深川花六軒太平記

濱口 佳和

序 花六軒の居候

その一 若様 二木倫太郎

 享保十二年、如月も末──。

 夕暮れ迫る江戸は日本橋。東海道の起点で終点。太鼓橋の欄干際から、江戸の町並を見渡す二人連れがあった。


 旅装の武家である。

 ひとりは程よい背の高さに、すっと伸びた背筋。片手に脱いだ編笠を抱え、懐かしそうな目で、行き交う人波を眺めていた。

 凛々しい面立ちではあるが、物見高さが優っている。行く道、来た道を振り返りながら、目を輝かせて雑多な往来を楽しんでいた。

 やがて、花曇りに隠れた富士へそっと手を合わせ、おのれの侍者を振り返った。


「お里、これが江戸だよ」

「はい。ようやく着きましたね」


 いま一人は、かなり若い。元服はしてはいるものの鼈甲枠べっこうわくの眼鏡をかけ、くるくるとした目が幼童のように愛らしい。色白の頬に片笑窪。

 やはり武家の拵えながら、余程儒者や学者が似合いそうな様子である。


「うん。やっと着いたね」

 二人は山あり谷ありの道中を振り返り、思わず笑顔になる。


「わたしは江戸は初めてです。若様は以前」

「約束したね。ではなく」

「倫太郎様」

 りんたろうさま、りんたろうさまと繰り返し、行き交う頭上のガラスの鳴き声にふと漏らす。

からすは紀州でも、江戸でも変わらないんですね」

「姉上ひとり国許くにもとに残してきて、よかったのか、本当に」

 今からでも、と二木ふたき倫太郎は促した。

「江戸見物してから、戻っても構わないんだよ」

「いいえ」

 と、篠井しのい里哉さとやはきっぱりと首を振った。

「わたしは、若様と共に参ると決めたのです。父上も賛成してくださいました」

「うん。すまないね」

 どちらのお守りに、どちらを付けたのか。おそらく、綱をつけられたのは、おのれの方だろう──倫太郎は苦笑する。


「若様! 行きましょう! 天下一の江戸の町ですよ!」

 駆けて行きそうな勢いだった。


 これから待ち受けるものへの期待と、かすかな胸騒ぎと、背負ったものを振り払うように、倫太郎は背筋を伸ばした。


 すべては、おのれ次第である。


 そうして二人は、今夜の宿となる日本橋通旅籠町とおりはたごちょう福籠屋ふくろうやの暖簾を潜ったのであった。



(続く)

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