ひとつ、ふたつ、みっつ。

美木 いち佳

第1話 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 ストンとひらけたウィンドウ。雲が、追われる羊のように流れゆく。それが私とするならば、さしずめ羊飼いは――いやいや。だから、そんな暇は無いんだって。


 青空を着るビルディング、緑の傅く天守閣。「この景色拝みながら仕事できるやなんて、ほんま果報者やで君ら」だなんてよくも言えたものだ。そんな余裕、あったらこのでっかい窓に映してみろっての。

 特に今日みたいな快晴の昼下がりなんか、反射で画面が見にくいったら。


「高宮さん!なんか手伝いましょーか?」

「…んー」

 チラと画面の右上に目をやった。13:23。締切まであと40分も無い。指示を出すのと自分でやるのと。どちらが早いか、2秒もあれば答えは出た。

「大丈夫ありがと。お昼取った?」

 私は彼の方を見もせず最速早口。マウスを鬼のように動かしつつ、キーボードの端では左手が常にスタンバイ。

 それでもちろちろ、視界に映り込んでくる。

「まだです」

 カチッ。

「早くしないとランチ終わっちゃうよ」

 タタン、カチッ。

「高宮さんこそ」

 カチカチ、タン。

「…私はいいから、行っといで」

 あと5点か。マウスを叩き、フォルダをスクロール。このペースならギリ行けそう。画像を読み込む一瞬でやっと、傍らに立つ、いやデスクに両手を付きつつ上から私を覗き込む、彼を見る。

「行かないの?ほら、道重さんたちそわそわしてるよ」

 言い終わらぬうち、私はマックとにらめっこ。持てる全ての速度を両手に込める。

「あ…はい」

 タタン。キーを押し込む音に掻き消されそうなその声を、果たして聞いたか聞かないか。気づくと、彼に塞き止められていた涼風が、私の肌を滑っていた。

「お昼行ってきまーす!」

「行ってきます!」

「…まーす」

 扉の閉まる音なんかもう耳を掠りもしなかった。空腹を忘れるくらい、私は完全に集中モードへギアを入れた。




 私の勤める株式会社シェルデザインは、社員10人足らずの小さな広告制作会社だ。にも拘わらず、この割と高層のオフィスビルの一角に、でんと拠点を構えている。

 社長は営業畑の人で、まさに昭和のノリそのまま。平成生まれの私たちデザイナーは毎度苦労させられている。それでも制作部はまだ甘やかされている方なのか、春に入った新入社員は彼も含めて未だ健在。反して社長直属の営業部は、入った側から辞めていく。半年持ったらいい方だ。だから常に人手不足、年中、中途採用をしている始末。おかげでクライアントとの打ち合わせや各方面への連絡諸々、担当デザイナーが個々にこなすのが最早当たり前になっていた。




