幕間(二)
──倫太郎、おまえの名は、あなたのお父上から頂きました。
父がどこにいるのか、母に訊ねたことはない。
──ひとの
──ひとのみち、とはどのような道でしょうか。
母は、沁み入るような笑みを浮かべた。
──それは、あなたが見つけていくことです。あなたが何を選ぼうと、何を為そうと、いつでも、どこでもあなたを信じています。
だから、名の意味を決して忘れるな、と。
「倫太郎、そこにいたのか」
富岡八幡宮本殿裏のご神木である。長屋を出て馬場通りから永代寺へ入り、普段はひと気の少ない八幡宮をよく訪れているようだった。
「食うか」
差し出されたものに倫太郎は破顔した。向島の桜餅である。
「吉原帰りか」
「まあ、そんなとこだ」
一応、真慧は法体である。
ふたりで桜餅を頬ばりながら、
「で、なにがあったんだ」
と、水筒を差し出した。
倫太郎は、ちらりと真慧を見遣り、一口喉を潤してから答えた。
「
「
ため息をつき、倫太郎の横に腰を下ろす。それ以上は訊かない。
「どうしたものかな」
「なるようにしかならねえだろう」
あっけらかんと言い放つ真慧に、倫太郎は声を立てて笑った。
「確かに」
「だろ。とりあえず、食え」
真慧は名物が詰まった経木の包みを手渡し、その場にごろりと横になった。目を閉じると、八幡宮の境内で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。
幼い頃は、早く成人したかった。成人した今は。
(面倒くせえなあ)
確かに交わっていた道が
(ああ、面倒くせえ)
真慧は暫し、昔の夢に微睡むことにした。
「お奉行、そういえば先般の一件、その後どのような仕儀に
南町奉行所である。
町奉行である大岡忠相と対しているのは、内与力の小原小十郎だ。もともとは大岡家の家人だった男で、忠相の信頼が特に篤い。
大岡は、目を通していた書状を置いた。
「与力、同心らに尋ねられることがございましてな。どうも、私ならば知っているのではと、買いかぶられているようでございます。どのように答えておけばよろしいか」
のんびりした口調ではあるが、不満、疑問を和らげるためにも、正しい見解を教えてほしい、ということらしい。
奉行所でも、〈白〉絡みの探索は打ち切られていた。表立っては言わないものの、疑義を示す者がいても不思議ではない。
「直参の不行跡は世に示しがつかぬと、そう上様は思し召しておられる」
「左様でございますな。天下の将軍家の御直参でございます」
「茶化すか、小十郎」
「つまり、なかったことに、でございますか」
「そうではない。不行跡を起こした者は、確かに罰せられた。上様の目が黒いうちは、二度と
「御支配違いとはいえ、甘うございますな。四代様と比べて、それで民が納得するでしょうか」
難しいことはわかっていた。しかし、今の世で、できることと、できないことがある。
それよりも、と大岡は話題を変える。
「町廻りの堤から、深川門前町の長屋に目を配りたいとの申し出があり、許した。隠密廻りの手を借りることがあるやもしれん」
堤清吾は型破りな面もあるが、総じて腕利きの同心だ。大岡から直々に命じられ、動くこともあった。
小原は品川の名主屋敷で会った面々を思い返し、頷いた。
「承知いたしました。なにかありましたら、この小原へ申し出るよう、堤にひとこと言っておきましょう」
「よろしく頼む」
「承知仕りました」
辞しかけて、小原は座り直す。
「そういえば、求馬様。これはまだお話しておりませんでした。実は一昨日、夜釣に参りましてな」
いつものように、釣自慢を語り始めた。
(第二章「朱厭の掛軸」へ続く)
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