8話 過去の悲劇


 時は少し遡る。

 原賢吾は、約束通り弥生二十日辰の下刻(午前九時)に小網町河岸かし和久井屋わくいやを訪れた。



 日本橋小網町は、俗に河岸かし八町と呼ばれた海運の荷揚げ地である。品川や佃島つくだじまに大型船で到着した物資を、猪木船ちょきぶね荷足船にたりぶねへ移し変え、大川(隅田川)を経て日本橋川へと運んだ。川沿いには白壁の土蔵が連なり、対岸の魚河岸とともに江戸の一大流通拠点となっていた。

 そのなかでも和久井屋は、紀州廻船で財を築いた新興の船積問屋である。主に薬種類や灯油、てつなどを荷受け、上方と江戸の間を海漕していた。



 和久井屋の店先からは、丁稚でっち小僧が泥鰌どじょうのようにひっきりなしに頭を出して走っていく。

 賢吾は飛び出してきた小僧を捕まえ、番頭へ用向きを伝えるよう言った。小僧は困ったように足踏みしていたが、賢吾の名を聞いて、店の中へすっ飛んでいった。

 すると、若いが丁寧な物腰の男が現れ、賢吾を店の奥、八畳ほどの座敷へと導いた。



「お座りくださいませ」

 仏間には、塗りと金泥の大きな仏壇と、床間の違棚に緑の手毬があった。

 下座しもざにひとりの男が座していた。年の頃は三十半ば。太い眉の下から、炯々とした眼差しで見上げている。

 人相風体から和久井屋本人であろうと察した。

「和久井屋彦三郎でございます。本日はお運びくださり、ありがとう存じます」

「和久井屋殿と直接会えるとは思わなかった」

 利三郎は目元を緩めた。

「手前も原様にお会いできて、大変安堵いたしました」

 素浪人を雇うのだ。人物を確認したいと思うのは必然だろう。

「俺は眼鏡にかなったか」

「十分に」

 と、和久井屋彦三郎は座布団から滑り降り、畳に手をついた。

「原様。貴方様を見込んで、改めてお話がございます」

 面食らったのは賢吾である。

「吉次より、盗賊よけの用心棒と聞いているが」

「はい」

 眉の下から、にっと笑った。

(なにかあるな)

 なるべく面倒を避けてはいる。しかし、気づいてしまうのが、おのれの厄介な質だった。

「俺は言葉遊びが苦手だ。直裁じきさいに言ってくれ」

「では、これから手前と少々遠出をしていただけますでしょうか」

 和久井屋が手を打つと、駆けつけた先ほどの若い番頭へ、駕籠の用意を命じた。



 品川宿は東海道第一の宿場町である。

 高輪町を過ぎて品川北歩行かち新宿より南へ下れば、桜の名所として名高い御殿山がある。

 和久井屋は少し歩きましょうと言って、街道筋の茶店で駕籠を待たせた。

 ぽかぽかと小春日和のなか、畠や麦がしげる田圃を下っていく。やがて門構えの立派な百姓屋が見えてきた。

 和久井屋は慣れた様子で長屋門をくぐり、大きな母屋の前にいる女へ声をかけた。すると、中から十ばかりの童女が「とと様!」と声をあげながらまろび出てきた。

「原様」

 和久井屋彦三郎は子供を抱き上げ、愛おしげに目を細めながら言った。

「守っていただきたいのは、この子あやと手前の妹でございます」



「むかし話をいたしましょう」

 離れ屋の座敷で、和久井屋はそう切り出した。

 母屋の陰に隠れるように、その離れ家はあった。周囲に生け垣を配し、上がり口は見通せぬようになっている。

 しばらくすると、先ほどの女が茶菓を持って来た。


「この者は、おせいと申します。先代からの当家の奉公人で、いまはこちらで絢と妹の世話をしてくれています」

 四十半ばの女は、無言で会釈をすると下がっていった。


「さて、どこからお話しするべきか」

 賢吾は、黙して次のことはを待った。


「十年ほど前、手前の父、先代和久井屋が急逝いたしました」


 彦三郎は上方の豪商で修行していたのを呼び戻され、急遽、店を継ぐこととなった。

 数年ぶりで会った妹は十六になったばかりで、文字通り花がほころぶような美しさだった。


「その理由はすぐにわかりました。あるお旗本のご三男と、喪が明けたら祝言をあげる予定になっていたのでございます。家同士の決め事とは申せ、当人同士も気持ちが通じていたようでございました」


