10話 原賢吾の行方
「何をしておいでですか」
「少々、
覗き込むと、瓦屋根の波と月、満開の桜が、よい塩梅で描かれている。
豊かな水墨画だ。
「素晴らしい」
素直な感嘆の響きに、陽堂は破顔した。
「どうですか。長屋の暮らしには慣れましたか」
「皆さんがよくしてくれますので、なんとか。私よりも里哉が参っているようです。まだ、身体も小さい」
「凛どのがおられるから、案じられずとも大丈夫でしょう」
「ええ」
倫太郎は、改めて周囲を眺め渡した。
「見通しがよい。こんな町中で畑が残っているとは驚きです」
それに、と倫太郎は続けた。
「長屋への出入口は二ヶ所。一方がここ。もう一方は曲折のある一本道。しかも脇道が一切ない」
「確かに。攻め難く、守りに易い」
「確かに」
にこりとする。
「里哉殿は、じきに本復されるでしょう。あまり心配されないほうがいい」
「
陽堂は声をたてて笑った。
「左様、左様。それよりも、原殿のことが少し気にかかります」
「一体、どうしたのでしょう」
「いずれ、吉次殿が知らせてくれましょうが」
陽堂は、新たに墨を磨り始めた。
「ま、世の中って、ほーんと狭いわよねぇ」
「そう、ですか?」
深川門前仲町、六軒長屋である。倫太郎の室は、北側の真ん中辺りだ。そこで倫太郎の侍者
「はい、口開けて」
へらのようなもので舌を押さえられ、喉をのぞき込む。
「あー、だ。ほら」
「あー……」
「真っ赤っかだ。熱出すまで我慢しないで、喉が痛いなら早く言いなよ。せっかく名医が隣にいるんだからさあ」
「ほんなほほひっひゃっほ」
なにかを煮詰めたような液体に綿を巻いた棒を浸し、えいと喉へ塗った。
「ゔあああああっっ」
ひととは思えぬ声を発して、里哉は口と喉を押さえて悶えた。
「な、なんですか、これは!」
百数えるまでうがいするな、という凛先生の言いつけを守ってから、里哉は一気に白湯を飲み干した。
「どくだみを煮詰めた、ありがたーい薬」
「死ぬほど苦ぇけどな」
寝転んで煮芋をつっついているのは
「やっぱ、芋は田楽だよなあ。上方風もいいが、俺はこっくり飴色に煮込んだやつがいい。今度は河岸で白魚を仕入れて、
「あたし、海老真薯、好きっ」
「あー、凛先生の好物は聞いてねえぞ」
「あのお」
おずおずと里哉が言った。
「凛先生と真慧さんて、もしかしたら
ぶっ、と凛が茶を噴いた。
「あー、俺はそうなってもいいって思ってんだけどなあ」
ニヤニヤと言ったのは真慧だ。
「でも、この凛先生。俺じゃなくて、倫太郎サマがいいんだとさー」
「牛若!」
「うぎゃあっ!」
思わず立ち上がって真慧に蹴りを入れた。凛先生の顔は真っ赤だ。
「バカ言ってんじゃないよ、牛若丸っ!」
「その名前で呼ぶなっていってんだろ! 本当じゃねえか! おまえ、七つの時から、倫太郎の前でだけ、人が変わるだろう!」
「嘘をつくな!」
「……私、知りません」
しんみり言った口調に、真慧は里哉をのぞき込んだ。
「どうした」
「私は、倫太郎様と皆さんとのこと、なんにも知らないんです」
「ははあ、置いてきぼりくった感じか?」
里哉は頷いた。真慧は凛と視線を交わした。
「親父さんに聞いたか?」
「父のこともご存知なんですか?」
心底驚いた顔だ。それが段々と曇っていく。
「私は……、昔から父の期待を裏切ってばかりなんです。ずっと役にたてていない」
真慧は、里哉の目を覗いた。
「じゃ、なんでそのおまえを大事な倫太郎サマに付けたんだ?」
「わかりません」
首を振る。
「わたしの方が、昔からいつもいつも若様に助けてもらってばかりいます」
江戸に来てから、慣れない暮らしが続いているのだろう。疲れと気持ちが一杯いっぱいに溜まってしまったようだった。
真慧は笑んだ。
「おまえ、倫太郎に聞いたことはあっか?」
「え?」
「まず、倫太郎が帰ってきたら聞いてみろよ。そもそも、あいつがおまえを邪険にしたことあるか?」
幼童のように首を振る。
「とにかく、元気出せ。風邪ひいてる時に、面倒な考えごとはするもんじゃない」
