5話 引越し騒動
「ここが、倫太郎殿の新しい住居になる」
ええっ?!と、表情を凍らせたのは里哉である。
引越しは明日。その前に敵情視察とばかりに先見を申し出たのだ。
「良徳様、ここでございますか!?」
「左様。どうしたのだ、里哉どの」
長屋である。
通りを入っていくつか角を折れ、次第に道が細くなっていった。
横道もなく、町家と町家の間もみっしりして、いかにも風通しが悪そうだ。
やがて、しっかり組んだ木戸の向こうに
両側には六軒ずつの障子戸が並んでいる。手入れはよいようで、破れや雨染みもない。
軒の先には溝を取り、砂利をいれて雨垂れを抑えていた。
とは言っても、やはり、ただの長屋である。
せめて、おそらく、最低、新居は戸建の町屋と予想していた。
「厠は二つあっての。奥の厠の脇を抜けると、菜っ葉畑に出る。もうすぐ青々となって気持ちがよいものぞ。今は桜がちょうど見頃。六軒長屋の桜といえば、この界隈随一での」
と、北側の、手前より三つ目の戸が開いた。出てきたのは総髪の大男である。
人のよさそうな面立ちで、両手を開かんばかりに笑みこぼれていた。
「おお、御坊。お待ちしておりました。隣人となるのはこのお方か?」
小川陽堂は、里哉に向かって満面の笑みを浮かべた。
「篠井里哉と申します。今日は若、わ、り、り……」
陽堂が首を傾げる。里哉は真っ赤になる。
「わ、私のあるじの倫太郎様の露払いで参りました」
「ええっ、倫太郎、まだ来てないのぉ?」
背後から、いきなり若い女の声がした。
ぎょっとして振り返ると、二十歳を少し出た女が、半裸に近い寝乱れた姿のまま、ボリボリと頭を掻きながら近づいてきた。
ちょうど厠から出てきたようだ。
「あいつ、どこかトロいからな」
そのままスタスタと南側の一番奥の戸へ消えていった。
「お凛どのは、医者でな。この辺りでは聞こえた名医」
里哉が驚いたのは、若い、半裸の女が、厠から、出てきたこと、ではなく、
「倫太郎様のこと」
「よく知ってるよ」
知らぬ間に背後に立つ気配に、さすがの里哉も身構えて振り返った。
僧衣である。髪は短く刈り込んでおり、かといって剃髪ではない。まだ若く、おのれの主人と年は近いようだ。
(まるで仏様のような……)
切れ長の一重で、にっと艶冶に微笑みかけてきた。が、なにか物騒な印象がある。
「あ、あなた様は……?」
里哉はあくまでも丁寧だ。これから住う場所で、先達たちに失礼があってはいけない。目上には敬意を持って──とは、里哉の父の鉄則である。
「そいつはー! 牛若丸ー!」
大きな目の女が、奥から顔を出して叫んだ。
「うるさい! その名で呼ぶなっ!」
怒鳴り返してから、
「あのセンセは、佐々凛だよ。俺は
小柄な里哉の肩を揉む仕草をしてから、
「なにか作るけど、食べてくかい?」
「え? 真慧さん、賄いするの?」
南側の二番目の戸から知った声がした。
「おふくどの!」
投宿先の
寄宿先を変えて会えなくなるのが残念だったので、嬉しいような──否、わけがわからない!
「そうだなあ。今朝、いい玉子が手に入ったから、ネギ入りの出汁入りの、ふっかふかの玉子焼きにすっかなぁ」
「きゃーっ!」
「あたしの分も忘れんなよー!」
「おっかさーん!」
──ここはいったい。
里哉は、出しなに倫太郎に言われた、
『お里、驚かぬようにな』
の意味がようやく腑に落ちた。
「良徳様、わ、私が知らぬことが、
空で烏がカーと鳴いた。
ひらひらと風に乗って、桜の花びらが舞い落ちてくる。
「里哉どの。どうぞこちらへお上がりくだされ」
陽堂の円やかな声に、煎れたての茶のよい香りが加わった。
幾分肩を落としながらも、明日からの暮らしに備え、里哉は招きに応じて履物を脱いだのだった。
(続く)
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