20話 猿はいずこ

 八卦とは、易学における八つの卦。

 すなわち、けんしんそんかんごんこんをいう。それぞれ、天、沢、火、雷、風、水、山、地を象徴し、とは、この八卦を重ねあわせた六十四卦によって占うものである。


 小川陽堂は、持参した道具を整え、筮竹ぜいちくを手にした。と、福籠屋女主人あるじのお登勢ではなく、目計めばかり頭巾ずきん女性にょしょうへ向き直る。


卒爾そつじながら、お女中じょちゅう。どのような掛軸をお探しか」


 頭巾の女は、陽堂を暫し睨むようにしてから、小さく頷いた。そうして、頭巾を外し、小さく折りたたんで懐へ仕舞った。

 武家の奥仕えのようである。まだ若い。色白のさかしげな面立ちに、まげは片外し。

 改めて畳に指をつき、頭を下げた。


「失礼いたしました。私はさるお屋敷にご奉公しております梅乃うめのと申します」

 お登勢へ目で頷く。

「委細は申し上げられませぬが、先日、当家より掛軸が一幅、行方知れずであることがわかりました。実はこの掛軸、少々曰くがごさいまして、重用の節句にはなくてはならぬ品なのでございます」


 重用の節句は九月。今は五月。よほど大事なものらしい。


「梅乃さんは、麹町の呉服屋の娘さんで、小さい頃からよく知っているんですよ」

 十六で旗本屋敷へ行儀見習いに上がり、奥様に気に入られて、そのままご奉公を続けているという。


「いつもはお蔵にございます。年に一度、虫干しのお改めをしたところ」


 幾重にもくるみ、箱に入れて仕舞っておいた長持ながもちから消えていたのだという。


 家人を総動員して、屋敷中改めたが見当たらない。この一年、蔵へ入った者から事情を聞いても、誰も見ていない。

 文字通り、忽然と消えていた。


 梅乃は、そこで一旦言葉を切った。

「これ以上は、この場限り。内密に願えますでしょうか」

「無論です」

 梅乃は、再度確かめるようにお登勢を省みた。

「陽堂先生は間違いのないお方。信用して大丈夫。あたしが保証するよ」

 それでも梅乃はためらいながら、消えた掛軸について語り出した。


「その掛軸、いわくがございます。御家の家宝ではございまするが、蔵から出すのは年に一度。しかも殿様、若殿様以外は、屋敷内で目にした者はおりませぬ。代々、ご嫡子のみが目にすることが許され、それも重用の節句のみでございます。絵柄は猿。奇妙な猿で、首より上は白く、手脚は赤いそうでございます。その猿、時折ひとり歩きするゆえ、普段は厳重に幾重にも紐を掛け、陽にも晒さず、闇に閉じ込めておくとのこと。もし、万が一、逃げ出しでもすれぼ、それは乱世が近づくぎざしとも申します」


「おそらく、それは朱厭しゅえん、でございますな」

「ご存知ですか」

 梅乃は、目を見張った。陽堂は、即座に誤解を解く。


「掛軸は存知ませんが、その猿。確か、からの奇書『山海経せんがいきょう』にありましょう」


 曰く──有獸焉、其狀如猿而白首赤足、名曰朱厭、見則大兵。


 事情はまだありそうだ──陽堂は思った。しかし、占うには十分であろう。


「それでは、ここよりのお屋敷の方角を教えてください」

 梅乃は正確を記するかのように、目を眇める。

いぬい(北西)でございます」

「承知しました」


 陽堂は目を閉じ、占断すべき事象に集中する。そうして手にした筮竹をから一本取りよけ筮筒に置いた。これが太極となる。

 残りを二つに分けると、なにやら選るように数を数え、内卦、外卦、大成卦、変爻と求めていく。

 結果を示すこうを読み解きながら、しかし、陽堂は次第に首をかしげていった。


 改めて、再度占じる。

 首を傾げる。


 三度行ない、陽堂は筮竹を置いた。


本卦ほんか之卦しか裏卦りか。それぞれ意味するところはありますが、隠にして陽、陽にして隠と、求めるところが見えません。いまお伝えできることは、その猿、何れ陽の当たるところに現れましょうが、それ以上はなんとも」


 梅乃の顔が、見る間に落胆と後悔に曇っていく。

「梅乃どの。恥ずかしながら、私もこのようなことは滅多にないのです。もし差し支えなければ、家へ戻り、さらに詳しく占じてみたいのですが」

 梅乃は、お登勢と頷き合った。

「お願いいたします。何かわかりましたら、お登勢さんにお伝えください。すぐにこちらへ参ります」

「承知しました」


 梅乃は、懐紙に包んだ占料を出す。陽堂は首を振った。

「なにもお伝えできておりません。これは次で結構です」

 それよりも、と。


「差し支えなければ、その掛軸について、さらに伺えることはありますか」

 梅乃は、暫し思案した。


「この掛軸、失せましたのは二度目。関ヶ原の合戦以降、これが二度目の失踪とか。初回は慶安の頃。いま振り返れば世の乱れる兆しであったと、そのように伝わっております」






(続く)


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