21話 疫神の兆し
一方、
少年は市松といい、歳は十二。父親と二人、間口九尺のささやかな小間物屋と、紙屑買いで生計を立てていた。
父親が寝付いたのは、五日前だ。熱はないが
近所の町医者に
医者を呼ぶには金子がかかる。母が亡くなってからは小間物屋もうまくいかず、店をたたんで、裏長屋へ引っ越そうかと考え始めた矢先であった。
思いあまって大家に相談したところ、小石川に養生所というお上のお医者がある。行ってみたらと勧められ駆けつけてみた、ということらしい。
その父、佐太郎は、店の奥の六畳間で床に着いていた。
お凛は、勝手口から入るなり眉をしかめた。薄暗い中から、饐えたような臭いと、かすかな異臭が鼻をついた。
「倫太郎とお里坊は、外にいてくれ」
背後に言って、戸を閉めた。
座敷へ上がり、病人の側へ座る。市松は、汚れた洗いものを片付け、お凛の邪魔にならないように、父親の枕元に膝をついた。
「ととさま、お医者さまが来てくれたよ」
「……ああ、市松か。いま帰ったのかい?」
父親は、布団の中で丸めていた身体を伸ばし、おっくうそうに目を開けた。
「どなた様ですか」
のぞき込むお凛に驚き、身を起こそうとする。途端、眉を寄せ、硬く目を閉じた。
「起きなくていい」
「ととさま、この方はお医者さまだよ。小石川の養生所から来てくれたから」
「佐々凛といいます。診せてください」
女医者に驚いている余裕はないようだった。
お凛は手際よく問診し、腹のあたりを触診してから手足の
ついでのように市松も診てから、後で薬を届けるからと、佐太郎に笑いかけて外へ出た。
「おっとさん、最近、ひどく疲れやすいとか、言っていなかったか?」
いいえ、と市松は首を振る。
「前の日まで、紙屑買いにでかけてました。急に、本当に急になんです。かかさまみたいに、もし……」
と涙ぐむ。
「市松、あんたは本当に大丈夫なんだね?」
「はい」
不安そうにお凛を見上げる。
「また、明日来るから。万が一、あんたも具合が悪くなるようだったら、すぐに知らせておくれ」
お凛の念押しに、市松はしっかりと頷いた。
「行くよ」
お凛は二人を促した。
「どうですか、市松さんのお父上は」
急ぎ足で長屋の木戸を抜けるお凛を、里哉が追う。
「食あたりではないようだ。あの子はいまのところ問題ないから、たぶん」
たぶん、と止まる。
「ちょっと気になることがある。小川先生に会ってくる」
このまま、小石川へ戻ると言う。
「わかった。気をつけて。遅くなるようなら、泊まったほうがいい。それとも
「ああ。来させてくれ」
お凛は心あらずといった様子で、口唇を噛んだ。
やがて、倫太郎、と少し硬い声音で呼ぶ。
「おまえをここへ連れてきたのは、間違いだったもしれない」
暗闇で猿が嗤っていた。
猿というより、猿の体をした人の顔だ。真白の毛に覆われた顔の、まん丸な目を細め、大きな口を吊り上げて嗤う。
岩場に四つん這いになっている手足は、血のように赤く、今にもこちらへ飛びかかりそうだ。
闇に浮かぶ手足の赤と、仮面のような白い顔。
──
どこからともなく、声がした。
聞いたことがあるような、見知らぬような。男とも女ともわからぬ、奇妙な声だ。
──
猿の指が天を指す。そして地平を指した。
長く汚い爪が指し示す先で、闇が薄明と化す。
──
その地平から、こちらへ転がりながらやってくるものがあった。
生きものの球だ。人やら獣やらが一塊となり、手や脚が球から四方八方へ突き出していた。
どうやって転がるのか、やがて球は猿と和合し、一回り大きく育って、さらに近づき転がり出す。
段々迫る。追ってくる。突き出した手足が蠢きく。獣の嘶きは悲鳴のようだ。
──
轢かれると思った瞬間、思わず飛び起きた。
おのれの在り
真夜中だ。いつもと変わらぬおのれの住居。
首筋だけでなく、胸元までびっしょり汗をかいていた。動悸に胸が弾けそうだ。
まず、水を飲もうと床を出た。
(──
鬼門より、一体なにが至るのか。
小川陽堂は夢見の悪さに、思わず九字を切った。
「おゆたちゃん、目が真っ赤だよ。寝られなかったの?」
おゆたと呼ばれた少女は、ううんと首を振った。
「なんだか妙な夢を見たの」
でも、よく覚えていなかった。
とても気味が悪かったのだが、なにが、どう気味が悪かったのかを答えられない。
おゆたの家は、銀座竹川町にある。
父は狩野派の表絵師で、大きな仕事がない時は、家で画を教えていた。
そのお陰で、十五になった今日まで、とりたてて裕福ではないが、とくに困りもしなかった。
父の弟子には大店の旦那衆やお旗本までいて、月の半分ぐらいはお
おゆたも物心ついた頃から筆をもち、父より手解きを受けている。
今は通いのお弟子さんたちの世話を手伝いながら、好きなものを描いている。母親はよい顔をしないが、おゆたは画を描くことが何よりも好きだった。
今日も習いに来ている大店の娘たちと、牡丹や猫やと描いているのか、喋っているのか。
「おゆたちゃんは、絵師になるの? 家業を継ぐの?」
「え? さあ」
ひとり娘だが、父親に娘を絵師にするつもりはないようだ。
しかし、おゆたは弟子の誰よりも勉強熱心で、しかも巧かった。器量良しではないが、画だけは負けない。
「おまえが男子であったらなあ」
父親の口癖はともかく、今は自由にさせてもらっているが、もう一、二年したら、嫁に行けと言い出すのだろう。
(画を描けるなら、それでもいいのだけれど)
それよりも。
「おゆたちゃん、大丈夫? なんだか顔色が悪いけど」
「うん」
そうだ。気分が悪い。
よく寝られないかった所為かも、と言ったつもりが声になっていなかった。
「おゆたちゃん⁉︎」
筆が飛び、絵皿がぶつかり合う。
床に倒れたおゆたの
(続く)
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