15話 閻魔の狐
奥座敷は蔵と並んで、三面を庭とする奥まった一角にあった。
人払いした茶室らしき六畳間には、堤と和久井屋、お清、そして倫太郎が座していた。
「──それで、おまえさんが願掛けしたのは、どういう
「はい」
お清は、どう話せばよいかしばし思案した。
「皆さまもご存知のように、妻戀稲荷の噂は前々から聞いておりました。和久井屋にご奉公していた時分より、ほんの些細な種として、面白おかしく噂したものでございます。“ならば、妻戀稲荷のお狐様に頼んでみたら”、などと」
神田明神にも近い妻戀坂の妻戀稲荷は、正一位関東惣社として古くから崇敬を集めてきた社である。
創建の由来から正月二日の「夢枕」と縁結びにご利益があるとかで、つまり、願掛け自体は決して珍しいことではなかったのだ。
「喜久様のお世話をしていると、気の毒で堪らなくなることがありました。それで、こちらへ参りました際に、気晴らしに絵馬を掛けたのでございます」
「噂通り、顔に朱を入れてというあれかい?」
お清は頷いた。
「わたくしの他にも、そんな絵馬がちらほら見えておりました。嫌な気持ちを置いていこうとやったことでございます。それから十日。忘れた頃にあれが参りました」
夜中、手水に起きた際、離れ屋に明かりが見えたので、消し忘れたかと行ってみたのだ。
「突然、闇の中に狐の面を被った男が現れたのです」
「どんな男だ」
お清は、かぶりを振った。
「声はかなり若い男のようでした。突然、暗闇に狐の面が浮かんで」
思い出したのか、お清はぶるりと震えた。
「喜久様を指し、望むかと、尋ねてきたのです」
新月の真夜中であった。驚き過ぎて悲鳴も上げられず、手燭を取り落とさなかったのが不思議なくらいだ。
闇に浮かぶ真っ白い狐の面は、到底この世のものとは思えなかった。
それに問われ、お清は夢中で頷いた。頷くしかなかったのだ。
畏ろしかったこともある。しかし、もし幾許かでも喜久の敵討ちができればと、ふと魔が刺したように思ったのだ。そうなれば、おのれを含め、多くの者が溜飲を下げられるだろう、と。
お清が諾と答えると、狐面の男は音もなく姿を消し、それきり現れることはなかった。
「その時は、このような騒動になるとは思ってもみませんでした」
しかし、〈白鬼〉の騒ぎが大きくなるにつれ、次第に怖くなってきた。しかも、〈
誰にも相談できずにいたところ、近頃周囲を見知らぬ男がうろつくからと、和久井屋が原賢吾を用心棒として寄越し、さらに盗賊らしき男達が押し入って、喜久と絢を攫っていった。
「わたしには、あれに関わりあるとしか思えませんでした」
お清は、取るものも取り敢えず妻戀稲荷へ駆けつけ、おのれが奉納した絵馬を探した。無論、見当たらない。社務所に尋ねても
「考えあぐね、あとはもう若旦那様にご相談するしかないと」
ようやく和久井屋を訪ね、委細を話したところだったというのだ。
「お清のいう通りでございます。二人が拐かされたと知らせが来ていた上に、行方不明になっていた当人が現れ、あまりにも荒唐無稽な話をするもので、私もつい取り乱して声を荒げました」
「お聞きしてもよいでしょうか」
倫太郎は、腑に落ちぬ顔をしていた。
「その妻戀稲荷の願掛けやら、〈閻魔のお狐様〉とやらは何ですか?」
「二木さんは江戸生まれといったが、知らないのか?」
堤は、揶揄するように言った。
「残念ながら、この春戻ったばかりですので、とんと知りません」
まったく悪びれない。堤は肩をすくめ、語りだした。
「いつの頃からか〈閻魔の狐〉という義賊の噂が流れ始めた」
「義賊、ですか」
倫太郎が目を見張る。
「本当にいるのか、いないのか。誰がそう呼び始めたかも、定かじゃない。お上が助けてくれぬ恨みごとを晴らしたい時は、妻戀稲荷に絵馬を掛けろという噂が流れ始めた。訴えが
「本当ならば、まさに義賊ですね」
堤は口の端を歪める。
「俺もこのお務めは長いが、〈閻魔の狐〉に実際に会ったという話は、今回が初めてだ」
「本当に噂だったのか。皆で口を噤んできたのか」
「さあな。前々から、ただの噂ではないだろうと踏んでいたが」
「それはまた、何故ですか?」
「しつけぇなあ、二木さんは」
うんざりして言う。
「しつこいついでに、もうひとつ。訴えが
「絵馬を掛けた者を吊るし返す、とも聞く。他言無用。真実無妄ともな」
「それは物騒だ」
二木倫太郎がどういう男かわからない。聡いのか鈍いのか、嫌みを言っているのか正直者なのか。
「あ」
なにか閃めいたようだった。
「堤さん、その〈閻魔の狐〉ですが、どうして下手人を知っていたのですか?」
十年前の事件は、証人がおらず有耶無耶なうちに不問となっていた。その生き証人こそが喜久である。
「それは……」
和久井屋利三郎が何か言いかけた時だった。
店先から廊下を駆けてくる。障子戸の前でぴたりと止まり、声がかかった。
「旦那様、お戻りでございます!」
「戻ったって、誰がだい⁉︎」
急いで開けると、若い手代が蒼白になって膝をついていた。
「松七、誰が戻ったっていうんだ!」
「原様でございます!」
堤が思わず腰を浮かせた。
店先へと急ぐ。
「原様!」
「原さん!」
店先に腰掛けた広い背が振り向き、駆けつけた面々を見回す。
「和久井屋、ひどい目に遭ったぞ」
ひと目で、“ひどい目”の名残がわかる姿だった。鬢はほつれ、擦り傷が顔にある。汚れた着物からは、生臭い臭いが立ち込めている。
「原様、お喜久様と絢様はご無事ですか⁉︎」
お清へ、知らぬと首を振る。
「俺が目覚めたのは、佃島の船底だ。そこには俺しかいなかった。代わりに」
と、懐から書状を出した。
「これを持たされていた。おそらく届けろという意味だろうが。丁度いい。説明してもらおうか」
書状の宛名は、二木倫太郎どの。返して〈狐〉の一文字。
「私⁈」
まさに、青天の霹靂であった。
(続く)
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