 13:58。ワンコールで応答、デジタル時計が丁度、8のシルエットを壁に刻んだ時だった。

「お世話になっております。シェルデザインの高宮です」

 はあ、肩バッキバキ。

「只今入稿させていただきましたので、はい、不備等ございましたらご連絡下さい。はい。よろしくお願いいたします」

 ふう、とひとつ息をつきながら、じわじわ受話器を下ろす。先に電話を切るのが失礼だなんて誰が決めたんだろう。本当、まだるっこしい。

「高宮さん!」

「…ん?」

 また彼だ。私のピリピリオーラが抜け切るのを待っていたのだろうか、椅子を弾くより先に私の名を呼んだ。

「これ、コンビニであれなんですけど」

 私のデスクに脚をぶつける勢いでやって来て、ビニール袋をガサンと置く。

「え、いいのに…いくら?」

「いやいや、俺からの差し入れなんで、気にしないでください」

「そういう訳にもいかないよ、私先輩だもの」

「いや、本当に…」

「やった!冷やし担々麺じゃん、好きなのコレ。ありがと」

 いくらか訊かなくても、パッケージを見れば書いてあるに決まっていた。こう、締切終わりはどうも変に気が抜けていけない。

 財布から500円玉を取り出して持ち上げる。

「はい、ありがとね」

 それだけの動作でもう、押し付けることは容易かった。なんせ近いのだ、距離が。彼の胸の真ん前、丸く薄いこがね色。

「受け取れません!」

 それでも首を振るので、肘を伸ばして思い切り。これを鼻先に突き付けてやる。

「だめ」

 頑なに拒む彼は、徹底した守備を見せていた。ぐむっと両手を後ろで組んで、尚もいやいやと受け付けない。

「頑固者」

 ようし。それならこちらも強硬手段だ。私は立ち上がってすれ違いざま、彼のカーゴパンツのポケットへ捩じ込んでやる。

「あっ」

「お昼、またさっと済ませて来たんでしょ。立て込んでないんだから、ちゃんと休憩しなよー」

「高宮さっ…!」

 彼の抗議は門前払い。私はオフィスの戸を押した。




 化粧室の鏡は嫌いだ。メイク崩れをこれ見よがしにあげつらう。修羅場を潜り抜けた後なんだから仕方ないでしょ。まだ切れ味鋭いままの目元に言い放つ。何か言いたげねと呟けば、鏡の彼女はそっぽを向いた。分かっている、こんな私がなんて呼ばれているかくらい。

 メイクね。そんな暇があったら仮眠でも取りたいくらいだけど、気づいてしまったからには仕方ない。直しておくかと思ったところで、ポーチを持たずに来たことを自覚する。

「あー…」

 まあ、後でいいか。今日は打ち合わせの予定も無い。どうせ誰に見せる訳でもないし。

「あっ、お疲れ様でーす」

「ん?あっ、お疲れ様ー」

 にこにこぺこりの道重さんも彼の同期、今年の新入社員だった。顔も可愛くて愛想が良い。オフィスに華を添えるとはこの事だ。

「浅野くん、戻ってました?」

「ん?ああうん、割とすぐに。ゆっくりして来てくれていいのにな」

「私達も引き留めたんですけど」

「仕事好きなのね、彼」

「そう、なんでしょうか?」

「明日も一緒にお昼行くなら、できるだけゆっくり食べてもらって」

「…やってみます」

 彼女にしては、煮え切らない返事だった。いつも歯切れよく「はい!」と言ってみせるのに。だからそれは裏を返せば「無理です」と同義。

 鏡越しに笑顔で視線を逸らされ、振り向いたけど、パタン。道重さんはもう、個室の向こうで黙してしまった。




 彼、浅野淳平が採用試験に応募してきた時、私はこの会社でまだ一番下っぱだった。

 あの頃は、今はもう辞めちゃった営業の人が一人で雑務までこなしていたため、私もそれを手伝うように言われていた。その最初の仕事が、新卒採用だった。このひと月前に第二新卒として入ったばかりの私に務まる訳がないと思ったが、これも仕事なのでやるしかない。


 送付された履歴書をコピーするとき、やはりいの一番に目に留まるのは顔写真だ。次に字面。彼はそのどちらも整っていた。

 くっきり深く走る二重のライン、その下にぱっちりと愛嬌のある瞳。鼻筋が通っているってこういう事だと、説明する時のお手本にしたいくらいだった。くしゃっと爽やかな髪型もだし、ジャニーズのなんとか君に似ているな。あれ、名前、忘れちゃった。ともあれ、無表情とも笑顔とも言えない絶妙な顔模様が、さらにそれらを魅せて。見とれた。

 結論、採用だなと私は揺るぎ無い確信を得る。きっとチーフのお気に召す。彼女はイケメンが大好きなのだ。悲しいかな、第一印象が全てを決めると言われるように、顔採用というのは現実にある。

 予想通り、彼は内定者第一号になった。




「おお高宮さん。お疲れさん」

 お手洗いから戻る途中、角でばったり社長と遭遇。

「お疲れ様です」

「高宮さん、化粧崩れてんで。さすがは仕事の鬼やなあ」

「すみません。直します…」

 無遠慮に指摘するのは大きな鏡だけではないようだ。ていうか鬼って言うのやめて欲しい。

「どうせメシまだやろ?食わんとあかんで、ちゃんと」

「はい。今から…」

「おっ?なら丁度ええやん。今な、チーフと待ち合わせしよって言っててな。ほらあのタイ料理、この前連れて行ったやろ?」

「はい」

「ほなら支度して。下で待ってるからすぐ来てや!」

「…はい!ありがとうございます」

 雑に手を振りながら社長は、閉まりかけたエレベーターに体を押し込んでいった。

「…」

 なんてこった。捕まってしまった。

 ささっと担々麺を飲みながら、明日アップ予定の案件に取りかかろうと思っていたのに。これは一時間以上引き回されるパターンだ。

 かなり痛い。

 とにかく待たせるのはご法度。エレベーターのさかさま三角を押したら、私はダッシュでオフィスへ戻った。




 濃厚なパクチーとバジルの香り。ここへ来るといつも頼むものは決まっているそうで、せっかちな社長は席につく前にもう、3人分の注文を終えていた。もちろん私たちの希望などは訊きもしない。

