3 さらば、京都駅待合室ホテル

〈いかに眠るか〉


 衣・食とくれば、当然最後は〈住〉である。

 家を持って歩くことはできない(トレーラー・ハウスなら文字通り住居ごとの旅行ができる、というのは屁理屈である)。しかし、自分の体だけが頼りの旅行だから、疲れた体を横にして休め、落ち着いた食事の出来る空間は欲しい。団らんの場や快適なくつろぎの空間を求めたりはしないが、せめて雨露をしのいでくれるものは必要だ。

 背負って歩けるもの、と考えれば、やはりテントをおいてほかにない。それも登山用の小型軽量のもの。最近のキャンプ場でよく見かける家型のテントは、広くて居住性が良く、なんといっても中で立って歩ける(普通は膝立ちが精一杯)のが凄いが、その分どうしようもなく重い。もともとファミリー向けのオートキャンプ用だから、人間が持ち運ぶことなど考えていないのだ。したがって、当然バツ。やはり簡単設営のドーム型が最適だ。ぼくの場合、当初は三角屋根の昔ながらのテントで苦労したが、ドーム型が出回るようになって乗り換えた。お陰でどんなに楽になったことか。

 なにも重いテントを持ち歩かなくても、安宿を探して泊ればいいではないか、というのもひとつの考え方である。とくに冬場はそうかもしれない。

 宿には宿の良さがある。山の中の温泉宿、それもあまり知られていない湯治場などは、ぼくも大好きだ。人との出会いも捨てがたい。

 しかし、テントにはテントの良さがある。たとえば海に突き出た岬の突端。斜面を覆う草の緑、その上にまるで空から紙を千切ってばらまいたような色とりどりの無数の花。先端は黒ぐろとした岩が露出して切り立った崖となり、波が激しく打ちつける。その手前に、岩に抱かれた静かな湾。青い空がどこまでも広がり、それよりもさらに青い海と遥か彼方で接している。水平線のすぐ上にいつのまにか雲が並び、太陽が近づくにつれて徐々に赤く輝きだす。いよいよ空と海を染め上げる壮大な色彩のショーが始まる。というとき、旅行者はバスの時刻や宿の夕食時間が気になって、それをゆっくり楽しむことができないだろう。どんな美しい自然の中にいても、いずれ宿に帰らなければならない。なんともったいないことだろう。

 旅行者たちが去ったあとの岬で、ぼくはなおも色彩のショーを楽しむ。巨大にふくれあがった太陽から黄金のしずくがこぼれ、赤から紫、そして濃紺へと空気が染め上げられていく。ひとつ、ふたつと星が輝きはじめ、風が夜の匂いを運んでくる。ぼくはそれを眺め、全身で感受する。背中に大地を感じ、顔の上に天空を感じながら、再び朝が訪れて陽が照りつけるまでぼくはその場で眠る。風景の中に入りこみ、その美しさにどっぷりと浸りきることができるのだ。それがテントの良さである。

 ようするに野宿である。テントは、雨や風や夜露をしのぐための一枚の布切れにすぎない。野外の自然がそのまま我が住み家、なんと壮大な住居であることか。

 これはひとつの旅の流儀である。あるいは覚悟と言うべきか。文明の恩恵を放棄するわけだから、快適さはのぞむべくもない。不便や、少々の苦痛は当然のこと。それらをまとめて楽しんでしまえるような覚悟が必要だ。その覚悟があるのなら、〈住〉についてはほとんど問題にならない。

 そこで、〈住〉の問題は「いかに眠るか」という問題に集約される。人間にとって、住むことよりも眠ることのほうがより本質的なのである。

 「いかに眠るか」はヒッチハイク旅行にとって大きな問題である。とくに、目的地につくまでの移動中ではテントもめったに張れないから、「いかに眠るか」はかなり深刻な問題になる。

 「ヒッチハイク中は眠ってはいけない」という大前提と、それは真っ向から対立する。

 「いかに眠るか」は「いかに眠らないか」と裏表の関係にある。

 しつこいようだが、ヒッチハイクをして車に乗せてもらったら、絶対にその中で眠ってはいけない。ドライバーが眠かったり、退屈していたりするからこそ乗せてくれるのだから、そこで自分が眠ったら、ドライバーも眠ってしまうだろう。事故の元である。

