仲の町3バカトリオどたばた奮闘記

吉村 剛

第1章 出会い

「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第1章出会い、そして入園  1


「ふーちゃん、ふーちゃん、今日の昼頃、桟橋で餅堀りあるんやと。いかなあかんねー。」隣の丸本のおばちゃんが、2階のベランダ越しに洗濯物干しながらうちのおかあちゃんに話しかけた。ここは、昭和41年の那智勝浦町の、ど真ん中、仲の町の僕の家である。当時那智勝浦町は、1区から6区までと朝日区や浜の宮区などに分かれていた。1区から6区までは順に大勝浦、脇入、仲の町、小坂・神明、北浜、築地の6つの区、つまり仲の町は3区である。勝浦のど真ん中今の桟橋あたり、そのど真ん中の築50年の大きな家が(えっ、自分で言うなって)僕の生まれ育った家である。僕の名前は、吉村 剛(よしむら たけし)。昭和38年9月15日当時敬老の日に実家のたたみの上で生まれた。今でこそ、病院や産婦人科で生まれるが当時は助産婦さんにお願いし家で生むことも珍しくなかった。僕の母親は吉村フサエ皆からふーちゃんと呼ばれていた。福岡からここに嫁に来た。専業主婦だった。僕の父親は明治から続くまぐろの仲買の3代目だった。

「あっ、みっちゃん、おはよう。餅堀りかん。こりゃ、いかなあかんねー。ようけ拾ろわなあかんのー。みっちゃん、教えてくれておおきによー。タケちゃんもいくかー。」おかあちゃんのそばで洗濯物を手伝っていたというか、遊んでいた僕に向かっておかあちゃんが訪ねた。僕はたけしなので、皆からタケちゃんと呼ばれていた。「うん、いくー。いっぱひろたるでー。」僕は3歳、今までに何回かおかあちゃんにつれていってもろて、餅堀りを経験している。この頃は、家を新築したり、マグロ漁船の船主さんも勝浦中に沢山おり、まぐろで大きな家をたてているおっちゃんもたくさんおりマグロ御殿と呼ばれていた。今はほとんどおらんけど。まぐろ船を新しく造船した時も桟橋に停めたマグロ船の上から陸に向けて餅堀りをおこなう。紅白の餅や中にはお金の入った餅もあった。今もいるが、餅堀り命のおばちゃん、おっちゃんが、うじょうじょおり定刻通りに桟橋に集まってくる。一種の戦場である。僕はこの日も大きな前掛けをした、おかあちゃんといっしょに歩いて3分の戦場、いやいや桟橋に向かったのである。色鮮やかなたくさんの大漁旗のはためく真新しいマグロ船の前に戦士たちは陣取り正午のサイレンとともに餅堀りが始まった。前掛けをしたおばちゃんたちが、吠える。「おいさーん、こっちやでー。こっちほらな後で怖いでー。」一種の脅迫である。餅堀り役のおっちゃんたちもおばちゃんたちの怖さ知ってるので上手に均等に餅を掘る。プロのおっちゃんもおばちゃんも自分の陣地からは決して動かない。下手な人ほどあっち行ったりこっち行ったりする。おばちゃんたちは拾うというか、自分の陣地に落ちたもちは、かき集めるのである。横から取ろうものなら噛みつかれる。(いやいや、ものすごい目でにらまれる。)約10分の戦いが終わった。おばちゃんやおっちゃんたちも満足そうな顔している。「あっ、ふーちゃん、こんにちは。あっタケちゃんも来たあたんかん。ほれ、かずちゃん、挨拶せんかん。」「おばちゃん、こんにちは。僕、和男です」おばちゃんは知っていたのだが、つまり和男くん(かずちゃん、のちのタコちゃん)と僕はこの時初めて会った。「かしこいねー。かずちゃんやね。おばさん何回かおうたあるよ。この子はたけしや。なかようしたってよー。ほら、かずちゃんに挨拶せんかん。」「たけしです。また、遊んでよ」と僕。結構照れ屋なんである。前からもう一人おばちゃんが来た。「ふーちゃん、みーちゃん、どうねー。いっぱいとったかん。あっ、タケちゃんとかずちゃんこんにちはー。」

みーちゃんとは、かずちゃんのお母さんのことである。「とれたでー。さっちゃんどうやねん。」「とれた。とれた。かずちゃんと、タケちゃと、うちの子同い年やったねー。もうすぐ勝浦幼稚園の入園説明会やのー。うちのさとるは、受けるつもりやけど、タケちゃんもかずちゃん行くんかん」「ああ、受けるつもりや」かずちゃんとうちのおかあちゃんが答えた。この時僕とかずちゃんとさとるくん(のちのナカシャ)が初めて顔合わせしたのである。ここから仲の町3バカトリオか゛はじまったのである。  続く















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第1章出会い、そして入園  2


かずちゃんとさとる君と出会ってから、たまーに3人の母親がらみで会ったとき遊んだりしたが、まだ3人だけで遊んだりとかは無かった。僕たちが3歳の1月に私立 勝浦幼稚園の入園説明会があり3人とも母親に連れられて参加した。当時那智勝浦町には幼稚園、保育所が何軒かあったが、旧勝浦町(1区から6区)の子供たちの多くは勝浦幼稚園に通っていた。1週間後に入園の許可のお知らせが、手紙で届くことになっていたが、うちの母親は僕には結果をしばらく言わなかったみたいだ。ある日お昼ご飯を食べているとき、おかあちゃんから「タケちゃん、幼稚園もう一年遅くから行くようになってもかまんかん。がまんできるかん」と聞かれた。あまり意味が分からなかったが、「別にかまんよ」と答えたらしい。後年「なんでかずちゃんや、さとる君はその年から幼稚園に通ってたのに、なんで僕だけ翌年からやったん」と聞いた。おかあちゃんは、僕が悲しまんように、笑いながら「おかあちゃんらもかずちゃんらみたいに赤組から入れよう思うて、幼稚園の説明会に連れて行ったんやけど、一週間後に不合格の手紙が来たんや。理由聞くのに、おかあちゃん幼稚園行ったんやけど、幼稚園の先生が『吉村さんとこの子供さんは申し訳ありませんが、あまりにも手に負えないので来年もう一度面接にきてもらえませんか』といわれたんや」。