 卓に並ぶ料理は、どれも癖がありすぎる。好き嫌いのある子はきっと付いてこれないだろう。パクチー大盛のタイ風ラーメン、目玉焼きとバジル追加のガパオライス、激辛増し増しグリーンカレー。同じものは決してふた皿と頼まない。そして仲良く取り分けるのが彼流のスタイルだった。

 ハンプティ・ダンプティみたいな見た目のくせに、なんて言うと怒られるな、中身はかなり女子色の濃い、うちの社長。

「高宮さん、ほんまよくやってくれとるで。チーフの見る目は確かやな」

「でしょうー?私の投げた仕事もぜーんぶ、ちゃっとやっちゃうの」

 卵は食べない派のチーフは、挽き肉のみを少しだけ口に運ぶ。

「鬼やで、マジで仕事の」

「鬼ね。気も強いし。後輩の指導もびしびしやってくれるし」

 仕事ですからね。だから鬼って言うのやめて欲しい。

「ああそうや、この前浅野くんが泣きついてきよったわ。高宮さん厳しすぎますーって」

「えっ!?」

 そこまで言って社長は、ずずずっとラーメンをほとんど一口で啜ってしまう。大量のパクチーをはみ出させて。

「もうまたすーぐ大げさに言うー。社長の悪い癖よー」

 そうは言いながらも、スプーンを急停止させたチーフの顔はにやけている。

「大丈夫大丈夫、どうせ社長が言わせただけよ」

「そやかて思っても無いことは言わんやろ」


 なんとなく、感じてはいた。

 私は結構細かく指示を出すタイプだ。本当は相手の考える余地も残しておいた方が良いのは分かっているが、この仕事はいつも時間との勝負。悠長にはやっていられない。故にいつも、目先の最短ルートを取ってしまうのだ。

 デザインの最終チェックをするのはチーフだが、それまでに何度も担当デザイナーとリーダーの私との間で校正を重ねる。これがなぁ、もう少しスムーズに行けばいいなと思って、些細なことまで、それこそCMYKの数値からミリ単位の位置調整まで全部口出ししてしまう。

 やっぱりそれが嫌だったのかなぁ。出力した彼のデータに私が赤を入れるのを、本当に切なげに見つめているのだ、いつも。


「でもさぁ、浅野くんいいよねー、いっつもにこにこして、気遣いできるし仕事もまあまあ」

「ま、顔で採ったにしちゃええんやない?」

「なにー、失礼な。字も綺麗やし、ポートフォリオなかなかやんって、社長も言ってた癖に」

「そうやったか?」

「ねえ?高宮さん」

「えっ?」

 自省モードに入っていた私は、グリーンカレーに沈めていた蓮花ごと、顔を上げる。

「もー聞いてたー?」

「すみません、ぼーっとして」

「高宮さんも彼、良いと思うでしょー?浅野くん」

「え?はい、そうですね」

 なんにせよ一生懸命やってくれているのだ、私ももう少しおおらかに受け止めてあげなければ。

「おお?高宮さんまであーいうのがタイプなんか」

「はい?」

「そりゃ格好いいもん。ねえ?」

 あれ。何やら急にガールズトークの風が。

「はあ…」

「心配あれへん。うちは社内恋愛オッケーやで」

「そうそう。私達も半ばそんな感じだし?」

 ちょっと。仕事ぶりの話じゃなかったっけ。どうしてそっち方面に絡めたがるんでしょうか。本当に女子かこの人は。いやまあチーフは正真正銘女子だけど。

「はあ」

「なんややっぱ年下はあかんか?可哀想になぁ浅野くん」

「そうなのー?仕事の鬼には物足りない?浅野くんくらいの子でも」

 はいはい、どうせ鬼ですよ。

 言質を取られたら最後、どんな尾ヒレがついて本人や周りに伝わるか知れない。それがこの女子コンビの恐ろしいところ。こういう時はただ笑っておくに限る。この一年で学んだ事だった。




