第56話 31日目
ふわっと身体が持ち上がり、急にしっかりした大地の感覚が襲ってくる。
もちろんメルスの感覚だ。
あれからわずかな時間でキスをした後、そそくさと腰の布袋に迎え入れてくれた。
ただいま!
やはり居心地がいいもんだ。
それにしてもここはどこだろう。
どうやら誰かの部屋の中らしい。
一通りの家什は揃い、椅子がひとつと、テーブルの上には底の深い皿に盛られたシチュー、窓があり外は真っ暗だが、その側のサイドテーブルの花瓶に鮮やかな花が生けてある。
メルスは意識を失って眠り続けている妖精さんも腰の布袋に入れると、キョロキョロして興味深そうに部屋を観察している。
特徴的なのは、壁の一面にドンと構えているみっちり詰まった本棚と、珍妙な品物が陳列されている飾り棚だ。
メルスに本棚の前に立ってもらった。
俺には分かる。
これは禁書だ。
『ニコニマス倫理学』『方法序説』『実践理性批判』『愛するということ』『正法眼蔵』『バーチャル・リアリティ』『自然哲学の数学的諸原理』『量子論』『菜根譚』……。
悦ばしき肌触り。
とすると、飾り棚は。
魚拓があった。珍しい動物の骨。民族性あふれる木彫りや石造りの像、彫り物。見事な意匠の伝統工芸品。見ただけではどのような用途かわからない道具類。贈り物らしき数々のアクセサリー。お面・仮面。そして、書き込みがすごい手書きの一枚の地図。
――ここは俺の部屋。
かつての俺だったものの部屋なのだ。
メルスはうずくまって目を閉じ床に口づけをしていた。いや、吸っている?そして天井に顔を向けて床に寝転がったまま大の字に手足を伸ばししばらくそうする。
何をしているんだ、とは聞かなかった。
一体になろうとしているのだ。
少しでも近づきたくて。
少しでも知りたくて。
見ていて、感じていて、触れているからこそ苦しかった。
なあ、メルス。
許してくれるだろか。
俺がこの頃の俺でなくても。
忘れているにしても、ここにいる俺はなんとなく違和感を感じている。
たぶん前の俺とは意識が変わってしまっているからだろう。
以前にも気づいていたがこれはカラダが変わったからだ。
意識はカラダと関与している。
カラダなき意識だとしたらそのように順化していくのだ。
至ることができたのはこうしてかつての自分とゼムクリアンの世界構造が向き合わせてくれているからだ。
胸の感触があった。
メルスがいつのまにか俺を包み抱いていたからだ。
幸せそうに、嬉しそうに。
だがそれ以上に、同情とも慈しみとも取れる絢豊かな奔流が立ち上がった。
それはほんとうとほんとうとの向き合いだったかもしれない。
それほど、俺にどこまでも近づいていた。
混じり合わないのはそれだと低きを流れるからだと言わんばかりだった。
でもなぜ交わし合わないのだろう。
それが愛の本質の部分ではないのか。
メルスは頑なにそれは拒否している。
あんなにも溢れんばかりだったのに?
これには理由があるはずだ。
それは抜き足ならぬ切迫したどうしようもないほどの。
メルスを思い浮かべる。
そもそもメルスがメルスである所以……。
それはこんなにも……。
考えて考えて思い当たった。
合一はダメなのだ。
それはメルスが混じりものだから……。
精神的な一体化は危険だと判断したからだ。
知性化が進んだからか。
すべてがよきよろしく成っているかと思ったら大間違いだった。
そもそもが致命的だったのだ。
それでもできうる限りで互いを交わし合うギリギリまで迫る。
これをなんと呼べばいいのだろう。
愛なのだろうか。
禁ぜられることが新しい何かを垣間縫っていた。
これは新しい関係のかたちかもしれない。
まだ名づけえぬその繋がりは弱々しくもしっかりと踏みしめられていた。
愛というには恥ずべきものの変奏曲というならそれでもいい。
勘違いでも構わない。
この通り道はたぶん光を見出さないだろう。
それでも是定しようとするのはそこにある何かが俺を俺として成り立たせようとしてくれるからだ。
でも。
でもだ。
それでもこの狂おしい葛藤をどうしろというのか。
この問題については感情のままに行動できないさらなる根深い問題があった。
それでもメルスの一点の曇りのない嬉しさは何なのか。
諦めかと思ったが、どうも違う。
これについてはどうやっても分からない。
「食べてもいい?」
おずおずと、メルスがシチューを見ながら尋ねてくる。
俺はこのままでいい、とあっさり認めた。
少しでも一緒の時間を過ごそう。
実のところシチューが好きだったかどうかや、自分で作っていたのかどうかなんて、ほとんど覚えていない。
雷の衝撃を受けたような記憶の復活なんて起こりえなかった。
それはそれで踏ん切りがついていた。
過去の自分に興味がないかと言われればもちろんあるに決まっている。
それでも良しとできたのは、今の自分がすべて、だからだ。
無理してかつてを取り戻して何になるか?
ここにいる俺は、過去をも踏まえて存在しているのだ。
それでいいではないか。
無理に今の状態をどうのこうのはしたくない。
むしろしないほうが良い気がしている。
それでも一緒にシチューの味を楽しんだ。
それぐらい、それぐらいなのだ。
ほのやかな魂が震えている。
31日目は続いていく。
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