「おかあちゃん、僕そんなに悪かったんか。」「あんた、入園説明会の体験入園で、先生らに鼻〇そ付けまわるし先生のスカートめくったりかなりアホなことしたらしいで。定員より多くの希望者おったらまず落とされるもんなぁ」と笑いながら答えた。この頃僕はかなりの悪ガキでさすがに、おとうちゃんとおかあちゃんは、こわいのでいうこと聞いてたが、他では悪さばかりしていたらしい。ということで僕は人生で初めて幼稚園面接不合格という挫折を味わうのである。といっても本人は全然こたえてなく、家の中では今まで通りいっしょに暮らしていたおじいちゃんのいとこの次郎おいちゃんに遊んでもらったり。かずちゃんやさとるくんとも3人で遊ぶようになっていった。僕らは三輪車の少し大きめの自転車に乗っていて仲の町中を走り回っていた。仲の町とは、現在で言うとバスターミナルよりのマグロ料理で有名な桂城の前の道を入った通りから右にずっと中嶋酒店あたりまでの地域である。この海岸通りに面したあたりは、夕方になると浴衣を着た観光客が下駄の音を鳴らしながら行き来していた。そして1本入ったいわゆる仲の町通りには、桂城側から食べる物なら何でもそろった田中フードセンター、パーマ店、学校の制服を買った中村呉服店、靴店、僕が初めてウィニーを買って食べた新谷精肉店、大石呉服店、クリーニング屋、大井魚店、浜薬局、和中歯科医院、紀陽銀行勝浦支店、新宮信用金庫勝浦支店、吉野百貨店(よく言われたが、僕の実家でも親戚でもありません) 、タケちゃんがいつも坊っちゃん刈りにしていた鳥居理容店、コロッケが抜群にうまかった新田商店、船具店、あべくらたばこ店、森本かしわ店、中嶋薬局と1キロもない通りにこれだけの店が並んでいてこの仲の町通りだけでほとんど用が済むというすばらしい場所が僕たち3バカのどたばた奮闘記の主な舞台であります。この後1年して僕の再度の入園面接と続くのであります。

つづく          



























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第1章出会い、そして入園  3


幼稚園の入園面接に見事落ちた仲の町の神童タケちゃんは、人生初の屈折もものともせず、元気に過ごすのである。かずちゃんやさとる君とは、毎週土、日には朝から夕方キンコーンカーンコーンのチャイムが鳴るまで遊びまくっていたのである。3人ともはな垂れ坊主で、髪型は僕とさとる君は坊ちゃん刈り(いわゆるおかっぱ)でかずちゃんは天パー(髪の毛も中身も、ごめんかずちやん)なので、なんというかおばちゃんみたいな髪型でした。その頃この3バカはじめ勝浦いや和歌山、いやいや日本中の子供たちが夢中になった「おそ松くん」のテレビアニメが放送されだしたのである。家には小さいが白黒テレビがあったと思う。今は懐かしいスイッチを入れると初めに真ん中が光りだし時間がたつにつれ画面に映像が映るというものであった。おそ松くんとは、赤塚不二夫氏作で、6つ子の松野兄弟やその周囲の人間が織りなすギャグ漫画である。おそ松、一松、カラ松、チョロ松、トド松、十四松の6つ子が中心である。最初少年サンデーに連載されたが、1966年、昭和41年僕たちが3歳の時なテレビアニメ放送開始。このおそ松6兄弟も面白かったが、何といってもイヤミの存在である。名前の通り嫌味な男で漢字で(井矢見)と書くが、僕たちはカタカナのイヤミのイメージが強い。自分の事をミーと呼び、相手の事をユーといい、自称フランス帰りで、おフランスでは、とか言うざまーす。このイヤミのギャグ『シェー』がミーたち3バカトリオの胸をうちぬいてしまったでざんす。一目惚れでざんす。このシェーには、ポーズがあるざんす。右腕または左腕をまっすぐの伸ばし、手首は直角に頭の方にまげるざんす。あと反対の腕を胸をさするように手のひらを胸の方に向けて曲げるざます。あと伸ばした腕と同じ方の足を反対の膝上に付けるように曲げるざます。これがボースで、シェーと叫びながらこのポーズをやるざんす。この頃は、子供はどこもかしこも、男も女も皆このシェーをやっていたざます。多分僕たちと同じ年代以上の方々の子供の頃のお写真にはこのポーズの写真が1枚はあるのではと思うざんすよ。ちなみにイヤミは、驚いたときにこのシェーをやっていたざます。ミーたち3バカトリオが生まれて初めて覚えたギャグはシェーなのである。ミーたち3バカトリオは、いたずらをしてママゴンたちに怒られるときは、とっさにシェーとポーズをしていたざます。しかーし、ママゴンたちには通用せず、頭どつかれましたが。

この後、いよいよタケちゃんの再度の入園面接の時期を迎えるのである。さてどうなることやら。

つづく。
































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第1章出会い、そして入園  4


それから、それからゲバゲバピー。(このギャグわかる方は僕たちと同年代以上のかてたやなぁ)、いやいや失礼しました。おかあちゃんのバカ息子養成講座により大分お利口さんになったタケちゃんは、1月に再度の入園面接を受けたのであります。今度は体験入園の時間はしっかりおかあちゃんの監視のもと、事前に「タケちゃん、今日は悪いことしたら、晩御飯なしでー」と言われたのもあり、かちんこちんのタケちゃんで、体験入園を終えた。1週間後に無事入園許可の手紙が届いた。「タケちゃん良かったねー。4月から幼稚園いけるでー」とおかあちゃんはほんと、ほっとした顔でいった。月日がたち、間もなく入園という日に僕は散髪に行った。「ただいまー」「タケちゃんお帰り」、かずちゃんとさとる君と遊んで帰ってきた僕は、ちょこんと縁側に腰かけ池の金魚に餌をやった。タケちゃんちは、明治時代に建てられた旧家で中庭があり大きな池もあるのである。おかあちゃんは「タケちゃんもうすぐ入園やし、髪の毛のびたあるさか、トリイへおとうちゃんにつれてもらい」「あんた、悪いけどタケちゃんトリイへ連れたって」おとうちゃんは、おかあちゃんよりお金を受け取り僕の手を引いて実家から歩いて1分の散髪トリイへ連れて行った。当時勝浦の仲の町のど真ん中にトリイという散髪屋があり、そこのおいさん(というかおじいさん)は、きれいに、はげあがった頭の主人で、店員のおねえちゃんとお兄ちゃんがいてこの3人で切り盛りしていた。店に着いたらおとうちゃんは、「おいさん、こんにちは、たけしの頭たのむわ」とお金を渡し家へ帰っていった。「タケちゃんいらっしゃい、こっち座ってくれるかん」おいさんが僕を呼んだ。お姉さんの時は散髪は優しくしてくれるのだが、お兄さんとおいさんの時は僕が動きさがすので、その度に「こら、ゆうこときいてじっとしとかなあかんやん」と僕の頭を左手でグッとつかんで刈りやすい位置にする。当時の僕たちは坊っちゃん刈りであった。坊ちゃん刈りというのは、まず首の方のうしろは耳の線くらいまできれいに刈り上げ、サイドも刈り上げ、もみあげもまっすぐに、そして前髪は右から左に向かってまっすぐにハサミを入れる。よく言われるオカッパ頭である。この髪型はトリイの3人の誰が刈ってもほぼ同じであった。トリイのおいさんは、僕の髪を切りながら「いつも思うけどタケちゃんの髪は、硬くてきれいやね。髪は大事にせなあかんよー」と一本の髪もないおいさんは口癖のように言う。「僕ね、今度から幼稚園いくことになったんや。さとる君とかずちゃんもいっしょやでー。ええやろー。おいさん。」「ほんまかん。おめでとう。良かったね。おいさんも幼稚園行きたいよー。」「あかんでー。髪の毛なかったらあかんねでー。大人はあかんねでー」「あっははは、大人はあかんなー。髪の毛もなかったらあかんのかー。残念やなぁ」なんでか分からんが、お兄さんと、お姉ちゃんはクスクス笑っている。「はい、男前になったでー。」「おいさん、ありがとう。今度おいさん幼稚園に入れるように先生にたのんだるさか、髪の毛伸ばしときなあよー。じぁねー。」「タケちゃん、おおきによー。おいさん、髪の毛のばしとくわー。」なんでか分からんが、今度はお姉ちゃんも、おにいちゃんもゲラゲラ笑っていた。「ただいまー。」「タケちゃん格好良うなったやん」おかあちゃんに言われうれしかった。3日後、きれいに着飾ったお母ちゃんに連れられ、黄色の通園帽と緑色の通園バックを肩からかけてタケちゃん坊ちゃんは、勝浦幼稚園の門をくぐったのである。    つづく。






