 東京から幹線道路を下るときは、まだ元気もあって、一晩ぐらいの徹夜はなんともないが、旅の日を重ねるにつれ、だんだんそうもいかなくなってくる。真夜中に車を降りたとき、どこかで眠るか、そのままヒッチハイクを続けるかの決断を迫られる。状況と体力とを考えて判断するのだが、たいていの場合、国道のそばでテントを張れるようなところはない。夜風にあたって眠気が覚めたとはいっても、再びヒッチハイクをして暖かい車内に入れば、またすぐ眠くなるのが目に見えている。このようなとき、いかに眠るかというのは最大かつ緊急の課題となる。


 橋の下の河原にテントを張ったこともあった。

 都会では大きな公園の茂みの中で寝た。もちろんテントは張れないから、新聞紙の上に寝袋を敷いて、顔や表に出た部分にタオルを巻いて眠る。蚊がものすごいためだ。ほんの少しタオルがずれただけで、瞼の上や耳たぶなどに何箇所も刺されてしまう。手袋と袖の間のわずかの透き間にぐるりと七箇所も蚊に刺され、ブレスレットみたいに輪になって腫れたこともある。

 しかし、たいがいは横になれる場所さえ見つからないものである。応急処置としては、ドライブインで降ろしてもらい、少し仮眠をとるという手がある。横になってゆっくり眠るというわけにはいかないが、つぎのヒッチハイクを始めるのに便利ではある。

 似たような方法として、街中では駅の近くで降ろしてもらい、待合室で眠る手もある。この場合、夜行列車が頻繁に出入りする大きな駅でないと、夜中に追い出されてしまうから注意が必要だ。

 この手の駅で最も有名なのが京都駅であった。今はどうかしらないが、当時は京都ステーションホテルとまでいわれ、外人も含めてかなり多くの若者がそこで寝泊りしていた。ぼくもずいぶん利用した。大阪で万博が開かれたときは、京都駅をホテル代わりにして茨木の会場へ一週間ほど通ったこともある。

 そのころの京都駅はぼくの一番好きな駅であった。東京駅や上野駅は全部が始発や終着なので、最終列車が到着すると、始発が出るころまでは締め出され、電気も消えてしまう。ところが京都は途中停車駅なので、真夜中でも人の出入りで賑わい、その上外人旅行者も多くて、なんとなくヨーロッパの国際ターミナルのような感じだ。

 駅前があまり賑やか過ぎないのも良かった。街の中心は四条や三条のほうで、駅からだいぶ離れているから、着飾った女や酔払った遊び帰りの連中がどかどかと駅になだれ込むこともあまりない。夜中の待合室はほとんどが旅行者で、旅行者同士はどこか気持ちも通じるところがあるから、気兼ねのいらない駅であった。今とはずいぶん雰囲気が違っていた。


 春休みを利用して、京都の街を旅行してみようと思いたった。それまで京都は何度も通過し、駅で眠ったこともあったが、街を見学したのは中学の修学旅行のときだけだった。とくに大原とかの街から離れた静かなところを見ておきたいと思った。この季節なら観光客も少ないだろう。そう思って出掛けたのはもう三月も終わろうとしているときだった。

 この旅行ほど「いかに眠るか」で苦労させられたことはなかった。

 東海道を下るときはいつもそうするように、大崎から第二京浜に出てヒッチハイクを始めた。小田原あたりで一度車を乗り換え、名古屋の手前の街で降ろされたのは例によって深夜だった。

 普通だと、そのままヒッチハイクを続行して京都まで行ってしまう。ついているときは、京都ぐらいノンストップで行けたものだった。なぜかそのときは、いくらやってもうまくいかなかった。無理をしないで少し眠ろうという気になった。何回かヒッチハイクポイントを変えながら歩いていて、道路脇にたまたま手ごろな空き地を見付けたからでもあった。

 夜中なので周りがどういうところなのか分からなかったが、少なくとも駅前の商店街というようなところではなさそうだ。朝早く片付けて出発すればいいだろうと思って、テントを張った。空き地に茂っていた雑草がクッションになって案外寝心地もいい。ぐっすりと眠ってしまった。

