その四 福籠屋おふく
おふくは、今年十五になった。
十五になった、まだ松も明けぬ三元日に、母である日本橋
「引っ越してちょうだい」
「え。」
「川向こう。深川の長屋なんだけどね」
テキパキと算盤を弾きながら言う母に、急いで待ったをかけた。
「なんで、アタシが、引っ越さないといけないの?!」
「あんた、十五になったんでしょう?」
「おっかさんは、三十五」
じろりと睨まれる。
「うちはね、十五になったらひとり立ちするのが家訓だよ。出て行けとは言わない。
「そんな家訓、一度も聞いたことがない! 第一、無茶苦茶じゃない!」
東向きの座敷には、所狭しと諸国土産やお気に入りの役者絵が並んでいる。
それを取り上げられる、と思い、おふくは子どものように地団駄を踏んだ。
と、母の登勢女は算盤を置き、背筋を伸ばした。
「そこへお座り」
その声音におふくはピタリと止まり、正座した。
立ち聞きできぬように、立てた障子、襖をすべて開いた。もともと一階に客間はない。使用人をやんわり遠ざけたのだ。
「おまえに、話しておきたいことがある」
母がこういうものいいをする時は、ただ静かに聞くに限る。
(ハイハイ)
こころの中で合いの手をいれた。
「うちの上得意はわかるね?」
(もちろん、ハイハイ)
「そう。紀州様だ。なぜ、こんな小さな旅籠にと、不思議に思ったことはないかい?」
(そりゃ、おっかさんの色気と、アタシの器量?)
「もともとうちはね、代々紀州様の、」
と、一呼吸。
「
──クスリゴメヤク?
「なにそれ。薬の行商人?」
常連の投宿客に、富山の薬売りがいた。藩をあげて薬作りに取り組んでいるとかで、びっくりするほど諸国を巡っていた。
「忍びの者。伊賀者や甲賀者みたいなものだよ」
娘がなにか言いかけるのを制し、
「うちはね、紀州様とのご縁が切れたわけじゃない。あたし等の役目は、こうやって普通に暮らしているなかで、御家のお役に立つことなんだよ」
登勢は、真面目そのものである。
おふくは、だんだん恐ろしくなってきた。自分が知っていたおっかさんと、目の前にいるおっかさんが別人のように思えてくる。
「大源寺の良徳さま。知っているね」
頷く。母とむかしからよく遊びに行った。
「大源寺さんが差配する長屋だ。なにもおまえ一人で行ってくれというわけではない。あたしもちょくちょく顔をだすから」
母はおそろしく真剣な目をしていた。
「行っておくれ。おまえじゃなきゃ、できない仕事だ」
そうして、ふた月。
花曇りの夕刻、旅装の若いお武家が二人、太鼓橋の上で江戸の町を眺め渡していた。
ほどなく、二人は日本橋旅籠通りで福籠屋の暖簾をくぐることとなる。
おふくの運命が音を立てて回り始めた、その瞬間だった。
(続く)
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