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第1章出会い、そして入園  5


入園式が始まり、僕たち白組から入園する者たちは、正式に入園する一つ下の緑組の連中といっしょに広い教室の真ん中に置かれたイスに腰掛けた。園長先生の挨拶があり、来賓の町長の話しがあり、各組の先生の紹介があり、父兄も混ざり全員で記念撮影した。そのあと、各組の教室に移り担任の先生から明日からの説明があった。「皆さん、こんにちは、白組の担任の石川みどりです。よろしくね。」白組から入園した生徒は、僕以外に10名位いた。みどり先生は20歳前半位のやさしそうな先生だった。「今から皆さんに名札を渡しますので、名前を読んだら元気よく返事をして先生のところに来てね」「いしだあゆむくん」「はーい。」順に名前が呼ばれ僕も元気よく返事をし名札をもらった。「はい、皆さんに名札渡しました。明日から服につけて幼稚園に来てね。今日はこれで終わりです。明日も元気に来てね」「はい、皆さん立ってね」僕たちは立ち上がった。「幼稚園では終わりの時あいさつします。」「先生がやってみるのでまねしてね」「せんせいさようなら。みなさん、さようなら」僕たちは小さい声だがまねした。「はい、よくできました。あしたらもやりますので、おぼえてね。」

僕は、おかあちゃんといっしょにうちに帰った。翌日からは、お弁当持参でおかあちゃんに手をひかれ通園した。幼稚園までは仲の町通りをすぎて僕のうちから歩いて約10分だった。通園が始まって園足があったり夏にはプールがあったり、秋には運動会があった。この年僕は、自分が他の生徒より抜群に走るのが早いと分かった。うちのおとうちゃんは、学生の時陸上の選手で国体やアジア大会にも短距離で出場するくらいの人だったので、血をひいた僕も早かった。かずちゃんやさとる君の他にもたくさんの友達ができた。ある秋の事である。「タン、タン、タッタッタッタッタ~。とじまりようじん、ひのようーじーん。」

」「とじまりようじん、ひのようーじーん。」毎年行われる、花の私立勝浦幼稚園幼年消防クラブの防災パレードである。11月の秋季全国火災予防週間中に行われる。消防本部のおじさんやこのクラブの役員の方々、幼稚園の先生たちといっしょに全園児がパレードする。火の用心と4文字の1文字ずつ書かれたミニまといを手にした4人の園児を先頭に鼓笛隊、拍子木(白組は拍子木)をもった園児が続く。出発式では役場前で園児たちが「僕たちは火事をおこしません」と誓いの言葉を言い、パレードを出発する。旧勝浦内を回り最後にバスターミナルへ向かう。実はこのパレードは、認定幼稚園になった今も引き継がれ行われている。

今も昔も子供たちをカメラに収めようとする親たちの姿には変わりはない。カメラやデジカメが、スマホやタブレットに変わっただけである。「とじまりよーじーん。ひのよーじん。とじまりよーじーん。ひのよーじーん。」勝浦では皆知っているおなじみの歌である。     つづく。





























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第1章出会い、そして入園  6


「せんせい、さようなら。皆さん、さようなら。」終わりの挨拶をすまし、僕とかずちゃんとさとる君は、3人の母親といっしょに家路につく。「なあ、今日も僕んちで遊ぶかん」僕は、かずちゃんとさとる君に呼びかけた。僕たちは幼稚園が終わってからほとんど毎日、僕んちか、かずちゃんちで遊んでいた。さとる君とこは、酒屋なので忙しいので、遠慮していた。「うん、遊ぼ。」「後から行くわ」とさとる君とかずちゃん。まもなく2人の悪ガキがやってきた。僕たちは落書き帳に、ロボットを書いたり、当時出ていた幼稚園という雑誌を読んだり、飽きてきたらまだ補助輪のついた自転車でユミネという駄菓子屋に行ったりした。5時のキンコーンカーンコーンがなるまでである。「なあ、腹へらへんか、たこ焼きくいたないか」僕が2人に聞いた。「ええねえ」食い物の話しは直ぐきまる。「おかあちゃん、たこ焼き買うから10円ちょうだい」まもなくたこ焼き売りのおばちゃんが来る時間だ。「はい、落としたらあかんで」僕たちの小遣いは1日10円だった。当時屋台で町内を廻るたこ焼き売りのおばちゃんがおり、僕たちはよく買っていた。使い込んだ木で出来た屋台。大きな車輪がついていて屋台の中にはたこ焼き用の鉄板、プロパンガス、水で溶いたメリケン粉(今メリケン粉っていうものおるんかな。要するに小麦粉のことね)の入ったバケツと手しゃく、きれいな水道水の入ったバケツ、鉄板の横には大きなカンカンに入った秘伝(ほんまかいな)のソースにはけ、青のりが入ったカンカン、鰹節の入ったカンカン、紅ショウガの入ったカンカン、つまようじの入ったカンカン、タコのぶつ切りの入ったタッパー、船型の竹の皮でできた入れ物、そして必殺仕事人が持っている千枚通し(たこ焼きくるくる棒)を置いていた。そして屋台のバケツの横には古新聞をある大きさに切った包み紙を置いていた。薄汚れた屋台にののれんには、たこ焼きと手書きで書かれていた。おばちゃんは、子供が小遣いでも買えるように、3個10円の物と大人用15個50円で売っていた。「たこ焼き~,たこ焼きいらんかいのし~、チリン、チリン」僕らは紅葉のようなかわいい手に10円握りしめて「うってー、おばちゃんうってー、たこ焼きうってー」と駆け寄る。「タケちゃんらいつもおおきによ。ちょっとまってなー。」おばちゃんには、僕らはもう常連さんだ。「おばちゃん、はよしてよー。腹減っておなかとせなかの皮くっつくわー」

「ほんまかいなー。おかあちゃんにくっついたのはがしてもらわなあかんがなぁ。がっはははは。」と言いながらカリカリに焼けたたこ焼きを船型の入れ物に乗せる。はじめに入れ物に、はけでソースを塗りその上にたこ焼き3コ、ソースをたっぷり塗り青のりをふりかけ、鰹節をかける。つまようじを1本立てる。

「はい、おおきによー。10円ね、こけたらあかんでー」「だいじょうぶやよー、おばちゃんおおきにー。あー。」僕は見事にこけてたこ焼きは、ばらばら。僕らには3秒ルールがあり落としたものは3秒以内なら大丈夫だが、なかなか立ち上がれない。僕が困って今にも泣きそうな顔をしているので「いわんこっちゃない、あほやね~。ほれ」と新しいたこ焼きをくれた。「おばちゃん、ほんまおおきにー。おおきによー」「あいよー」そう言っておばちゃんはまた屋台を引いて行ってしまった。僕たちは僕の部屋で、はふはふ言いながらたこ焼きをほおばるのである。追伸 おばちゃんの屋台は、夏になるとわらび餅も売っていました。10円で子供用買えました。   つづく。



















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第1章出会い、そして入園  7


勝浦幼稚園は、各学年3名の先生の体勢で、白組はみどり先生とさゆり先生とまりこ先生だった。白組生活を無事終え、僕たちは年長組青組に進んだ。先生は、かおり先生と白組の時のかずこ先生、白組の時のみどり先生だった。青組になっても、僕たちは母親に連れられ通園した。お弁当は持参で、小さな俵型のおにぎり2個と赤いウインナーと卵焼きが僕の弁当の定番だった。お弁当を食べるとお昼寝タイムだが夏休みが過ぎ2学期になるとお昼寝タイムは、無くなった。これは、小学校にいくとお昼寝はないので、体を慣れさせておくための手段だった。青組の秋になると卒園の演芸会の練習に入った。「はーるよこい、はーやーくこい。あーるきはじめたちぃちゃんがー。」演芸会は毎年3月頃あった。青組の演目では、「王様とその仲間達」、で何故かとしや君は、きれいな衣装とマントと王冠をかぶった王様で椅子にふんぞり返る役。そのそばでおいしそうな料理を王様に運び膝まづぃて王様に差し出すやりがいのある家来の役のタケちゃんとさとる君。(ナンデヤネン)。そして卒園メイン演目。「春よ来い」かずちゃんとケンタンは背が小さいのでサル役。僕とさとる君と山ちゃんと西川君との4人は、背が高かったので熊の役。そして主人公の子供達の4人は、さゆりちゃんとりかちゃんの女の子と当時建設会社のぼんぼんの浜っちゃん。そしてとしや君。春を探しに山に出かけた主人公の4人がサルや熊に順に出会いサルや熊は主人公にエサをもらっていっしょに春をさがすというストーリー。僕らの出番。熊役の僕らは縦に4人並び「おじょうちゃんたち、僕たちもいっしょに春をさがしましょう。エサをくれたら一緒にさがしましよう。」と4人で言う。としや君が答える。「そしたら、やるから付いてこい。」と僕ら熊4匹にえさを渡す。僕らは主人公の後ろに付きいっしょに探しに行く。という素晴らしいストーリーである。って何が、「そしたらやるからついてこい」や。ええかげんにせえよ。としや君。あなたのせいで僕たち3バカトリオには、いまだ春が訪れていません。笑。その後僕たち3バカトリオととしや君はじめ現在勝浦いや、日本をしょって立つ素晴らしい人材群は無事名門 私立勝浦幼稚園卒園へとばく進するのであります。     つづく




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第2章 町立 勝浦小学校  1


「皆さんとは、今日でお別れになれますが、皆さんは小学校へいっても皆といっしょですよ。みどり先生とかおり先生、かずこ先生にあったら声かけてね。皆元気でがんばってね」3月20日卒園式である。入園式と同じくホールで行われている。町長の挨拶に続き、園長先生の話のあと父兄もまざって机と椅子に腰かけ、ジュースとショートケーキで軽食会になった。皆は幼稚園の思い出話や卒園アルバムを見て笑ったりしている。今も覚えているが、この時におやつに一人ずつ筒に入ったマーブルチョコレートをもらいおまけのシールを友達と交換し合ったことを覚えている。だから僕は卒園といえばマーブルチョコレートなのである。しばらく楽しい時間を過ごし、最後に先生とひとりずつ握手して僕たちはかずちゃんとさとる君と母親たちといっしょにうちに帰った。その瞬間から僕たちは春休みで、4月8日の入学式の前日まで毎日3人で遊びまくった。まあ、間にランドセルを買いに行ったりはしたが。ランドセルはおじいちやんとおばあちゃんからのプレゼントだった。そして入学式、きれいな着物を着たおかあちゃんとトリイで散髪したばっかりのタケちゃん坊ちゃんは名門 町立 勝浦小学校の門をくぐり体育館に向かった。受付で名前をつげると何組か教えてくれた。僕は1年4組だった。かずちゃんと同じだが、さとる君はとなりの3組だった。僕等は、体育館の外のローカにクラスごとに並びしばらく待った。体育館内で入学式が始まった。1組から新しく担任になる先生に引率され2列で体育館内に行進し自分の席に座った。はげちゃびんの教頭先生が司会で、校歌斉唱、校長先生の話、またもや町長の挨拶、担任の先生の紹介、クラスごとの記念撮影と続いた。入学式が終わるとこれから通うことになる教室へ移った。「皆さん初めまして。担任の古田くに子です。よろしくおねがいします。これから2年間みなさんといっしょにお勉強します。今から明日からのお勉強の時間割を配ります。あしたから教科書をランドセルに入れて持ってきてくださいね。今週はずっとお昼までです。あと入学式の受付の時に名札をつけてもらったと思いますが明日からもつけてきてください。あと色んな連絡はお母さんやお父さんにお渡ししますので、見てもらつてくださいね。」そういって古田先生は時間割などのプリントを配った。「ご父兄の皆様、本日はお子様のご入学おめでとうございます。これから2年間よろしくお願いいたします。」「今日はこれで終わりです。皆さん起立してください。はい、では、さようなら」「さようなら」僕は後ろに座っているかずちゃんの方に行った。「かずちゃんおんなじクラスでよかったなぁ。」「さとる君はとなりやけど。」「うん、よかった」かずちゃんが言った。「タケちゃん、おんなじクラスやね。」なべっちが声をかけてきた。彼は事情があり幼稚園の時から隣町の太地町から通っていた。「おう、なべっちおんなじやったんか。楽しなるなぁ。」「おう、僕もうれいしわ。」なべっちとは幼稚園の時も僕たち3バカトリオは仲が良かった。横で「えっへへへ、おんなじクラスやねー。」と怪しげな声がした。「えっ、同じクラスなんかー」

あのとしや君とケンタンが立っていた。なんか面白くなりそうな小学生生活であった。               つづく

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第2章 町立 勝浦小学校  2


入学式の次の日、さとる君とかずちゃんが、僕のうちに来て3人で小学校に向かった。小学校からは、さとる君の家が一番遠く、次にかずちゃんの家が遠かった。遠かったといっても3人の家は間100メートルも離れていない。3人とも真新しいランドセルにノートと筆箱だけ入れて登校した。今日は1時間目は自己紹介の時間だった。「はい、みなさんおはようございます。」「おはようございます」「皆元気な挨拶できますね。ええよ。」「今日の1時間目は、皆さんの名前とどこの幼稚園から来たかみんなに知ってもらうからね。」僕たちは昨日の入学式に前もって机に名前が貼っていたのでその席に座っていた。「じゃ一番端の田村和男くんからおねがいします」かずちゃんからだ。「たむらかずおです。勝浦幼稚園から来ました。よろしく」おおっ、初めてとしたら堂々としていた。さすが、かずちゃんと心の中でささやいた。後ろに順に自己紹介していき僕の番になった。「よっ、よっよしむら たけしです。かっ勝浦幼稚園からやってきたんやでー」あっ、あかん、おもいっきり緊張している。皆くすくす笑っている。「よっ、よっよろしくお願いします。」あー終わった。前の方でかずちゃんも下向いて笑っている。僕の後で浜田えいごという男が自己紹介した。「はっはっはっはまだー、えっえっごでーすー、てってんまー保育園からきました。よっよっよろしくです。」と僕より緊張していたので僕は大声で笑ってしまった。

「笑うな、あほ」とそいつは、初対面なのに僕に向かい言った。僕はあほよばわりされたので「じゃかましいわ、あほ」と言い返した。「こら、そこしずかにせんかん」古田先生におこられた。まあ、そんなこんなで自己紹介は終わり、2時間目は、先生から自分たちのロッカーやトイレの場所や図書室や職員室など学校内を皆でまわりながら教しえてもらった。「はい、今日はこれで終わりです。皆気をつけて帰ってね。じゃ、あみや君といのうえさん、きりつとれい、いうてくれるかな。あしたの朝から順番にきりつとれいいうてもらうね。いう人は黒板に書いときます。じゃあ2人お願いします。」「きりつ、れい、さようなら」負けん気の強かった僕は、すぐに浜田の方に行き「おまえよー、なまいきやなぁー。天満保育園からきてなめんなよ。なめた口きいたらゆるさんぞ。ええかー。」「あほかー、おまえ。どつくぞ。」と浜田。二人ともけんかしそうなんで、僕をかずちゃんは「あほ、なにしやるんな。やめとけよ。」と力いっぱい引っ張った。浜田の方も友達が止めた。僕は腹が立ったがかずちゃんと隣のさとる君のクラスに行き三人で家へとむかった。帰りも僕は「なんや、あいつ。天満のくせして。勝浦なめとんのかー。」僕は幼稚園の時から結構喧嘩ばやくってけんかをよくしていたらしい。ただしかずちゃんとさとる君とはけんかしなかった。

僕たちが教室から出て長い坂を下り勝浦幼稚園のところの坂に差し掛かった時、後ろから僕は、誰かにランドセルを引っ張られて後ろにひっくり返った。起き上がって前を見ると浜田たちが立ち止まりこっちを見て笑ってる。「われー、ゆるさん」僕は浜田に近づき右こぶしで浜田の左ほほを殴ろうとした。しかし、いい音がして僕の左ほほに浜田のこぶしが入り僕は横にころんだ。あかん、こいつ強い。痛さと悔しさで涙が出た。はじめて殴られた。僕の姿をみて笑いながら浜田たちは帰っていった。僕はしばらくその場で泣いていた。情けなかった。かずちゃんが、ぼそっと言った。「あほやなぁ」ほんまに僕はアホやった。

                             つづく






















「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第2章 町立 勝浦小学校  3


次の日、仲の町3バカトリオは、小学校に向かい教室に入った。「おはよう。おっ、なべっちおはよう。」「おう、タケちゃん、かずちゃんおはよう。」なべっちも同じクラスで、彼は太地からバスで通っているので僕たちより早く着く。今日使う教科書とノートと筆箱を机の中に入れてランドセルを後ろのロッカーに入れようとした。そこに鉄ゴマが一つ置かれていた。「あれ、これだれのかな」

「おーい、これだれのー」と僕は周りに呼びかけたが返事が、なかった。その頃僕たちの周りではコマ回しが流行っていて駄菓子屋で売っているコマはブリキ製でヒーローの絵が描いていたのが主だった。鉄ゴマも駄菓子屋で売っていたが、木で出きたコマに鉄製の外枠がされていてずっしりと重く、一回り大きいコマで値段も普通のコマの倍以上の値段だった。僕もなんとか1個持っていた。木の部分を見てみるとマジックでえいごと書いていた。「これ、おまえのやないんか」僕は浜田に聞いた。「そうやけど、これやるわ。おまえおもろい奴やから」「ええんか、もろても」「ああ、ええよ」「そうか、おおきに」「俺、浜田えいごや,皆からエーくんって呼ばれやるんや」「俺は、吉村 たけしや、皆からタケちゃんいわれるんや」「わかった、よろしく」「ああ、よろしく」こいつ絶対許さんと、いつかぶんなぐったると思っていたけど、男の子が友達になるのはこんなに単純なもんで、僕がエー君に対する感情は鉄ゴマで変わってしまった。こいつええやつやんと思ってしまうのである。要するに僕らは単純な子供であった。その日から僕たち3バカトリオとエー君たちの浜の宮グループも仲良しとなり良く土、日に仲の町と浜の宮のエー君ちを行き来していた。約1か月が過ぎた頃、いつものように登校するとクラスの男子たちが後ろの方に固まってなんかしている。「おはよう、なにしやるん」と僕。エー君が机の上に白い紙を広げ、男子のみんなが回りを囲んでいる。「最近周りであだ名で呼ぶのはやってるみたいで男子ひとりひとりにあだ名をかいてもらってあだ名で呼ぶようにしよう思うねん。だから今からこれ男子に回して書いてもらおう思うねん。」「おもろいやん、ええんちゃうか」ほとんどの男子が賛成した。「でもよう、あだ名ないやつどうするんな」と誰かが言った。「何人かで、あだ名つけたろらー。変なあだ名ついても文句いわんようにしよらー」「おう、わかった」僕たちは


他の奴に変なあだ名つけられたらたまらんので必死でいつも呼ばれているあだ名を紙に書いた。僕のクラスの男子を順不同であだ名で紹介すると、なべっち、ふーちゃん、さかじー、ひろむくん、ケンタン、わたり、こじまちゃん、さーくん、けいちゃん、タケちゃん、かんちゃん、のんちん、しゅうやくん、エーくん、ばば、ぐっちゃん、もくそ(今考えたら、申し訳ないあだ名やなぁ、笑。すまん)、あっちゃん、こんこん である。この時に、なぜか、かずちゃんは、タコちゃんに変わったのである。他のクラスにかずちゃんがいたからで、僕がいつも鼻をくしゅくしゅしていたのと名前にたがついたのでタコちゃんと僕が命名したのである。まあ、かっこええあだ名もあり、変なあだ名もあったが皆親しみを込めてこの時から呼んでいったのである。なぁ、もくそ。                                         つづく























