9話 和久井屋の娘
北品川宿も街道を逸れると、その大半が農村となる。
原賢吾が滞在を余儀なくされた屋敷も、広い敷地うちに母屋、離れ屋のほかに米蔵、作業小屋などが並び、土地でも有数の豪農のようだ。
お清に聞くと、やはり名主であるという。
(──さて)
成り行きから品川に残ったはよいが、吉次の言っていた第二の役目、“間諜”は務まりそうにない。おそらくは、和久井屋の内情のことであろうが。
(まあ、致し方ない)
和久井屋の語った話が
その和久井屋は、日が暮れる前に、市中へと戻っていった。
やがてお清が灯火と夕餉を運び、下男が夜具をのべに来た。お清は喜久へ食事をとらせているようだ。話しかける声がする。母屋にいるのか、絢の姿も見えなかった。
用意された床の上で、賢吾は一夜を過ごした。隣の座敷からは一晩中、かすかな衣擦れの音以外、なにも聞こえなかった。
何事もなく、数日が経った。
和久井屋の口振りから、夜襲でもあるかと警戒したが、特に変わった様子もない。用足しにくる下男へ話しかけたが、ひどく口の重い男だった。
お清は喜久の世話以外、なるべく近づかない様子であった。子供が遊びまわる声は聞こえたが、やはり、離れ家には寄ってこない。
「あそぼ」
上がり口から、ひょいと少女が覗き込んだ。
昼も近い時分だった。賢吾は、組んでいた腕を解いて手招いた。が、絢はじっと動かない。
「どうした」
「あがってもいいの?」
「構わない」
にこっと笑って、脱いだ履き物を丁寧にそろえた。
大店の娘にしては質素な身なりだ。結った髪に飾りはなく、代わりに一重の利発そうな目がきらきら輝いていた。
絢は抱えたものを差し出すと、
「これ」
と、言う。
絵合わせの
「
「絵合わせか? めくりか?」
「はなふだ」
『はなふだ』とは変わった骨牌で、大きめの札に、華やかな色彩で雪月花が描かれていた。ほかにも黒い山やら短冊やら。
「鶴に紅葉に、これは桜か? “二十”とはなんだ。どうやって絵合わせする」
「あのね、」
絢は、目を輝かせて決まりごとや点数の数え方を説明し始めた。
安土桃山時代に渡来した南蛮カルタは、江戸期に入って貝合わせや百人一首と組み合わさり、庶民人気の遊びとなった。そのなかでも花札遊びは江戸城内の茶坊主が発案したとされ、大名家中をはじめとした武家の婦女子から広まった。
無論、賢吾は初めての経験だ。
単純な遊びと鷹を括っていたが、なかなかよい札が回ってこない。
幾度も負けてから、ようやく札が合わさった。
「これでどうだ」
「すごい!」
二人でつい、歓声をあげた。
「そこでなにをしておいでですか」
土間にお清が立っていた。明らかに絢を睨んでいる。
「お清。わたし、……ごめんなさい!」
絢は慌てて立ち上がると、道具を置いて母屋の方へ駆けて行った。
お清はため息をついた。
「絢……様には、困ったものなのです」
札を片付けながら、言いわけするように言う。
「ここへは来てはいけないと、何度も言い聞かせているのですが」
「喜久殿のためか」
「絢様は、ご存知ではありません。叔母様だと、そう教えてあります」
「そうか」
和久井屋の言いつけなのだろう。お清は、道具を持ったまま、喜久の世話に唐紙障子の奥へ消えた。
──どうも妙なことになった。
和久井屋の取り越し苦労であるならよいが、あの男の杞憂であれば蔑ろにすべきではない。
居心地の悪さを感じながらも、賢吾はおのれの
それもあって、賢吾の散歩は見廻りとなった。
周囲の地形を知ることから始め、出入り口、通り道、畦道がどこへ通じているか、家の位置、死角はどこか──暇にあかして、頭の中の懐かしい兵法書をめくって考えた。
離れ家の裏は低い台地となっていた。風除けの竹林と、その間に細い道がある。家人しか知らぬ道であったが、盲点となりやすい。
賢吾は、足跡や人の痕跡がないか見て廻った。
と、藪にうずくまる小さな姿がある。
「絢どの」
今年十になる少女は、うずくまって藪の向こうを見すかしていた。
「何をしているのだ」
少女は振り向き、口に指を立てた。
差す方を見下ろすと、丁度藪の切れ目から離れ家の軒先が見えた。縁側に女が座り、見るとはなしに遠くを眺めている。
「叔母さまよ。
時々覗きに来るのだ、という。
和久井屋の言うように、容態はかなりよいのだろう。牢格子をたてた座敷から出て、春風に当たれるほどであれば、本復も近いのかもしれない。
ほっそりとした後ろ姿に髪を下ろしている。薄い青色の着物と、帯は娘のように垂らして結び、お手玉やら
「あれ、わたしの!」
思わず絢が立ち上がったその時、喜久の姿がすっと消えた。一瞬目を離した隙に奥に戻ったのか、道具だけが縁に残っていた。
「絢どの!」
止める間もなかった。少女は慣れた様子で斜面を駆け降りていった。縁側の骨牌へ手を伸ばし、凍りついたように動きを止めた。
何かを見上げて、一歩、二歩後ろへ下がる。
賢吾はただならぬものを感じ、すぐさま後を追った。
縁側から男が躍り出た。横抱きに絢を抱える。
「おじさま!」
「動くんじゃねえ」
地を這うような声だった。取り出した
「──何者だ」
賢吾は大刀が抜けるように、鍔元をくつろげ、腰を落とした。
「やめといた方がいいよ」
少年のような若々しい声がした。座敷から、頭巾を被った小柄な姿が現れる。その後ろには、大柄な浪人者が付き従っていた。
肩には、ぐたりとした喜久を載せている。
「用心棒殿、刀から手を離して下さい。動いたら」
町人に目配せする。絢の喉元へ、
絢は目を見開いたまま、声もたてない。
「わかった」
賢吾はそろそろと両手を上げた。何かできぬかと思案する。
「残念ですが」
頭巾の男は同情するような声音で言った。
「みなさん土蔵の中です。本当に申し訳ないが、貴方はこのまま──」
目の前で火花が散った。
(不覚なっ……)
地面に崩れ落ちながら、絢の悲鳴を聞いたような気がした。
(続く)
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