「カブの雑炊がいいなあ、あたし」
「……俺は、飯炊き婆さんかよ」
ぶつぶつ言いながらも、四半刻待てと言って、真慧は自分の住居に戻っていった。
凛先生は道具を片付け、少しだけ姿勢を正して向き直る。
国許にいる姉のようだ、と里哉は思った。
「あんたね、倫太郎の面倒な立場、わかってるよね」
「はい、……もちろんです」
「その倫太郎に、親父さんはひとり息子のあんたを付けたんだよ。無能でおバカな子供を付けるか? 役に立たないマヌケをおいとくか?」
びしびしいう前で、里哉は鼻をすすり始めた。
「あああ、もうぴーぴー泣くな!」
凛先生は、奥の間に敷いた布団へ里哉を押し込んだ。最後にぽんぽんと上掛けを叩く。
「寝ろ」
「──はい」
よくわからないが、この長屋の人達は、誰もがみな優しかった。
里哉は鼻まで布団をかぶり、帰ろうとしない凛先生の横顔を見ていた。
(……姉上、どうしておられるかな)
うとうとと、いつの間にか寝入っていた。
「──行方不明⁈」
頓狂な声を上げたのは、堤清吾である。
南町奉行所の定町廻り同心かつ便利屋を商う吉次の、密偵としての雇い主だった。
「誰だ、その原
「浪人です。深川門前仲町の花六軒長屋の住人」
「ふざけた名前の長屋だな」
原賢吾と連絡が取れなくなって四日目。よろずや吉次は、早急に会いたいと堤の御用聞き、留蔵へ言伝てした。
落ち合ったのは、日本橋小舟町の馴染みの蕎麦屋である。
「近隣の浄土宗の住職が大家をしています。変わった店子が多い長屋ですが、これまでにもちょいちょい手間仕事を頼んできました。手堅い人物と判じたお人です」
「そうか」
吉次の人を見る目は確かである。
「で、おまえさんが、和久井屋の依頼を、二つ返事で引き受けた訳と関わりがあるのかえ」
「確かに、渡りに船と堤さんの紹介に乗りましたが」
「伊織さん」
吉次は猫だ。
懐いているようで、懐かない。いくら慣れても決して手を舐めようとはしなかった。
吉次は観念したように目を細めた。
「──聞いた話なんですがね」
どこで、誰に聞いたのか、堤には当たりが付いた。
「十年ほど前、昔の旗本奴を気取って、やりたい放題やった奴らがいたとか」
堤清吾は御役についたばかりだった。相手は直参だ。非道にも確証がなく、結局町方が泣き寝入りをする羽目となった。半年ほどで悪さは止み、その後噂も聞かなくなった。
「そいつらは」
吉次は
「四代様の時分の白柄組を気取って、自分たちを隠語で“お白組”と呼んでいたそうです」
「間抜けな。で、つまり〈白〉か」
堤から依頼があってのち、吉次は当時の話を拾い集め、被害者の家族にそれとなく当たってきた。そのなかでもうひとつの噂を聞いた。
──生き証人がいるらしい。
「最初は眉唾ものだと思っていたのですが、当たる中で、あの家は使用人は端々まで口が堅い。十年前のことにしては、堅すぎる」
「それが、和久井屋か」
「ええ。でもまだ、なんとも」
和久井屋が〈白〉とは限らない。しかし、吉次は勘だけで動く男ではなかった。
「先走ったな、伊織さん」
ようやく、本心悔しげな表情が浮かんだ。
「その原という浪人がいる場所は、見当がつくのか」
「蔵や船ではお手上げですが、原殿が行った日、和久井屋に呼ばれた駕籠掻きに当たったところ、上品川宿近くの街道筋で下ろしたとか」
「品川か」
関八州内江戸府外の幕府直轄領となる。町奉行所の管轄ではない。公事方は勘定奉行の支配となる。
「誰か連れて、先に行っていてくれ。俺は奉行所で確認したいことがある」
「すみません、この失態は必ず」
「そんなことはいい。だが、誰か必ず連れて行ってくれ。ひとりで動くんじゃねぇぞ」
「ええ」
吉次は店の裏口から出て行った。
(さて、と)
いろいろと地ならしが必要だった。
(それにはまず、腹ごしらえだ)
冷たくなった酒を、まず一杯。腹を温めてから、卓袱の具を片付け始めた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます