16話 小塚原回向院
原賢吾が託された書状には、日付と時刻と場所。そして金子百両を、二木倫太郎がひとりで持参するよう
明日弥生二十日、子ノ刻、小塚原常行堂。
そして、花札が一枚。紅葉に鹿。
──他言一切無用。
「今日じゃねえか」
南千住の
常行堂は、牢死者や刑死者を供養するために開創された浄土宗の寺である。両国回向院の分院に当たり、回向院下屋敷とも称していた。
「間違いありません。私が
書状には、人質があるとも、
「二木さん。こりゃ、どういうことだ」
「わかりません」
「あんたを名指しできている。あんた、〈狐〉とどういう関わりがある」
「私の方が、聞きたいくらいです」
その語気に、堤はふっと笑った。
「嘘じゃねえようだな。ひとまず」
「私の名誉にかけて」
「やめておけ」
堤は手を振る。
「そんなもん、屁にもならねえ」
と、和久井屋へ、
「夜中までに、金子の用意はできるか?」
「はい。それで喜久と絢が戻るのであれば安いものです」
すでに日射しは傾き始めている。
「今から奉行所へ戻って捕方を出すのは難しい。俺も行くが、二木さん、あんた行ってくれるか」
「無論です」
「私も参ります!」
同道を申し出る和久井屋とお清に、残るよう告げる。
「足手まといだ。こっちに任せな。原さんはここへ残ってくれ」
「ああ、この
原賢吾は委細を承知したか、堤へ頷く。
和久井屋と今後の手筈を相談したのち、堤と倫太郎は、一旦、その場を離れることにした。
「まだ、この一件はなにかありそうだが、あんた」
と、倫太郎の腰に差した刀を見遣る。
「念のために聞くが、腕っ節はどうなんだ」
「一応、ひととおり」
「それも信じるしかねえな」
約束の刻限まで、まだ間がある。戌の刻に吉次の家で落ち合うことにした。
「では、後ほど」
倫太郎は、にこりと笑って歩き去った。その背を思案げに見送り踵を返そうとした、その時だった。
「もうし」
と、背後から声がかかる。振り返ると、またしても下大崎村の名主庄左衛門の妻、お
「お伝えすることがございます」
堤は黙したまま、先に立って歩き出した。
「おまえ、馬鹿か?」
深川門前仲町の花六軒長屋である。一応は知らせておこうと戻ったのだ。
倫太郎は、里哉が伏せている隣室に目を遣り、真慧を外へと連れ出した。すっかり耕された畑の畦道をたどり、若葉繁る桜の下に立つ。
西の空が茜色だ。烏が鳴きながら飛んでいく。一羽、二羽と増え、大勢で旋回しながら、寝ぐらへ帰るのだろう。
「里哉には、この件、伏せておいてくれ」
「何かあったら、どうすんだ! おまえを名指しだぞ。せめてあいつの親父さんには、ひとこと言っておかねえと」
最もな助言である。しかし、倫太郎は首を振った。
「私の身に危害が及ぶことはない、と思う」
懐から朱い札をだした。
「これは、品川の名主の家で拾ったものだ」
紅葉の絵柄を示す。
「私を指名した書状にも入っていてね」
いつの間に持ってきたのか同じような札で、こちらは紅葉に鹿。
「ちょっと気になることがある」
倫太郎は、昔からこういうもの言いをした。
「──お里坊や絡みか」
倫太郎は、嬉しそうに破顔した。
「さすが、牛若だ。懐かしいな」
「やめな。そのひとたらしい癖は」
それでも満更ではなさそうだ。艶冶と褒められる、切れ長の目尻をゆるめる。
「しかし、万が一はあるからね。真慧には、ひとつ頼んでおきたいことがある」
倫太郎は改めて、旧友へ相談を持ちかけた。
倫太郎と堤清吾、そして原賢吾は、戌の刻に一旦吉次の家で落ち合い、手筈を確かめ出立した。
先に、倫太郎はひとり提灯を下げ、日本橋から日光街道を下っていった。懐には百両の重みがある。
途中、街道の左手は日本堤へと続く。吉原詣の酔客と別れ、南千住を目指した。
ほどなく人家もまばらになり、田圃や畑ばかりの吸い込まれるような闇となる。西の夜空だけがほんのり明るい。不夜城たる遊郭の灯火だろう。
幸い、月夜である。
堤清吾と原賢吾が、それぞれ別について来ているはずだった。
やがて、なんとも言えない臭気が流れてくるようになった。
晒された獄門首やら、死体の腐臭やら、魚市場とは異なる生臭さが、土地にこびりついているかのようであった。
倫太郎は晒された罪人の影を横目に、その場を足早に通り過ぎ、回向院常行堂の前で足を止めた。
門扉は閉じていた。
潜戸を押し、吉次から聞いた寺内の様子と思い合わせ、本堂を目指す。
広縁、段木とも無人で戸は立てきってある。口中で南無阿弥陀と唱え、倫太郎は提灯を吹き消した。
闇に目を慣らす。
すでに、なにかしらの気配があったのだ。
提灯を捨て、気を研ぎ澄ました。
狐火が、ひとつ、ふたつ。
人魂のようにふわり、ふわりと動いて集まってきた。
白い狐面が浮かびあがる。
次の瞬間、それは倫太郎の足下に踞った。
「若君」
倫太郎は微動だにしなかった。
「やはり、おまえか。──さあ、来たよ。どうすればいい」
狐面は立ち上がり、その面を脱いだ。
(続く)
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