塀のあたりに無造作に放ってあったのだ。去年、はやり風で連れ合いを亡くした佐太郎だが、今は、十二になる息子が店番を務めていた。
五平は道具を置いて、よいしょと屈みながら手に取った。
しっかりした造りの、落とし物というには不釣り合いな品だった。
誰が置いたのだろうと見回すが、見ている者はいない。奥の井戸端から、
五平は、そのきれいな箱が無性に欲しくなった。
きれいな赤だ。割って木屑にしてもいい。
近頃は商売
もう一度見回してから素早く拾い、振り売りの商売道具へ入れ込んだ。
逃げるように、おのれの住居へ滑り込む。
障子戸を閉めてから、そっと出した。
うす暗いなかでも、気持ちが浮き立つ赤い色だ。
眺めているうちに、ふと我に返る。
こんな高価なもの、捨てたとは思えない。
だとしたら、盗んだことにはならないか。無論、盗むつもりなど微塵もない。しかし、もし戻そうとしてその姿を見られたら、盗んだと思われてしまうだろう。
(なんでこんなものを)
拾っちまったのか。
五平は、震えながら頭を抱えた。
七日前のことであった。
お凛が戻らない。
小石川の養生所へ戻ると言ったまま、帰ってこなかった。
同じ長屋の住人である
二木倫太郎は二人の身を案じて、翌日、里哉と共に小石川養生所へと足を運んだ。
案の定、お凛は戻っていなかった。番小屋の中間によると、凛先生は大先生と出かけたきりだという。
「小川笙船殿とか」
「へえ」
「倫太郎様、もしかしたら、まだあの長屋ではないでしょうか」
このまま行ってみましょう、という里哉に、倫太郎はためらった。
長屋で小間物屋の父親を診たあと、お凛は倫太郎に強く言った。厳命といってもいい。
「あたしが良いというまで、ここには来るな」
常にない口調だった。
「流行り病かもしれない。おまえは近づいてはいけない。わかっているな」
わかっていると頷かなかったが、倫太郎も向こう見ずではない。おのれ
どうすべきか返答しかねていると、
「お凛どののお身内か?」
養生所から出てきた若い男が、声をかけてきた。眼差しの強い、実直そうな男である。年は、お凛よりも少し上だろうか。
「倫太郎様、あのお方、確かお凛さんの……」
お凛の天敵で、森島四郎という名だった。奥医師桂川
「身内ではありませんが」
倫太郎は名乗り、昨日の経緯と、お凛の様子を知らないかと尋ねた。
「ああ、それは」
どう伝えるか迷っているようだった。
「実は、
「お凛は、流行り病かもしれないと言っていましたが……」
森島は、すぐに首肯はしなかった。倫太郎へ探るような目を向け、言葉を選ぶ。
「まだ、わかりません。異変がない者もいます。皆がみな、具合が悪いわけではないようです」
これからおのれも行って、診てみるつもりだと言う。
決めつけないその物言いに、倫太郎は好意を持った。
どもあれ、お凛がどこにいるかわかっただけでもよい。常のことで、真慧が側にいるのだろう。
「では、お凛に無理せぬよう伝えてください。あと、必要なことがあれば知らせるように。必ずどうにかする、と」
そう伝えれば、わかるはずだ。
森島は頷き、少しためらってから尋ねてきた。
「二木さん、お凛どのとはどのような……」
関わりか、と問う声は小さく、首筋まで赤くなっている。
「い、今のはお忘れください」
「お凛は、私の幼なじみです。子どもの頃、叱られてばかりいた。だから、姉のようなものかもしれません」
「そ、そうですか」
愁眉が開くとは、こういうことだろう。森島は途端に目を輝かせた。
「では、お凛どのにはそのようにお伝えします」
そして、支度があるからと、駆けるように養生所へ戻って行った。
「なんだか、よいお方のようですね。どうしてお凛さんは嫌っているのかな」
「本当にそうだね、お里」
「……倫太郎様、なにを笑っていらっしゃるのですか?」
不思議がる里哉の前で、倫太郎は浮かんでくる笑みを抑えられなかった。
「──しかし、妙です。流行り病というには病人が少ない」
神田紺屋町の裏長屋は、三丁目の角の稲荷社を入ったところだ。うなぎ長屋の通り名どおり、くねくねと細長い。
お凛は、小川笙船とともに長屋へ戻ると、佐太郎親子は笙船へ任せ、三十軒近い長屋を一軒一軒、具合が悪い者はいないか訊いて回った。
すると、佐太郎の裏向かいの男をはじめ、点々と寝込んでいる者が見つかった。
皆、同じように吐き気に腹痛、腹下し、全身のだるさやむくみを訴え、重篤まではいかないが、厠へ辿り着くのも難儀していた。
しかし、不思議なことに、同居する身内は無事で、男、女の区別もない。
お凛は聞き取った話を書き起こし、森島四郎と時の流れに沿ってまとめて直した。
「先生、最初はたぶん、佐太郎さんだ」
「確かに、お凛どののいう通りです」
「ああ、よく調べたな」
三人が顔を付き合わせているのは、長屋のなかの一間だ。大家に言って空いている部屋を貸してもらったのだが、しばらく店子が不在だったらしく、どこか黴臭い。
町医者小川笙船は、この時五十代半ば。小石川養生所の設立に深く関わり、初代の肝煎役となった。
「だが、いま少し様子を見よう。腹にくるはやり風ならよいが、場合によっては奉行所へ届けた方がよいかもしれん」
「はい。幸い、命にかかわるほどの者はないようです。ここ数日で回復するようであれば、問題ないかと思います」
「だが、どこからきたのだろう」
お凛は、広げた書き付けを凝視している。
「お凛、なにが気になっている」
「笙船先生、この病、どこかに原因があるはずです。しかし、共通点がわからない」
聞き取りを行うなかで、食べ物や井戸の水、商いなど、聞き取った内容に、これといった共通項はない。
しかし、伝わった流れは見えている。もう少し調べていけば、見えそうな気がするのだ。
「お凛どのは、病の
森島四郎が言った。
「患者は、私が診ています」
お凛は、ふと我に返ったように顔を上げた。
「いいのか?」
「原因があるなら、私も知りたい」
お凛は、真意を探るように穴が開くほど凝視した。
「わかった。すまない。任せる」
そして、にこりと笑った。
どこからとなく、噂が立つ。
──江戸は朱い
(続く)
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