ピラフ
コジコジ
ピラフ
閉店まであと一時間。カウンターの左隅にいる男は、いつものようにピラフを注文した。
「はいよ」
居酒屋の店主は端的に返事をすると、慣れた手つきでピラフを作り始めた。熱したフライパンにバターを溶かして、玉ねぎを炒める。そこにミックスベジタブルと小エビを加えて、さらに炒める。玉ねぎをたっぷり入れるのがこの店のこだわりだ。
ピラフは、店の看板メニューでもなければ、特に人気メニューという訳でもなかった。どちらかといえば注文の数は少ない方のメニューで、『ご飯もの』の中では最下位だった。注文の多いお茶漬けや焼きおにぎりと比べると圧倒的に売り上げに差があったが、店主はピラフをメニュー表から外すことはなかった。なぜなら、カウンターの左隅にいるこの男が、来店する度にピラフを注文するからだ。いつも最後にピラフを食べて帰るのだ。
店主はピラフが完成すると、適当な皿に盛り付け、バターの香りと共に男の元へと運んだ。
「ありがとうございます」
一言店主に礼を言うと、男は出来立てのピラフをスプーンですくって、一口食べた。
男は居酒屋の常連客であった。といっても毎週顔を出すほどマメではなく、月に一度か二度、ふらっと現れるくらいのものだった。
いつも一人でやってきては、カウンター席の隅に座った。初めのうちは、その他の常連客たちも男に気をつかって話しかけたり、隣に座って酒を酌み交わしたりしていたが、次第にそれも無くなっていった。愛想が悪いというわけではないが、仲を深めようという素振りが男からは感じられなかった。
きっと一人が好きなタイプの人間なのだ。と、店主は感じていた。男には一人になりたい夜がある。そんなとき、うちの店に来てくれているのだろう。店主は男に必要以上に関わらなかった。だから男の素性はあまり知らなかった。聞く必要も特にない。一度だけ彼に話しかけたことがあった。「いつもピラフを頼んでくれるね。ピラフが好物なのかい?」と尋ねると、「この味が好きなんです」と、男は答えた。店主と男の会話らしい会話というのは、そのたった一回だけ。ただ、いつも美味しそうにピラフを食べてくれる彼を、店主は嫌いではなかった。
男はピラフを食べ終えると、会計を済ませて居酒屋を後にした。閉店の時間を過ぎてもワイワイと居座る客らもついには帰り、店主は店先に掛かる『営業中』の札を返して『準備中』とした。
「やれやれ、騒がしいのもやっと帰ったな」
静けさを取り戻した店内で、店主は今日の売り上げの勘定を始めた。
ピラフをメニューから取り下げようとしたことは、何度もあった。ピラフのためだけに仕入れている食材もいくつかあるし、売り上げがあまり良くない。居酒屋とピラフがミスマッチであるのか、それとも単に味が悪いのか。いずれにせよ、あの男以外からは注文されることはほとんどなかった。しかし、この味が好きだという人間が一人でもいてくれるのならば、メニューから外したくない。それが客商売ってものだろう。と、店主は考えていた。
勘定を終えると、店主は一人ぼっちになった店内で、いつものように一杯だけ酒を飲むことにした。カチッ、カチッと時計が時を刻む音だけが響く。数年前であれば、妻が皿洗いでもしている音が聞こえただろうが、今はもうない。居酒屋の経営が上手くいっていない頃、妻には強く当たってしまった。思い通りにならない時というのは、身近な人にこそ感情をぶつけてしまう。言い合いになることが増え、ついには妻から離婚を切り出されてしまった。今では後悔しているが、時計は巻き戻ることはない。それっきり店主は居酒屋を一人で切り盛りしていた。
男が店に来なくなった。もうかれこれ半年くらいになるだろうか。何かあったのかもしれない。いや、特に何もないのかもしれない。単純にこの店に飽きてしまったのか。急遽転勤が決まり、街から出ていってしまったのか。男の素性を全く知らない店主には、分かるはずもなかった。何の見当もつかなかったが、不思議な客だっただけに気がかりであった。