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第2章 町立 勝浦小学校  4


「タケちゃーん、いこー」悪ガキどもの声が今日も僕を誘いにくる。「タケちゃん、はよせんかん。かずちゃんとさとる君きたーるでー。」「はーい。」「タコちゃん、さとる君おはよう」と僕は、運動靴をとんとんと履きながら玄関に走る。小学1年生も早3ヶ月が過ぎ、はじめての夏休みもまもなくという日だった。「なあ、俺タケちゃんやん、タコちゃんはタコちゃんやん。さとる君はさとる君やん」僕が言った。小学1年生の説明は何のことか分からん。2人ともぽかーんとしている。「何言いたいねん」タコちゃんが言った。「だからー、俺タケちゃん、あなたがタコちゃん、あなたがさとる君」またもや2人とも「こいつ狂たか」みたいな顔で僕を見ている。「あだ名って事かー」さとる君が言った。「そうそう、あだ名、さとる君だけないやん。タコちゃん俺らで付けたろらー。」「ええやん。」タコちゃんは賛成である。「えーと、なかやまやから、なか、なか、なかやー、どうねー」タコちゃんが言った。「なんやそれ、たまやーみたいやん。花火ちゃうんやぞ」と僕。「なかなんとかやなぁ。なかさん、なかさん、なかしゃってどうや。」「なかしゃ、ええやん」と僕「他に呼ばれやる奴ないと思うよ」「きまーり。今日から君はなかしゃじゃー。」「えー、まあええわ。」となかしゃ。というわけで、これでタケちゃん、タコちゃん、なかしゃの呼び名の3バカトリオの新たな誕生の瞬間である。後日「うってー、うってー。おばちゃんうってー。」勝浦の子供たちは昔から駄菓子屋の玄関を入るときは、この言葉を使う。売ってくださいと、いう意味。「はいはい、なんにするんかいのー」駄菓子屋のおばちゃんは店の奥から現れる。僕らの子供の時は、勝浦小学校の入り口にイトウ、入り口の右側忠魂碑のところにユミネ、あと今の紀陽銀行の近くにこれまたイトウがあり僕ら3バカトリオはユミネ派だった。「おばちゃん、スイカ氷3つちょうだい」僕たちは愛車の自転車でユミネにやってきたのである。スイカ氷というのは、スイカを食べるときのあの形のステンレスの枠に氷を受けて棒状に割った竹を横から刺しその上にまたまた氷をかけて枠を左右から力いっぱい押してあのスイカの形にする氷である。食べやすいように竹の棒が刺さっているのである。この氷の外側に緑色のシロップをかけ内側に赤色のシロップをかけたらスイカ氷の出来上がりで、この裏メニューが外側に緑色、内側に黄色のシロップをかけるという黄色スイカ氷もある。このスイカ氷、全国で勝浦だけのものであるらしい。勝浦の名物や。新宮のことは知りません。笑。今は、氷というと底のくぼんだガラスの皿に氷をかいてシロップをかけたり、あんこを乗せたりして食べる。都会のマダムたちはこれをフラッペとかぬかしやがる。(おっと、汚い言葉をはいてしまった。笑)僕たちの子供の時は、ウエハースの皿にのせた氷かこのスイカ氷であった。「やっぱりうまいなぁー。これスイカ氷やけど、赤のシロップ、イチゴ味でスイカちゃうところがまたええねん。ちゅうちゅう。」僕たちはこのシロップを思いっきり吸う。この緑のシロップもメロン味でうまいなぁ。がりがり。」しかし、このスイカ氷あらゆる方向から食べていかないと油断するとぽろっと落ちてしまう。「あっ、落ちたー。うそやろー。」とタコちゃん。最後の一口を落としてしまった。「あほやなー。あっ。」僕も落としてしまった。小学1年生の夏休み前の3バカトリオひと夏の経験である。

                            つづく























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第2章 町立 勝浦小学校  5


「はい、じゃ1学期はこれでおしまいです。これから長い夏休みに入るけど皆元気で2学期に登校してね。」「きりーつ、れい、さようなら」僕たちはいつものごとくタコちゃんとナカシャと家路に向かった。「帰ってご飯食べてからうちで遊ばへん。冒険号もあたらしいのこうたし。」「ああ、ええよ。」2バカが答えた。しばらくして「タケちゃん遊ぼー」タコちゃんとナカシャがやってきた。「おう、まあ、入りなぁ。お母ちゃん、タコちゃんとナカシャ来たから何か出したって。俺の部屋いこか」「タケちゃん、何もないけどピーナッツサブレとカルピス後でもってたるわ。タコちゃん、さとる君こんにちは、また3人で何か悪いこと考えるんやろ。夏休みやもんなぁ」「アホか、俺ら悪いことばかり考えやるんちゃうで。勉強の話するんやで。」と僕。「あんた等、吉本見過ぎで頭おかしなったんちゃうか。」とおかあちゃん。「じゃかましわー」と僕らは2階のタケちゃんのお部屋に行ったのである。「なぁ、タケちゃん、明日浦島いかへん。ケーブルカー乗って狼煙山(ろうえんざん)いかへん」とタコちゃん。「ええやん。いこいこ。なぁ、ナカシャ」「うん、いこらー。あそこ動物園みたいになったあて、おもろいもんなぁー。」当時、ホテル浦島には、本館より今の山上館(狼煙山)までケーブルカーが走っていて僕らは桟橋から(ほんまは、宿泊客しかあかんのだが)、ボートに乗ってそのケーブルカーで狼煙山に登りそこにあるミニ動物園(羊やサル、うさぎ等がいた。今でいうふれあいコーナー)や遊具で遊んでいた。ボートの運転手が知り合いのおっちゃんで、「また、おまえらか」という顔でおっちゃんは、ボートに乗せてくれた。(浦島の皆様、ほんまはあきませんが、子供の時の話なのでご勘弁を)「はい、とっておきのデザートでございます」とおかあちゃんがピーナッツサブレとカルピスを3つ持ってきた。カルピスは、濃いぐらいがええ。おかあちゃんは、よう分かってる。そして、僕たちは翌日と夏休みの半分くらい宿泊客に交じり浦島のケーブルカーに乗りに行った。当然そのころのホテルにケーブルカーがあるところなんて他になかったし、ましてや屋上にミニ動物園があるホテルなんて他にない。浦島って昔からすごかってんでー。僕ら小学生のパラダイスやー。このケーブルカーも時代の流れで1976年僕たちが小学校卒業と同じ頃廃止となりミニ動物園が露天風呂に代わっており、山上館には、エレベーターで上がれ、またケーブルカーのレールのあった場所には、エスカレーターと健康の為と階段が設置されている。絶好の僕たちの憩いの場所、遊び場だったのである。   つづく

































