第二章 朱厭の掛軸
18話 八卦見と失せ物
それは、奇妙な猿の画だった。
気味が悪いと、言った方がよいかもしれない。
一匹の猿が岩場に四つん這いになって、笑いながら
おゆたは道具屋の店先で、山と積まれたがらくたの中からそれを見つけた。手本にする花鳥画を探していて目に入り、懸命に掘り出したのである。
慎重に引っ張り出してみると、天地は千切れ、すでに軸木に掛緒、巻緒は見当たらない。画に目立った汚れは無いものの、飾ってみたいとは思えぬ意匠だ。
「おじさん、これいくら?」
なじみの道具屋の親爺は、薄くなりかけた鬢を揺らして舟を漕いでいた。
晴天に、五月の風が気持ちいい。
早く帰らないと、手伝いで練習する間もなくなってしまう。
おゆたの家は、祖父の代からわずかなお扶持で将軍様にお仕えしている。絵師が侍みたいにお仕えしてるなんて変だと思うけれど、宗家と一緒に、お城やお寺の画を描いているのは誇らしい。
「ここにおいとくわね」
おゆたは、いつもと同じ銭を置いて、それを持ち帰った。
猿の目つきは気に入らないが、その脚、その赤の色がよい。どうやって出すのか、家に帰って早く試してみたかった。
──寺までご足労願いたい。
大源寺の良徳和尚より、原賢吾へ言伝があったのは、葉月(旧暦五月)に入って間もなくのことであった。
大源寺の良徳とは、原の住う深川門前町の割長屋、通称花六軒長屋の大屋である。大屋といっても、実際に長屋を差配しているのは古参の店子小川陽堂で、その知らせも陽堂を介して原へと伝えられた。
小川は
人好きのする穏やかな笑顔に、
「御坊が俺に何用か?」
「さて」
原の問いに、小川は首を傾げた。用がある時は、良徳自ら足を運んで来るのが常である。呼び出すとはめずらしい。
「御坊のこと、必要があってのことでしょう」
「左様だな」
午後にでも行ってくると、原はそう答えた。
さて、原賢吾という男。一言であらわせば、“偉丈夫”である。
これまた上背のある浪人者で、年は三十前後。笑うと優しそう、と同じく長屋の住人である十五のおふくは言うが、普段の原は昼寝をしているか、よろず屋からの手間仕事に出掛けているかで、住人同士の歓談に加わる風もない。
万事ものぐさではあったものの、人柄の良さが出るのか、知らぬ間に誰かが居候していることもあった。
数年前よりこの長屋に住み始め、いつの間にか居てあたりまえ。だが、これまでにおのれの過去を一切語ることはなかった。
大源寺は、
原賢吾が大源寺のささやかな山門を潜ると、ひとりだけいる小坊主が、
「原です。良徳和尚はご在宅か」
玄関で告げると、軽い足音とともに良徳本人が現れた。
「わざわざご足労をおかけしたの」
良徳の歳はわからない。かなりの老齢であることは間違いない。その割に姿勢がよく、色艶のよい頬をしていた。
小柄な老師は満面の笑顔で出迎えると、歯がだいぶ抜けた口元をもぐもぐと動かした。
「まずは上がってくだされ」
玄関から廊下を渡り、奥まった書院へ導かれた。
広い座敷に、ひとりの客人がいた。武家である。にこにこと笑みながら、原を迎えた。
皐月の風が、心地よく鼻先を吹いていく。
「あなたは、いつぞやの」
「その際は、大変お手間をかけました」
ふた月ほど前のことだ。原は妙な男に会った。
道端で拾った子猫を運ぼうと持ちきれず、永代寺の
男はあの時と変わらず、若づくり、かつ福々しい満月のような笑顔でこちらを見上げていた。
「
「翌日には」
確か、篠井児次郎と名乗っていた。
「今日は、原殿にお頼みしたいことがあって罷り越しました」
「俺に?」
良徳はというと、いつの間にか姿が見えない。
そもそも、なぜこの男はおのれの住居を知っていたのか。
あの時も、潜んだひとの気配と満月顔の隙のなさに、面倒は御免と早々に退散したのだ。
「不審に思われるのも無理はない」
それだけ言って、篠井は原を促すし庭へ降りた。
広大とは言えないが、手入れの行き届いた庭木と池がある。
篠井は、原を池の方へ導いた。構えながらも、小柄な篠井の後について行く。
池には一寸ほどの緋色の和金が泳いでいる。
篠井は、玉石を埋め込んだ水辺に屈み、懐から餌らしきものを出して、水面へ放った。
「私は、原殿のお父上、渥美甚五郎様を存じておりました」
嫌な予感はしていた。
おのれに降りかかる厄介と言えば、それ以上のものはない。
逃げたわけではないが、ほとほと嫌になったのだ。
「原殿、ぜひともお助けいただきたいことがあります」
──掴まれた。
観念したように、原は軽く目を閉じた。
同じくその日の午後。小川陽堂が、辻へ稼ぎに出ようと支度をしていると、同じ長屋に住うおふくが訪ねてきた。
母親に似た器量よしだが、それよりも元気のよい印象が上回る。今年二月頃に引っ越して来て、
「おっかさんがね、一寸店まで来てくれないかって」
おふくの母
これまでも新しい商いの方位やら、年頭の運勢やらと、時々呼ばれることがあった。
「そうか。では、明日にでも伺おう」
「ううん」
おふくは、困ったように首を振った。
「陽堂先生、悪いんだけど、今、これからあたしと一緒に来てくれない?」
まとめた商売道具に申し訳なさそうに目をやりながら、おふくは母に言われた通りに繰り返した。
「先生、ごめんなさい。今、お願いします」
おふくの実家
福の文字と
登勢より十は上の
「陽堂先生、上がって」
一体何の用事なのか、随分と慌てているようだった。
小川が案内されたのは、いつもの居間ではなく、奥まった床の間付きの座敷であった。
「陽堂先生、ようお越し下さいました」
お登勢は、おのれの隣を指した。そこへ座れということらしい。
「おふく、あんたは下がってて」
「……はい」
少しふくれておふくが去ると、
「陽堂先生、どうぞ」
お登勢が促す。
座敷には先客がいた。
女は黙礼をしたのみで、頭巾を取ろうとも、声を発しようともしない。
代りにお登勢が委細承知している様子で、こう切り出した。
「陽堂先生。先生の評判を聞きつけて、ぜひ占って頂きたいものがございます」
陽堂は状況を察して、頭巾の女ではなく、お登勢へ向き直った。
「なるほど。何を
「失せ物でございます。掛軸一軸。その行方を占ってくださいまし」
(続く)
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