男が来店しなくなったため、ピラフは全くと言っていいほど注文されなくなった。といっても、男が来店していた時も月に三、四回程度の注文しかなかったが、男が注文をしてくれるから、という存在意義すらも失ってしまった。
今夜は雪が降っていた。今年の初雪だった。そのためか、客足もいつもよりまばらであった。店主は今晩、注文がなければピラフをメニューから外すことを決めていた。理由は何であれ、男は店に来なくなった。好きだと言ってくれる人がいないのであれば、売り上げの悪いピラフは必要ない。
案の定、ピラフは注文されることなく、閉店の時間が近づいてきた。もう客も誰一人いなくなっていた。今夜は早めの店閉まいにするか。店主が立ち上がろうとした、その時、ゆっくりと店のドアが開かれた。その慎重さからは、なるべく音を立てまいとする、店内の者への配慮が伺えた。冬の冷気と共にドアから入ってきたのは見慣れない一人の青年であった。
「いらっしゃい。今日はもうすぐ閉めてしまうが良かったかい?」
「ええ、分かりました。構いません」
「じゃあ、お好きな席へどうぞ」
促された青年は、空っぽの店内の中で、迷うことなくカウンター席の隅へ腰掛けた。店主は取り皿と箸一膳、おしぼりを用意して、青年に差し出した。彼は手に持っていたメモ書きのような紙切れを、椅子の背にかけたコートのポケットにしまって、おしぼりを受け取った。
「いらっしゃい。今夜は寒いね。体も冷えただろう」
「あっはい。しかも、少し迷ってしまったので。余計
に」
青年は両手で腕をさすり、身体の冷え込み具合をアピールして見せた。
「ほぉ、迷ってしまったっていうことは、うちを探してきてくれたのかい。嬉しいな。うちはそんな名店でもなんでもないが」
店主が笑顔を見せると、青年は少しだけ姿勢を正し、言った。
「父に、この店に行ってみてくれないかとお願いされたもので。死んだ父がよくこの店にきていたそうなんですが、おじさんは父のことご存知ですか?」
予想もしていなかった返答に、声も出せないまま、店主は頭を巡らせた。だが、すぐに見当がついた。思えばどことなく顔つきも似ているようなが気がした。
「お父さんってもしかして、うちでよくピラフを食べてくれていた彼か?」
それを聞いて、青年は少し驚いた顔をした。
「ピラフ…。あぁ、そうかもしれません。なにせ、僕もこの店のおおまかな住所と、名前が書かれた程度の紙が手元にあるだけなので断定はできませんが」
青年は、先ほどコートのポケットに入れた紙切れを取り出し、店主が見えるようにカウンターの机の上に広げて見せた。確かに、この居酒屋の住所と名前で間違いない。
「彼は、亡くなったのか?」
「はい。3ヶ月ほど前になるでしょうか。突然の病気だったようです。父とは離れて暮らしていたので、死に目には会えませんでした」
「そうだったのか。いや、すまない。悲しいことを思い出させて。君のお父さん、もちろん覚えているよ。月に一度か二度、うちに食べにきてくれていた。物静かな人だったからあまり話しはしていないんだが。ただ、そう、ピラフを毎度注文してくれていたんだよ。この味が好きだってね。とても旨そうに食べてくれていた」
「そうだったんですね」
「......よかったらでいいんだが、お父さんのこともう少し教えてくれないか」
青年はカウンター越しに店主を見上げた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「父と僕は、母と三人で暮らしていました。しかし、僕らが暮らしていたのはこの街ではありません。もっと遠くにある街です。
家族三人で何事もなく過ごしていた時間は、とても幸せでした。といっても特に裕福だったとか、恵まれていたとか、そういうことではありません。今思えばあの頃が幸せな時間だったのです。当たり前すぎて、その時は気づいていませんでした。