「あれ、ここにあった担々麺知らない?」

 オフィスに戻ると、もう16時に迫る頃だった。デスクには、パンダの咥えた笹に「ご確認お願いします」と書き添えられたプリント。このファンシーな付箋は道重さんだ。

「あっ、冷蔵庫入れときました!」

 浅野くんもまた、出力の束を手にして近づいてくる。私はサブバッグを足元の籠に放り込むと、チェアを引いた。

「ありがと、ごめんね。夜に絶対食べるから。…社長に捕まっちゃって」

 後半はこれでもかとボリュームを絞る。地獄の耳を装備した社長から身を守る手立ては、これ以外に無い。

「あは、お疲れ様です。あれですよねあの、クソ辛いカレーとまっずい草の」

「こら、聞こえる!」

「あっ…」

 振り返り社長の背中をちらり。どうやら命拾いしたようだ。ほっとした彼は腰を屈め、私の顔のほとんどすぐ横で、こしょこしょ吐息だけで話を続ける。

「俺、なんも食べられなかったんですよ」

「うん、まあ、ドンマイ」

 常々、この距離感には戸惑っている。

 しかもさっき、社長たちがあんな事を言うものだから。こんな色気のない会話にも、そこはかとなく染み出してくるなにか。

 それで今も、締切に追われている訳じゃなくても、彼の顔を見ることはしなかった。もう、なんだか、その視線。落ち着かない。左のこめかみ辺りがひりつくから、そろそろ本題、聞いてもいいかな。

「で、浅野くんもできたの?頼んでた案件」

「はいっ、3案あります」

 受け取った紙束の重量にびっくり。

「え、そんなに?道重さんもやるから1つでいいって言わなかった?」

 私は案ごとにクリップ留めされた束を捲っていく。

「はい、ちゃんと聞いてました」

「ページもの、こんなに作るの大変だったでしょう。昼休憩も疎かにして」

 驚いたことにどれもちゃんと形になっていた。あまり細かく言うのはよそうと決めてきたばかりだけど、それが無くともほとんど赤を入れずに済みそうだ。

「高宮さんのいない時、ちゃんと休憩してますよ」

「じゃあいつ作ったのこれ」

「企業秘密です」

「何それ。同じ会社だっての」

「あはは、じゃあまたお手隙のときにでもお願いします」

「了解」

「はい!あ、道重さんと補正した写真、共有に入れときましたんで」

「ありがと、助かる」

 にこっと口元だけで返事をしつつ彼は、ふたつ向こうのデスクへ戻っていく。その笑顔の後ろ頭を、ぼうっと数秒、私は見ていた。




 あー、だめ。なんっかしっくりこない。

 もう誰もいないオフィス、月明に打たれながら頭を抱えて目を閉じた。壁の時計が嘲笑うように今、2を並べる。

 二人には午前中アップだと言っておきながら、私が間に合いそうにないなんて。詰まった時は本を眺めるけど、もうそんな猶予も無かった。終電までには帰りたい。なんとかして、捻り出さないと。

 でも、そう思えば思うほど泉からは何も涌き出てこない事、若輩ながらもよく分かっていた。やばい。焦り。しかしそれとは裏腹に、閉じた瞼は薄闇の中、心地よい揺らぎを連れてきて――

「大丈夫ですか?高宮さん」

「ひゃっ!」

 引き戻される。頭上から降る声に、なんとも気恥ずかしい悲鳴を出してしまった。完璧に虚をつくなんて、こんなことするの、彼以外にない。

「な、」

 見上げて、近い。

 と思ったらもう、キャスターも悲鳴を上げていた。机ひとつぶん、座ったままに横っ飛び。

「いつの間に!」

「まだ帰らないんですか?」

「うん、まあ」

 浅野くんこそ、なんでまだいるんだろう。直しは明日でいいって言ったのに。だからとっくに帰ったとばかり。そう視線で投げ掛けるけど、彼は遊んで貰えない仔犬みたいな目で、すでに私を見つめていた。