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第2章 町立 勝浦小学校  6


小学生初めての長―い夢のような夏休みが終わり2学期が始まった。「なあ、

タケちゃんとナカシャ、一年生になったから祭り出れるやん。出るん。」「あったりまえやん。勝浦に生まれて祭り出やなんだらおかあちゃんにおこられるでー。」僕が答えた。「俺も出るでー。」とナカシャ。「そうやげなぁ、3人で出よらー。カチカチで出よらー。」「うん。」何日かして祭りの練習が始まった。祭りの日は毎年9月15日、老人の日、僕の誕生日(僕の誕生日は関係ないが)と決まっていた。僕たちは子供神輿だった。「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」カチカチとは子供神輿の時に叩く拍子木(竹なので木やないけど)の様な物のことだ。もちろんカチカチというのか分らんし、正式な名前があるんだろうけど僕たちはそう呼んでいた。簡単に説明すると30センチくらいの竹の棒を真っ二つに縦に割り、その1枚ずつに肩ひもが通るくらいに穴を開け肩からかけてちょうど左右の竹が腰あたりにくるように肩ひもを結んだものである。これを左右の手に持ち子供神輿を担いだ小学校の上級生の後につき「ワッショイ」の掛け声のあとにカチカチと叩くのである。勝浦(旧勝浦町)には、1区から6区まであり1区大勝浦、2区脇入(わきいり)、3区仲の町(タケちゃん坊ちゃんの生まれ育ったとこ)、4区神明・小坂(しんめい・こさか)、5区北浜、6区築地がありそれぞれの地区に子供神輿があった。この子供神輿を各地区の小学生が担ぐのだが、僕らの時は圧倒的に北浜と築地に小学生の数が多く我が仲の町と隣の脇入は、かわいそうなもんだった。いわゆる勝浦八幡神社例大祭の子供神輿である。この子供神輿の担ぎをランクで説明すると1年生から3年生までは、カチカチ担当、4年生は優秀生1人(3年まででカチカチが一番うまかったスーパーエリート)が区の名前の入った看板持ち、次に前後の神輿を下した時の台持ち2人(エリート)あとの4年生はカチカチ、5年生、6年生は神輿担ぎだった。僕ら3区は5、6年生が少ないときは4年でもスーパーエリートから順に神輿担ぎになったこともある。いわゆるカチカチは、その後の神輿担ぎの登竜門であり皆必死にやっていた。今はないと思うが、僕らは各区ともライバル意識が強く祭り前に1週間位夕方から街中を神輿を担ぐ練習のために廻るのだが他の区の神輿とすれ違った時や、他の区の子供神輿休憩所の前を通った時相手の子供神輿の前後左右に付いている角をへし折っていた。だから1度は本番前までに祭りなので修理してくれたりするのだが、2回目はさすがに修理してくれないので、本番当日4本きれいに揃っている神輿はなかったと思う。どこの区も鉢巻きで結んでいた。そんなアホなこともしていた。祭り本番当日「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」「お前らカチカチうまいのう。これからも楽しみや」5、6年生の先輩や世話役のおいちゃんから僕たち3バカは褒められた。カチカチ役のお墨付きである。その後僕たちは子供神輿のエリートコースを驀進することとなる。  つづく。




























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第2章 町立 勝浦小学校  7


小学校1年生の秋の雨がよく降るある日、いつもなら午前中に仕事から帰ってきて、昼ご飯を食べてテレビを見たり今日買ったまぐろの帳面付けをしているお父ちゃんが僕が学校から帰ってきてもいなかった。「ただいま―、あれ、おとうちゃんどっかいったん。」「ああ、タケちゃんお帰り。おとうちゃん今日まだ帰ってきてないんや。連絡もないし。何しやるんやろねー。」あまりお母ちゃんは、おとうちゃんが遅いのも気にしてないみたいだった。「なぁ、今日もタコちゃんとナカシャと僕の部屋で遊ぶで」「あいよ」しばらくしてナカシャとタコちゃんがやってきた。その後しばらくしておとうちゃんが帰ってきた。「どしたん、遅かったやん。」おとうちゃんは、市場へ出かける格好のままで、長靴を脱ぎながら言った。「正やん亡くなったんや、さっき、自分の車の事故や」「えっ、ほんまかん。カズちゃんタケちゃんの部屋におるで」「悪いけど今すぐ家へ連れていったってくれ」「わかったよ」おかあちゃんが僕の部屋にやってきて「カズちゃん、おかあさん、用事あるんやて、おばちゃんもカズちゃんのおかあさんに用事あるさかいっしょに帰ろか」「えっ、今おもろいとこなんやけどなぁ。わかったよ、タケちゃん、ナカシャまた、明日ね。」「ああ、バイバイ」カズちゃんはおかあちゃんに連れられ帰っていった。僕はおとうちゃんに呼ばれた。「カズちゃんのお父さんが車の事故で亡くなったんや。」「亡くなったってどういうことや」「死んだんや」「うそやろ。」「ほんまや、おとうちゃん今病院にずっとおったんや。今日はさとる君に用事あるってもう帰ってもらいな。」「わかったよ」僕は信じられなかった。「ナカシャ悪いけど用事できたんで今日は帰ってくれるか。ごめんよ」「ああ、ええよ。また明日ね。」「うん。」ナカシャは、帰っていった。当然ナカシャには、タコちゃんのお父さんの事は言えなかった。僕もナカシャもよく遊んでもらい、タコちゃんや妹のマキちゃんが誕生日の時は、お父さんが腕を振るい大タコ焼きパーティーを開いてくれたりした。僕らはお父さんのタコ焼きが大好きだった。2日後、僕たち1年4組の生徒全員は担任の古田先生に連れられ小学校の近くのお寺に行った。タコちゃんのお母さんとタコちゃんと妹のマキちゃんが一番前に座っており、お父さんの写真が飾られていた。僕たちは、順番に紅葉みたいな小さな手で焼香をし写真に向かって手を合わせた。僕の番の時、座っているタコちゃんの方を見たが、僕はすぐに眼をそらした。子供心にもタコちゃんの顔が見えなかったのである。お父さんの告別式が終わる前に僕たちは学校に戻り家路に着いた。告別式の最後までいるとタコちゃんが僕たちと直接顔を合わせることとなると古田先生は思ったんだろう。その日から2日後いつものようにタコちゃんとナカシャが「タケちゃんいこー」って学校に行くため誘いに来た。いつものように学校に向かい授業を受けた。「はい、今日の授業はこれでおしまいです。」「きりーつ、れい。」「さようなら」僕たちは、帰る支度をしていた。「田村君、こっちへおいで」古田先生がタコちゃんを教室の前の方にある自分の机の方に呼んだ。先生は、腰をタコちゃんの背の高さまで落とし面と向かって小さな声で語り掛け、そのあとゆっくりと立ち上がり、「がんばるんやで、負けたらあかんで」と言いタコちゃんを抱き寄せた。後ろから僕は見ていたが、古田先生の肩が震えていた。   つづく。
