 武家の家督を継げるのは長男のみだ。富裕な町家と婚姻を結ぶこともあった。

「しかし、祝言の前にその方は亡くなられ、妹は子を身ごもったまま残されました。それが絢でございます」

 和久井屋は、時折唐紙障子の向こうに目をやった。隣室からは、かすかに人の気配がしていた。


「当時、妹の喜久きくは、赤子を育てられるような状態ではございませんでした。そのため、手前の子とし、喜久はお産で亡くなったことにいたしました」


のだ」

 婚礼前の子とはいえ、死んだことにしたとは尋常ではない。


 和久井屋彦三郎は、一旦目を閉じ、深く息をした。


「あれは深川八幡の祭日でございました。喜久はこっそり下女をひとり連れ、祭り見物に抜け出したのです。なにがあったのか実はよくわかっておりません。あとで取り乱した妹の話を継ぐと、お武家様に乱暴され、下女も、一緒にいたご三男の方も斬り殺されたと」

「馬鹿な」

 商家へ婿に入ると決まっていても、直参の身内である。そのような狼藉がただで済むわけがない。


 彦三郎はわらった。

「当時、市中で若い旗本衆が徒党を組み、町方へ乱暴狼藉を働ていたことはご存知でしょうか」

「いや」

「かつて、四代様(家綱)の時分にもごさいました。今回はさらにたちが悪く、散々理不尽な狼藉を働きながら、誰一人表立ってお咎めを受けなかったのでございます」


 元禄の時代、江戸市中で起きた傾奇者かぶきものの旗本奴と町奴の抗争は、目に余るものがあった。結局は大身、譜代の旗本さえ切腹、改易となり、町奴もその多くが死罪となった。


「手前も商売を継いだばかりで力足らずでございました。妹はお腹が大きくなるにつれて気鬱の病が深くなり」

 次第に、夢と現実うつつの区別がつかなくなっていったという。


あの子を生んだ後はもういけません。決して抱こうとはせず、目を離した隙に逃げようとしたことは、二度、三度ではございません」

 そうして、妹の身を案じて、この屋に移したのだと言った。


「幸い、いまは落ち着いておりますが、絢のことはまったく目に入らぬようです。手前は、二度とこのような理不尽に会わぬように、必死に働き店を大きくしてまいりました」

 賢吾は、和久井屋の話の筋が、どうしても見えなかった。この男は、おのれに何をさせたいとのだ。

「今回の件とどのような繋がりがある」

「ふたつございます」

 和久井屋は、即答した。

「ひとつ目は、今年になってこの家の周りで怪しい男の姿を見かけるようになったこと。ふたつ目は、世間を騒がしている例の〈白鬼〉でございます」

「どう関わりがある」

「四代様の頃と違い、今回旗本衆にお咎めがなかったのは、証人が一切いなかったことでございます」

「ひとりもか」

「調べました限りは。ほとんどがその場で殺されておりました」

「では、〈白鬼〉がその旗本で、妹御を狙っているというのか?」

 和久井屋は首を振った。

「わかりません。〈白鬼〉に攫われた方々をつなぐのは、これらの一件としか考えられないのです。これも証拠はござません。攫われた方々のお名前と、〈白〉という呼び名。当時、〈お白組〉などと称した旗本衆に関わりがあるとしか、手前には思えないのです。もし、妹が生きているとわかったら何をされるか知れません。十年経ち、部屋住みからお立場が変わられた方々もおられるようでございますので」

「和久井屋、なぜ、お上に訴えない。南町奉行は、世情に通じた人物なのだろう」

「確かに、立派なお方でございます」

 しかし、と和久井屋は続けた。

「手前は、正義、正道は、必ずしもまつりごととは並び立たぬと思っております」

 賢吾とてそうは思う。しかし、突飛過ぎてにわかに信じられない。


「そうは言うが、もしすべて真実まことなら、おまえこそが〈白〉なのではないか?」

「そうお疑いになるのもごもっともです。しかし、天地神明にかけて、手前ではございません」

 和久井屋は、賢吾の目を見て言い切った。

「では、これは何だ」

 賢吾は、唐紙障子を開け放った。

 三畳ほどの板の間、その奥に設えた牢格子があった。格子越しに、ほっそりとした女の背が見えた。

「あれが喜久でございます」

 女は振り向かない。声が聞こえるほどの近さでも、背を見せ、ゆらゆらと身体を揺らすのみである。

「聴こえておりません」

 利三郎は悲しげに見遣る。

「ずっと聴こえておらぬのです」

「なぜ、そこまで、俺に明け透けに話す」

 和久井屋は、ふっと口元を緩めた。

「手前は海で商いをしております。漕ぎだせば一蓮托生。互いに命をあずけて、最後は天命に縋るしかございません」

「俺を、見込んだとでも言いたいのか」

 和久井屋は、深く頭を下げた。

「手前、人を見る目は確かでございます。どうぞ、我らを不憫と思し召し、力をお貸しくださいませ」



 牢格子の座敷には、春の陽が長く差し込んでいた。女の裸足の足裏に、暖かそうに降りそそいでいる。

 風に乗って、香袋がかすかに香ってきた。




(続く)


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