「ていうかなんでそんなに距離取るんですか」

「急に背後にいるからよ」

「じゃあ、ゆっくりバック取れば逃げないでくれたんですか」

「ええ?何それ」

 だけどそんなこと、できる訳もない。私の背中は、今や椅子ごと壁にびったりだ。

「だっていっつも俺、上手く躱されてません?」

「意味、わかんないけど」

 彼を照らす27インチの明かり、フッと消えれば、それだけで頼りない。

 照明を全て落とした事を、今さら悔いろと言うのだろうか。

「…そんなに、俺のこと嫌いですか?」

 悔いろと、言うのだろうか。

「なんで急に、そうなるの」

「だって夕方、社長が言ってました」

「え?」

「『嫌われてんで』って」

 どこで何がどうなった。やっぱり指導が厳しくて?いや、それだと社長は関係無い。私は額を押さえながら、程なく心当たりに突き当たる。あれか、ランチの時、気の無い受け答えをしたからか。

「はー…」

 本当にもう、あの人たちは。曲解して触れて回るそのタチの悪い口、いつかひっぺがしてやりたい。

「…別に嫌いじゃな」

「じゃあ、」

 よほど私の沈黙が長すぎたのか、間髪入れずに被せてくる。

「…好きですか」

「なっ…なんでそうなるのよ!」

「否定は、しないんですね?」

 どうして今、これまでで一番真面目な顔をしているの、なんて、

「…好きじゃない」

「ええ、じゃあやっぱり嫌いなんだ」

 訊けないのはなぜだろう。

「だから…」

「なんで俺のこと、嫌いなんですか?」

「……」

「ねえ、高宮さん」

「もう、仕事終わったんなら帰りなさい」

「いやです」

「なんで…!」

 そこでもう、私は言葉を紡げなかった。

 彼の瞳が黙らせる。


「…じゃあ、白状します」

 高らかに言って彼は、月光を意のままに従える。暗がりのオフィス、二人の姿を灯して。

「ひとつめ」

 右足を振り出し一歩。また急に、何が始まるっていうの。

「俺、仕事半分にいつも、高宮さんのこと…見てました」

 どくん。

 まさか。

「だから、コンビニの冷やし担々麺が好きなことも、知ってました」

 どくん。

 そんなこと。

「ふたつめ」

 左足を前に、また一歩。

「わざと、たくさん直されるようなデータ、作ってました」

 どくん。

 彼の一歩は大きくて、

「高宮さんと少しでも長く、打ち合わせしたくて」

 どくん。

 もう、すぐそこにいる。

「…その間、俺がどれだけ見つめてたか、気づいてます?」

 一際派手に跳ねる心臓。

「でもそれが、全然効果ない上に、高宮さんの負担を増やしてるだけって気がついて。俺も本気で仕事してみようって思ったんです」

 いつも感じていた、あの切なげな瞳が、今はこんなに、

「最近、お疲れみたいだったから。なんか今日、こうなる気がして。俺がひとつでも多く作っておこうって」

 優しくて、強くて、

「それで、高宮さんの力になれたら、今度こそって」

 目を離せなくなる。

「そろそろ、気づいて貰えました?」

 逃げられなくなる。

「俺、高宮さんのこと好きなんです」

「…っ!」

 息、できない。

 瞼が上下するたびに、鼓動が速くなるほどに――思い知らされる。

「だから、なんで嫌いなのか教えてください」

 どうしよう、顔、見ないで。だって、きっと知られてしまう。

「…本当は俺のこと好きなのに、嫌いって言う、理由」

 月が、彼が、暴くから。

「……!」

 ――気持ちに気づいてしまったこと。

「なんでそんなこと、浅野くんに、分かるのよ…っ」

 それでも強がるのは、やっぱり仕事の鬼だから?こんな表情、らしくないから?顔をいっぱいに赤くして、薄く覆う涙に震える瞳は、

「じゃあ、試してみます?」

 わかってる。もう、ただの女。

「何…を」

 彼は不敵に笑う。今まで見たことのない、仕事では見せない、男の顔。

「美月さんが俺のことどう思ってるか」

「!」

 それが今夜、仄暗いオフィスの、隅っこで。気まぐれに顔を出す月のように。

「…みっつめ」

 そしてまた一歩踏み出せば、爪先同士がキスをして。

「これが最後です。俺、……」

 覆い被さる彼の影。

 瞳には、彼が見えなくなるくらいにもう、彼しか、映らない。

 本当は、あの時、最初から。

「……そういうトコ……きらい」

 まどろむ睫毛を、見届けないまま、私は――

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ひとつ、ふたつ、みっつ。 美木 いち佳 @mikill

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