 目が覚めたときには、すでにテントに陽が当たっていた。眩しいくらいだった。

 寝過ごしてしまったのだ。寝袋からもそもそと出て、テントの入り口を開くと、こっちをのぞき込みながら通り過ぎる通行人の群れと目が合った。ちょうど通勤時間だった。

 これはさすがに恥ずかしかった。ときどき顔を出して外の様子をうかがったが、すぐに人通りが減るようではない。サラリーマンに混じって学生が団体で通る。彼らは露骨にのぞき込んだり、何かしゃべり合って笑ったりする。彼らの好奇の目の中でテントを片付けるような勇気はなかった。とくにぼくと同年代の女子高校生たちには見られたくなかった。どこでも通学時間は集中しているものだから、テントの中でじっとやり過ごすことにした。

 遅めの出勤のサラリーマンや子供を幼稚園に送るらしいお母さんたちにじろじろ見られながらテントをたたみ、素早くその場を離れた。少し歩いて曲がったところが駅だった。人通りの多いわけである。

 駅を過ぎてしばらくすると人通りも減った。しかし、いくら歩いても街外れに出ない。けっこう大きな街だったようだ。適当なポイントを捜してヒッチハイクを再開した。車に向けて手を振ると、道の向こうがわで子供とお母さんがこっちに手を振る。トラックの運ちゃんまでが手を振って通り過ぎたりする。バスが止まったり、タクシーが止まった。やりにくい街だった。

 その日の午後あまり遅くないうちに京都に着いた。五条大橋でトラックを降りた。東海道五十三次をやってきた、という実感が湧いた。清水寺を見てから七味屋の七味を土産に買い、京都駅へ向かって歩いた。

 はじめから駅で寝ようと決めていた。まず寝ぐらの下見をするために駅の待合室へ入り、一般の人の邪魔にならないようなところにリュックを置いてから、土産物屋をのぞいたり、駅の周辺を探検した。絵はがきなどを見て翌日からの観光プランを立て、バスの時刻を調べ、銭湯が営業しているのを確かめてから戻った。その銭湯は京都タワーの右を奥に入ったところにあり、以前から駅に泊まるときはたびたび利用していた。当時としては珍しい泡の吹き出る風呂や温度の違ういくつかの浴槽をもち、シャワーも付いたモダンな銭湯で、ぼくのお気に入りだった。夕方の明るいうちにその銭湯に入り、ゆっくりくつろいでから待合室に帰った。あとは夜がふけ、人の減るのを待つだけだ。

 唐突にラーメンが食べたくなった。夕方に駅の立ち食いソバを食べただけのなのでお腹も減っていた。リュックには即席ラーメンがいくつか投げ込んである。十一時をまわって、待合室の人も減り、そろそろベンチを占領して横になることもできるような時刻だった。待合室にはぼくと同じような大きなリュックを持った男たちもいた。多くは山に向かう連中だったが、そうじゃない人も二、三人はいた。もしかしたら一緒に朝を迎えることになるかもしれない人たちだ。彼らの前でラーメンを作るのは恥ずかしいので、表に出て、通路脇の柱の陰を選んだ。

 コッフェルの鍋に水を汲み、灯油バーナーに火をつける。このポンコツバーナーは火が安定するまでが大変で、赤い炎を吹き上げたり、ふっと火が消えたりする。その日はとくに機嫌が悪かった。断続的に赤い炎を出しながら燃えていたかと思うと、ぷつんと消えて白い煙が立ち昇る。そのたびにポンプをシュコシュコ押してタンクの圧力を高める。それを何回も繰り返した。

 たぶんそれを繰り返し過ぎたのだ。タンクの圧力が高くなり過ぎて、上から灯油が滲み出てきた。あわてて圧力を抜いたが間に合わず、こぼれた灯油に引火して炎が一瞬天井近くまで上がった。

 何人かがかけ寄ってきた。すぐに鍋を下ろし、濡らしたタオルを火の上にかぶせた。白い煙が上がって火は消えた。灯油の匂いがたちこめ、タオルと軍手に黒い煤がべったり付いた。いつのまにか見物人が増え、ぼくの周りを輪になって囲んでいた。

 いちど人垣ができると、ブラックホールのようにどんどん人を吸い寄せて大騒ぎになってしまう。「もう大丈夫です。どうもお騒がせしました」と彼らに向かって頭を下げているところへ、その人がきを割って、三、四人の制服の男たちがやって来た。誰かが駅員を呼んだのだ。ますます野次馬が集まって来る。

