第一章 白鬼の復讐
1話 昨今、江戸で流行るもの
「若様!」
「その、若様というのはやめなさい。と、これで何度目かい?」
「はい、わかり、り、り、倫太郎様。……えーと、百と十三回目です!」
懐にから書き付けを出し、元気よく読み上げた。
この侍者、名を
年は数えの十六で、今年、元服したばかりだ。
小柄で年を若く──若いというより幼く──扱われると、子犬のように吠えかかるくせがある。
眼が悪いのか鼈甲枠の眼鏡をかけ、懐中から出した帳面を一寸の距離でのぞき込んだ。
「お約束の刻限まで、四半刻(約三〇分)もありません。早くたどり着かねば、ご迷惑をおかけしてしまいます。万が一、そんなことになったら、私は父上に殺されます!」
「大丈夫だよ。私が悪かったと説明するから」
「い、いいえ」
と、里哉はかぶりを振った。
「侍者である、私の責任です」
倫太郎は、子どもにやるように、里哉の頭、ちょうど青々とした月代をぽんぽん撫でた。
「本当に、お里はかわいいなあ」
「若様!」
「はい、百と十四回目」
筆先を舐めて、律儀に「正」の字を書き込見ながら、里哉は陽の高さと遠くに見える千代田城の櫓を見比べ、
「行き先はあちらです」
東へ向かう広小路を指さした。
この若侍、名を
年の頃は
面立ちも美丈夫というよりは、人柄のよさが伝わるそれだ。
こざっぱりとした身なりに大小を差し、どこか育ちのよい物腰であった。
と、その時である。
絹を引き裂くような悲鳴が上がった。
往来の人々が一斉に足を止め、声の主を探すように周囲に首をめぐらす。
「わっ、じゃなくて、り、倫太郎様っ、こちらです!」
声の方へ走り始めた野次馬に逆らって、里哉は倫太郎を引っ張った。
騒ぎに巻き込まれたら大変だ。
──若様になにかあったら……。
文字通り、父に首を絞められるだろう。いや、土蔵にひと月吊るされるか、水垢離百本か。
「お里は、ここで待っていなさい」
倫太郎は里哉の制止をすり抜け、人が流れる先へ間を縫うように進んでいった。ごった返す野次馬にぶつかることもなく、どういう具合か水の上をすべるような足どりだ。
通りの真ん中にまで所狭しと出店が並び、売り子が声を張り上げている。行き交うのは坊主、町人、武家、どこぞのお女中、笠をかぶった役者や見世物小屋のゾウ。
物見遊山と、墓参と、色が入り混じり、怪しげな遊興所が軒を連ねる二つとない歓楽地だった。
倫太郎は、大きな輪になって取り巻く、その中心を覗き込んだ。
引戸籠だ。
戸が開け放たれ、中は誰の姿もない。周囲でどこぞの家中か、侍が複数右往左往している。若くはない上臈がひとり、唇を噛んで引戸籠を睨んでいた。
半紙に小柄。
──白、参る。
ざわり、と周囲が騒いだ。
──あれだよ。
──また、あれかぁ。
──今度はどこの御家中かい。
──なにやっちまったんだろうねぇ。
──しっ。
倫太郎は隣に立つ丁稚小僧を捕まえて聞いた。
「あれ、とは何なのだ?」
え?という顔で目端の効きそうな小僧が見返した。妖怪でも見たような目つきである。きょろっと周囲を見回してから、声をひそめる。
「お武家さま、もしかして、お
「まあ、そんなものかもしれないなあ」
事実、倫太郎が御府内に寄宿して、まだ三日である。
「じゃ、仕方ないや。あれは白鬼さ」
「鬼?」
ますますわからない。
小僧はそっと声を落とした。
「最近、攫ってくんだ。それもお侍さんばかり。あの紙に書いた〈白〉ってやつ。町の噂じゃ、攫われた人はみんななにか悪いことしてるらしい。町方には関係ないから、こっちは安心なんだけどさ」
「それは大変だなあ。まさか侍をかどわかすなど」
まさに晴天の霹靂。切腹ものの醜態かもしれない。
「本当だよね。ええっと、これで」
と、小僧はひ、ふ、みと指を折る。
「これで五人目かな。お武家さまも気をつけなよ」
「そうだなあ」
と、東の方から、侍の一団が駆けてきた。引戸籠の御紋は丸に桔梗。家中の者だろうか。
倫太郎は、すっと身を引いた。里哉の待つ方角へ踵を返す。
──どうやら、江戸はかなり物騒なところになったらしい。
まったく妥当な感想であった。
(続く)
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