その二 八卦見 小川陽堂


 弥生三日、雛祭り──。

 春たけなわとは、まさにこの昼さがりのことであった。

 土手で菜の花が咲き、隅田川の桜は満開。暖かな日差しに、ちらりちらりと花を落とし始めた頃合いである。


 江戸は隅田川の川向こう、深川門前町一丁目の南東角、さびれた稲荷神社の脇を入ると、通称花六軒と呼ばれた割長屋があった。


 溝を挟んで南北に六軒ずつ。厠が二つと井戸は東西に二つ。南通りに面して小店が三軒、北は菜っ葉畑。広くはないがのんびりした十二世帯が住う長屋であった。

 名前の謂れは、菜っ葉畑の真ん中の桜の大樹である。これが見事に、今は盛りと花を散らしていた。


 大家は三町先の浄土宗大源寺だとかで、差配はらず、十二軒のうち最も古参の八卦見はっけみ、小川陽道が面倒を見ていた。差配でもないのに大家と呼ばれ、本人も満更ではない様子であった。


 その陽道のもとへ大源寺の和尚がやってきたのは、三日前の如月末日のことである。

「陽道殿」

 和尚の良徳は、歯の抜けた口をもぐもぐと動かしながら云った。

「あるお人をな、預かって欲しいのだがな」

「はあ」


 陽道の室は障子が開け放たれ、桜の花弁がちらり、ちらりと吹き寄せてくる。

 思わず、

「美しゅうございますなあ」

 巨体に似合わぬ繊細な物言いに、良徳は破顔した。

「おお、それは良かった。其方の隣が丁度空いておるだろう。そこを使ってくだされ」

「はあ」

「実に、気のいいお人でなあ」

「それはよろしゅうございますなあ」

 ふたりはニコニコと頷き合い、良徳は茶を啜ってから、よいしょと腰を上げた。

「それではよしなに。お頼み申しますぞ」

「はあ。承知仕りました」

 丁寧に返して老師の背中を見送ると、さてと、というように首を傾げた。

(この度は、どのようなお人やら)


 とにかく今日は春風が心地よい。

 陽堂はポンと手を打つと、沢庵を切り徳利を掴み、床几を持って裏畑へと降りていった。



(続く)

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