22話 戦国の遺風

 かつて、東照神君家康公は、百年余に渡った戦国の世を嘆き、一幅の画軸を一徹者へ託したという。

 関ヶ原の合戦にて世の趨勢すうせいは決したものの、未だ大坂、西国諸国に火種が燻る時分であった。


 三河以来の譜代の臣であり、へつらわず、義侠心を譲らぬ頑固者を見込んで、家康公は言った。


「この軸をもって、天下太平を睨む物見番となれ」


 その武将、大久保彦左衛門忠教ただたかは、家康が薨去こうきょしたのちも三代の将軍に仕え、天下のご意見番としてその舌鋒を緩めることはなかった。

 彦左衛門忠教ただたか が没したのちも、画軸と気概は代々の子孫へ引き継がれ、毎年長月ながつき重陽の節句において、江城本丸御殿大広間、将軍家御前にて披露された。


「お上におかれましてはご機嫌麗しく、まことに結構恐悦至極。これにて舜日尭年、天下太平なり」


 慣例となった口上とともに画軸を封じ、天下泰平を宣言するのである。

 実に、これが“朱厭の掛軸”の由来であった。





 南町奉行大岡忠相ただすけは、奥玄関で帰途につく背中を見送りながら、心中ため息をついた。

(よくもまあ、次から次へと)

 難題ばかり、持ち上がるものか。


 夕刻、南町奉行所の役宅に来客があった。

 旗本の大久保彦左衛門忠備ただみつである。高名な大久保彦左衛門忠教ただたかの曾孫にあたる人物だ。


 年は三十代半ばと、忠相より一回り以上若いが、二千石と大岡家に家禄も近く、家名に奢らぬ真面目な人柄に、以前より好感を持っていた。


 火急の用件とのことから、同じ屋敷うちの番所(役所)より戻ってみると、只事ではない思い詰めた顔色をしていた。

 かみしも姿の忠相の顔を見ると、大久保忠備ただみつは床に倒れ伏すように這いつくばった。

「大岡殿、恥を忍んでお願い申し上げる。我が家の軸を……、朱厭の掛軸を探してくだされ」


 手を上げさせ、委細を尋ねると、東照神君よりの御拝領の品、家宝である“朱厭の掛軸”が、蔵より忽然と消えてしまったのだという。

「九月の重陽の節句には、上様御前にて披露せねばなりません。このままでは……」

 切腹してお詫びせねば、と憔悴しきっていた。

 近頃、ようやく嫡子を授かったとも聞いていた。忠相は早まらないように諭し、盗賊の仕業かもしれないからと、内密の探索を約束した。


(──まず、道具屋をあたらせるか)


 口の堅い、身軽な者がいい。

 と、またあの男になってしまうが、期待に応えてくれるだろう。

 どう命じるか。


 忠相は、一旦、番所へ戻る旨を家人へ伝え、用部屋へ足を向ける。


 そういえば、大久保忠備ただみつが気になることを言っていた。

 朱厭の軸、かの慶安のにも、姿を消したことがあったと。





「──その時は、お蔵に戻ってきたってんですかい」

「そうらしい。翌年の重陽の節句には、例年通り公方様の御前で披露されたそうだ」

「ひとり歩きする掛軸なんざ、道具屋よりも、坊主か拝み屋に聞いた方がよさそうじゃござんせんか」

 堤清吾は、苦笑いを浮かべた。おのれも上司である南町奉行へ、同じようなことを返したのだ。


 堤清吾は、南町奉行所の町廻り同心だ。三十路を過ぎたばかり。八丁堀らしい、垢抜けた様子である。

 目の前に座る五十絡みに男の名は留蔵。堤のつかう御用聞きのひとりだ。

 鬼瓦のようないかつい顔をしているが、年は四十になったばかり。細やかな気配りが巧く、最も信頼する御用聞きでもあった。


「慶安といえば、騒乱があった年ですね」

 二人の白湯を注ぎ変えながらいったのは、この住居のあるじ、吉次である。よろずやを営むほか、堤の密偵という別の顔もあった。

 女顔といってもよい秀麗な容貌に、穏やかな笑みを浮かべている。が、なにを考えているのかわからない──よくそう言われる笑みだ。


「一体、なにがあったんですかい」

 留蔵は、吉次が苦手だった。苦手というより、その綺麗な顔を前にすると、妙に腰が落ち着かないのだ。


「四代様(家綱)になったばかりのことだ。由井という軍学者が浪人と徒党を組み、江戸、京、大坂で謀反を起こし、さらに幼い公方様を攫って天子様にお願いして、徳川の世をひっくり返そうとしたらしい」


 当時、相次ぐ大名の改易、減封により、生活に困窮した浪人が巷間にあふれ、世情が不安定になっていた。

 高名な軍学者であった由井正雪は、これらの浪人らの支持を集め、武断から文治政治への転換を掲げて、幕府の転覆を謀った。


 内通者があり事前に露見したものの、幕府が浪人対策に本腰を入れ、文治政治へと転換するきっかけとなった事件である。


「それに、これは聞いた話なのですが、騒乱の陰に、紀州様が関わっていたとか」


 当時、様々な噂が流れた。

 その一つが、家康の子であり、初代紀州徳川家藩主である頼宣よりのぶの関与であった。

 家康の薫陶を間近に受けて育ち、戦国の気風をまとった一族の長老を、幕府の老中らが煙たがったためともいわれる。


「じゃ、そん時にも、そのの掛軸はせちまったんですね」

「らしいな」

「今の公方様、紀州様からお入りなっている。ってことは、これもなにか関係あるんですかね」

 留蔵は、言って太い眉をしかめた。


「ま、ともあれ、まず道具屋から探ってみますわ」

「くれぐれも目立つな」

「承知、承知」

 では、これで。と、御用聞きはさっさと出掛けていった。


「堤さん」

「あ?」

 堤清吾は、ごろりと座敷に寝そべる。

「留蔵さん、なにか勘違いしてませんかね」

 吉次は、綺麗な顔で堤を睨むようにした。

「あー、俺と伊織さんのをか?」

 伊織と呼ばれた吉次は、ため息をついて首を振る。

「ご存知ならば、きちんと誤解を解いてくださいよ」

 堤は、にやりとしたがそれには答えず、

「伊織さんは、噂を集めてくれ。妙な噂だ」

「あやかし、ばけもの、妖怪やらですね」

 堤は破顔し、寝転んだまま見上げた。

 その目が、驚くほど優しげである理由を吉次は知っている。

「さすがだな。さすが伊織さんだ。これは正真正銘、ばけもの狩りになりそうだ」





(続く)

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