僕が十歳になる頃、父の勤めていた食品メーカーが業績不振で倒産してしまいました。食品に異物の混入があり、一気に失った信用を取り戻すことができなかったと聞いています。
仕事を失った父は、段々と人が変わっていきました。ストレスで精神が疲弊してしまったのです。なかなか新たな就職先を見つけることができず、父の気力や希望が蝕まれていくのを幼いながらに感じていました。酒に浸っては、母や僕に言葉にならない叫びで、わめき散らしている夜もありました。そしてある日、学校から帰宅すると母に手を上げている父を見てしまったのです。
父と母は、割って入った母方の親戚の援助もあって離婚。最後まで離婚に反対していたのは、母でした。今だけだから。この人はまた、前のように戻ってくれるから。と、最後まで聞かなかったそうです。しかし、その頃にはもう母も限界だったようで、離婚して数ヶ月は、家から出られず寝込んでいました。
父は出身であるこの街へ、帰って行きました。あの頃の僕は、父を確かに憎んでいました。当然といえば当然です。けれど、底の、底までは嫌いになれずにいた。なぜなら僕の、たった一人の父だからです。
高校生にもなると、すでに僕はもう父に会いに行きたいと思っていました。母も回復して、僕らは僕らなりの安定した日々を取り戻していました。だけど、やはり父がいないのはさみしかった。母も同じように感じていたと思います。僕は、高校を卒業したら父に会いに行こうと決めました。僕も大人になったし、父もこの街で新しく仕事を見つけて、すでに落ち着いてると聞いていました。
そして僕は、今年の春に大学生になりました。それで、数年振りに父に電話をかけてみたんです。彼は何の抵抗もなく電話に出てくれました。そんな気がしていたんです。始めはお互い緊張していましたが、次第に打ち解けて。僕が話している相手は、紛れもなく、僕の父でした。春はバタバタしていて忙しいから、また落ち着いた時期に会いに行くよ。と、伝えました。母にも話しました。父さんに会いに行こうと思うんだって。そしたら母は、私も行きたいと言ってくれました。また、元の三人に戻れる。家族に戻れる。と、思っていました。
しかし、突然でした。父は病に倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまいました。母と二人でどれほど泣いたでしょう。間に合わなかった。すぐに会いに行かなかったことを後悔しました。話したいことがたくさんあったのに。
人間ってなぜでしょう。大事な人にこそ、想いを伝えない。何かきっかけがないと動けない。想いを伝えることに、タイミングなんて本当はこれっぽっちも必要ないのに。それなのに、なぜか僕もそのきっかけを待っていました。しかし別れは突然。こっちのタイミングなんかに合わせてはくれない。そんなこと頭では知っていました。だけどまさか、自分には起きないだろうって、考えてしまうのですね。なんて愚かなんでしょう」
青年は、おしぼりを握っていた手をほどいた。おしぼりには握った手の跡が残る。
店主は、彼にかける言葉を探していたが、見つけられないでいた。すると青年が、カウンターに開かれたままだったメモ書きを指差し、言った。
「このメモは、父が病院で最後の力で書いてくれたものです。短いいくつかの言葉と、このメモを僕と母に遺してくれました。父の最後のメッセージです。僕と母を、この店に連れていきたかったのだと書いてありました」
「そうなのか。こんな汚ない居酒屋で良かったのだろうか」
青年は店主をまっすぐ見て言った。
「おじさん。父が食べていたピラフ、作ってもらえませんか」
「......わかった。ぜひ食べてくれよ」