 「なんでもないよ、さあ行って、行って」と駅員は群衆を追い払い、「何があったんだ、ここで何をしている」とぼくを問い詰めた。そのうちおまわりさんもやって来た。

 「いえ、これから山に行くんですが、その前にちょっとバーナーのテストをしようと思ったら、調子が悪くて・・・」とごまかし、その場を逃げようとしたのだが、しっかり鍋のラーメンを見られていた。

 「いや、そのー、ついでにと思って・・・ハイ、すいません。気を付けます」

 ぼくは駅員とおまわりさんの両方からさんざんしぼられた。

 待合室に戻ってからも、山に行くと押し通した手前、横になって眠るわけにもいかず、山男たちが待合室を出るのに合わせてしかたなくぼくもそこを出た。駅前の深夜喫茶で朝を待つことにしたのだった。

 翌日は銀閣寺のあたりを歩いてから、バスで大原に行った。さすがに山の中で静かだった。たまに観光バスが来て、お年寄りたちを吐き出し、また回収して行ってしまうと、もうほとんど人がいなくなってしまう。三千院では、ひとり旅らしい女の人がぽつんと佇み、物思いにふけっているような光景がここそこに見られた。それぞれがみんな、恋に破れた女を演じているようで可笑しくもあったが、それもそれなりに絵になってはいた

 ぼくもときおり西陽の差す縁がわに座り、ぼんやり庭を眺めて物思いにふけった。思いは駆け巡ってすぐに戻り、気がつくと今晩の寝場所を心配しているのだった。

 駅の待合室に戻ることはできない。深夜喫茶はもうゴメンだし、旅館やホテルは論外だった。やはり、あそこか。じつは、さっき歩いていてすでに候補地を見付けていた。それは隣に建つ寂光院の奥に入った林の中で、暗くなってからテントを張ればまず人目につくことはない。夕方さりげなく水筒やポリタンに水を詰めておこう、というようなことを考えていた。

 夕食は駐車場の隅に座って、パンと牛乳と缶詰で簡単に済ませた。林の中でまたバーナーが火を吹き上げたら困ると思ったからだ。なにしろここを追い出されたらもうどこにも行くところがないのだから。

 夕やみが迫るころ、人目につかないように懐中電灯もつけず林に入り、テントを張った。その夜の冷え込みは厳しかった。大原では市内よりも確実に何度かは気温が低いそうである。ありったけの服を着込み、それでも足らず、下着やら新聞紙やらを寝袋に詰めて寝た。

 息苦しくて目が覚めた。もう朝だった。テントの中の空気が淀んで息が詰まりそうだった。外の空気を入れようとしたが、入り口がなかなか開かない。思っ切り払いのけたら、どっと雪がなだれ込んで来た。

 びっくりして飛び出すと、あたり一面銀世界だった。テントの下のほうは完全に雪に埋もれ、布地に付いた水適が凍っていた。息苦しいわけだった。

 もう四月になるというのに、季節外れのどか雪が可笑しくてたまらなかった。雪は膝ぐらいまで積もり、すべてを白くすっぽりと覆っていた。木々の小枝が白く凍って、いまにも鈴のような音を奏ではじめそうに思えた。ぼくは雪を手にすくったり、新雪に飛び込んで人型を作ったりして遊んだ。雪を固めてかまどを作り、気兼ねなくバーナーを使って温かい朝食をとった。温かいというだけで最高のご馳走である。

 舞上がったほこりがゆっくり降りてくるようにして雪は降り続いた。テントを片付けると、そこだけ黒い土が現れた。記念に雪だるまを作って残そうと思った。もうすぐまた観光客がやってくる。誰もいないはずの林の中に雪だるまが立っているなんて、ちょっと面白そうじゃないか。雪の玉はすぐに大きくなり、完成したときの高さはぼくの胸ほどもあった。泥でていねいに髪や服を描き、顔もできるだけリアルに作った。カメラをセットし、雪だるま君と肩を組んだ格好の記念写真を撮って、その林を出た。枝で作った腕がバイバイをしているように見えた。もういちど、今度は雪の三千院を見てから帰ろうと思った。


 ヒッチハイク旅行で、街の観光を目的としたのはこのときの京都が最初で最後であった。街の中ではテントも張れず、寝るに寝られないからである。

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ヒッチハイク物語 第2部〈実践編〉旅の衣・食・住 鈴木ムク @muku-suzuki

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