2話 白鬼来たりて笛を吹く


 江戸千代田城辰ノ口評定所──。


 本日は内座寄合日である。

 広間の中央に三奉行である町奉行、寺社奉行、勘定奉行が座していた。少し離れて目付役がひとり。

 みな無言のまま、ひたすら時刻が過ぎるのを待っているようであった。


 今日の寄合にはもう一人、間をとって上座を背に座している人物があった。

 当初より、審議には一切口を挟まない。軽く目を伏せ、置物のように端坐している。穏やかな双眸の、一見目立たぬ人物であった。


「──そもそも、評定所ここで審議すべき事案でござろうか」


 口火を切ったのは寺社奉行のうちのひとり、黒田直邦である。

 途端、全員が苦々しい顔になった。の厄介さには、できれば、このまま、一切触れずにいたいほどである。


 評定所とは、管轄違いの訴訟を裁定する幕府の最高裁判機関である。

 例えば、町方同士の争いであれば南北町奉行所が扱う。

 しかし、町方と武家、僧侶と町方、旗本と大名陪臣など、通常の管轄では扱えぬ事案についての決裁を行った。

 加えて、幕府の政策立案やその審議にも関わっており、実際の施策を支える実務機関でもあった。


「ごもっともに存ずるが」

 と、にじり寄ったのは、南町奉行である大岡忠相ただすけだった。

「この一件、町方で知らぬ者は誰もおりません。よみうりは連日、次ははどちらの旗本か、家中かと喧伝しているありさま」

「大岡殿、ならばよみうりを取り締まればよいではないか。町方ゆえ、職務の範疇であろう」

 勘定奉行の久松定持が、うんざりという。毎度、町方のよみうりには苦労している。

「ものには限度、というものがこざいます。人の口に戸はたてられません」

 大岡の言に、相役の北町奉行諏訪頼篤が何度も首肯する。


「それで、例の一件、ご老中へのお届けは出ておりましょうか」

 また無言が支配する中で、中山が目付役の太田某へ間を取り持つように言った。


「それが……、実は一件もござりませぬ。どのご家中、お旗本も黙したままなので、それとなく水を向けてみても、病で床に伏しているとの一点張りで」

「さもあろう」


 全員からため息が漏れた。

 五代将軍綱吉の代まで、大名の改易取り潰しが続いた。結果、浪人が巷にあふれたのである。その記憶は決して古いものではない。


「では、この件は引き続き審議していくということでよろしいか。訴えもなし、被害もなしでは、審議のしようもない」

 町奉行の一声で、本日はお開きとなった。

 それぞれが帰途につき、最後に置物の人物と大岡が残った。


「加納様」

「大岡殿」

 互いに頷きあう。

「この件いかようにお考えか」

 加納と呼ばれた人物は、穏やかな声音で問うた。


 加納久通──通称孫市は、八代将軍吉宗の御側御用取次おそばごようとりつぎである。

 もとは紀州徳川家の家中であったが、吉宗の宗家相続とともに直参じきさんとなった。相役の有馬氏倫とともに、吉宗の側近中の側近である。


「まだ、なんとも。目立たぬように、調べさせてはおりますが」

 町奉行所とは管轄外の事件である。表立って動くことは出来なかった。


 しかし、大岡はこれまで、目付をはじめ多くの御役を歴任してきた。そのつては多様だ。市井にも通じている。


「委細を知りたいとの仰せです」

「相変わらずでございますなあ」

 加納は微笑んだ。

「これでもご幼少の頃より気長になったと、有馬うじと笑い合うこともあります」

 確かに、仕えがいのある主君ではある。


「今しばらくお待ちください。なにかわかり次第、お知らせいたします」

「よしなに」


 加納久通が退出すると、大岡忠相は腕を組んで天井を見上げた。

(さて、どうしたものか)

 どこで聞きつけたか、吉宗が事の真相を急いている。


──いくつか気になる噂は入っているが。


 まず当たるべきは遠い方がよい。

 部下の顔を思い浮かべ算段をつけながら、忠相はようやく座を立った。



(続く)



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