店主は厨房に移動した。フライパンに火をかける。十分に熱が伝わったことを確認して、バターを入れた。バターは鉄のリンクを滑り、香りを放ちながら溶けていく。まずは玉ねぎ。みじん切りにした玉ねぎがフライパンの上でバターと絡み合う。玉ねぎからジュワジュワと水分が溢れ出し、湯気が立ち込めた。重なった玉ねぎの欠片を木へらでトントンと叩いて、剥がしていく。「うん、玉ねぎはちょっと粗いくらいが美味しいね」頭の中で声がする。なぜ、思い出しているのだろう。玉ねぎの量が多すぎたか。ツンッとした刺激には慣れたつもりでいたが、今日はやられたらしい。視界が霞む。玉ねぎがバターでコーティングされ、キラキラ輝き出した。そのタイミングを見て、冷蔵庫から市販のミックスベジタブルを取り出す。ジッパータイプの袋を開けて、フライパンに流し入れる。鉄に落下して、コロコロと音を立てる赤、緑、黄。一瞬にして解凍され、その色艶を丸裸にされたニンジン、グリーンピース、コーンが完璧な比率でフライパンを彩った。適度に火を通したら、小さい剥きエビを入れる。これで具材は全てだ。ここでじっくり炒める。火加減は中火。玉ねぎを焦がさないように、木へらを動かし続ける。エビがほんのりピンク色になってきたところで、炊いたご飯を一人前、混ぜ合わせる。固形タイプのコンソメを包丁で刻んでから加え、塩こしょうで味を整えていく。
我ながら安い味だなと思う。市販のミックスベジタブルをそのまま使っているし、もっと言えば、本格的はピラフは炊く前のお米からつくる。この妥協が売れない原因かもしれない。でも、この味が好きだと言ってくれる人がいる。彼もそうだった。彼女もそうだった。
店主は完成したピラフを適当な皿に盛り付けて、バターの香りと共に青年の元へと運んだ。
「出来たよ。君のお父さんが好きだったピラフ」
「ありがとうございます」
「どうだろう。君の口にも合うかな」
青年はスプーンでピラフをすくい、一口食べた。
「あぁ、やっぱり。僕も好きですこのピラフ。あの頃、母がよく作ってくれたピラフ。その味に似ています」
青年は勢いよくピラフを食べ始めた。
「そうだったのかい。彼も君たちのことを想いながら食べていたのかな」
青年は、水も飲まないで黙々とピラフを食べた。下を向いているため、店主から青年の表情はよく見えない。
「......彼もキッカケを待っていただけなんじゃないか。きっとそうだと思うよ。君が彼に電話をかけた日より、もっとずっと前から、君たちは家族に戻っていたのかもしれないね」
青年は、ピラフを食べる手を止めない。カチャカチャとスプーンの立てる音が、わざとらしく響く。
「君が彼に会いたくなっていた時、彼も君に会いたくなっていたはずさ。人間ってそんなものだよな」
店主はグラスに水を注いで、カウンターの上に置き、厨房へ洗い物をしに行った。しばらくしてからカウンターへ戻ると、青年はピラフを綺麗に食べ終えていた。
「美味しかったかい」
「はい、とても。ごちそうさまです」
青年はもう一度グラスに水を注ぎ、一杯飲み干すと、時計を見た。
「今日はもう、帰ることにします」
「あぁ、もうだいぶ遅いね。電車はあるかい?」
「いえ、今日はこの街に泊まっていきます」
「そうか、それもいいだろう。お代はいいから。また来てくれよ」
「ありがとうございます。次は、母も一緒に連れてきます」
青年は帰っていった。雪はすでに止んでいた。店主は青年が歩く後ろ姿が見えなくなると、『営業中』の札を返して『準備中』とした。
ひとりになった店内。カチッ、カチッ、と、時計は一定のリズムで時間を前にだけ進ませている。閉店の時間はとっくに過ぎていた。今日は習慣の酒を飲むのは、なんとなくやめにした。その代わりに、店主の手は受話器を握っていた。
「…もしもし、やぁ。こんな時間に出てくれるとは。うん、君も元気かい。いや、違うんだ。悪かったのは僕の方だよ。え?あぁもちろん。まだあるよ。君の好きな味のままさ。最近じゃあお客さんにも好評なんだよ。ねぇ、近々来られないかい。会わせたいお客さんもいる。いや、酔っ払ってなんかいないよ。僕はただ、早く君に会いたいんだ…」
ピラフ コジコジ @this_kojikoji
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