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第2章 町立 勝浦小学校  8


僕たち3バカトリオは、無事2年生になった。義務教育なんで当たり前だが。

担任の先生は、2年間変わらないので古田先生だ。この年僕たちの前にあのヒーローが現れ、御多分にもれず僕たち3バカも感染し侵されてしまった。自転車も親にすがりつきなんとかそのヒーローの自転車を手に入れたのである。僕たち3バカは頭は悪いが運動神経はよく、3人ともすでに自転車の補助輪なしで自転車に乗れた。「やったー、ラッキーカードや。アルバムもらえるぞ。見したろか。」ナカシャがユミネの前で叫んだ。ユミネというのは、勝浦小学校の近くの駄菓子屋である。僕ら仲の町3バカトリオをはじめ旧勝浦の子供たちのたまり場で、愛車(車ちゃうでー、自転車でっせ)のライダー号にまたがりやってきたのだった。「うそー、もんごいげー。タコちゃん、ナカシャ、ラッキーカード当てたぞ。どえらいげー。」と僕。(現物目の前にして確かに嘘やないのに人はなぜ初めにうそー、っていうんやろ不思議やなぁ)。仮面ライダースナック。カルビーが1971年つまり僕たちが小学生2年生の時から販売したカード付きのお菓子である。今のお菓子詰め合わせに入っているちょっとミニサイズの袋にピンク色の星形の甘いスナック菓子が入っていて、1袋に1枚当時爆発的な人気があった仮面ライダーの怪人たちの写真が写っているカードがもらえる。もらえると書いたのは、カードは袋の中に入っているのではなく、店の人が1枚ずつくれるのである。1袋20円。カードは何百種類もありこのカードを集めるのが僕らの心を射止めたのである。毎日ありったけの小遣いを手にライダー号にまたがりユミネに向かう。このカードのすごいところは表に怪人の写真、裏に通し番号と怪人の解説が書いている。またまたこのカードのすごいところは、同じ番号でも微妙に図柄が違うプレミアカードがあったことである。このカードの中にはかなり低い確率でラッキーカードと書かれたカードが入っており、カードを工場に送るとカードが200枚入るアルバムがもらえた。しかしカードと交換になるのでカードは戻ってこなく苦情となりカルビーは印を押して返却するようになった。このカード欲しさで大量にスナックだけ捨てられ社会問題になったりもした。ところでナカシャのラッキーカードは仮面ライダー1号が富士山をバックにして変身ポーズをしているというカードだったのだが、実はラッキーカードに都市前説があった。ある時タコちゃんがそれを他の友達から聞いてきて僕たちにこういった。「仮面ライダーカードのラッキーカードやけど幻のラッキーカードってあるんやて」僕らは「うそー、どんなんなん。早よ教えてよ」

「ええかー、よう聞けよ。幻のラッキーカード言うのはな、本郷 猛がトイレに入って便器にまたがってう〇こしているとこやって」僕らは「そんなー、あほなー」。その後、僕らの中で幻のラッキーカードを当てたものは、いない。

                             つづく。





























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第2章 町立 勝浦小学校9  


「たけひろ、ハマチの釣り堀つれったろか。」「ほんま、いくわ。お母ちゃん、お父ちゃんハマチの釣り堀連れてってくれるって。今晩のおかずいらんで~。」「タケちゃん、あんた、いつもそう言うて釣ってきたことないやん。」「あほいえ、今日はちゃうで。いつものタケちゃんちゃうで、なんか釣れるような気がするんや。まあ、楽しみにしときなや。」「はいはい、刺身包丁研いでまっとくわ。」この僕にこの父母である。関西の親子である。会話がすでに漫才だ。

僕が生まれたのは、昭和38年だが、昭和30年代はじめ頃から40年代終わり頃までは、新婚旅行や観光旅行のブームで伊豆、箱根、熱海、南紀白浜そして勝浦と新婚さんや観光客でいっぱいやった時期である。勝浦も僕が小学生くらいの時は夕方になると浴衣を着た観光客や新婚さんが町中を行き来していた。そんな中今のバスターミナル前のM電気店の横あたりにハマチの釣り堀があった。平屋建ての小さな体育館みたいな建物の中に25メートルプール(楕円形だが)の様な、いけすがありその中にたくさんのハマチが時計回りに泳いでいた。それを、一人30分300円(子供も大人も一緒)の 料金を払い針だけ付いた竹竿で泳いでいるハマチをひっかけて釣り上げる仕組みだった。30分以内に釣り上げたハマチは、全部持って帰れる。その日もお父ちゃんに連れて行ってもらい僕は出かけた。入り口のおっちゃんに600円払って釣り竿とバケツもらって、いけすに近づいた。お父ちゃんの黒縁めがねの奥の眼がきらっと光った(ように見えた)「さあ、ハマッちゃん、かかってや~。賢いハマッちゃんかかってや~。」とお父ちゃんは、戦闘態勢に入っている。僕も負けずに戦闘態勢に。

「ハマッちゃん、かかってや~。お父ちゃんとこより、僕とこかかってや~。」しばらくしてお父ちゃんが、釣り上げた。「どうや、お母ちゃん喜ぶで~。」

30分やってお父ちゃん1本、僕は無し。そんなに簡単にハマチはかからない。ハマチも賢いのだ。帰ってその日の晩ご飯。ハマチの刺身を前にして普通のお父ちゃんやったら「ハマチは、出世魚やから、たけひろもハマチに負けんぐらい賢くならなあかんぞ」とか言うけど、うちのお父ちゃんのありがたいお言葉。「これハマチやなくてメバチマグロやったらもっとええのになぁ~。」さすが、僕のお父ちゃんや~。 つづく。



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第2章 町立 勝浦小学校10  


小学校2年生の夏休みのある日のことである。

「タコちゃんあそぼ~。」「あっタケちゃんとナカシャか~。どしたん。」どしたんって遊ぼと言うたんやから遊び来たのである。僕らの子供の時は今から考えるとおもろい会話しやたっなぁ~。「ねえ、タコちゃん、駅前の映画館あるやん。そこの看板に妖怪大戦争上映中ってものすごい怖わそうなポスター張ってたんやけど見に行かせん。3時から第2回目ってあったんやけど。なあ、ナカシャ」「うん、もんごい怖わそうやで~。でもおもろそうやで~。僕ら3時からの行こか思いやるんやけど、タコちゃん行かへん。おもろそうやで~。」僕とナカシャは、軽くタコちゃんを誘っているように見せたが、実はタイトルから2人で行くのが怖かったんである。「わかった。行くわ。俺ら仲の町の3馬鹿トリオやもんなぁ。堅い友情でむすばれとんもんなあ~。」なんのこっちゃ分からんが僕ら3馬鹿トリオは、貯めた小遣いをポケットに入れ愛自転車、自称「ライダー号」にまたがり駅前の映画館松竹座へ向かったのである。

当時勝浦には、バスターミナルの近くの寿座、駅前の松竹座そしてもう一軒映画館が会ったと思う。(あまり覚えてなく名前と、数に自信ありません)

受付のおばちゃんに、入場料を払い受付横の売店でコカコーラ3つと何故か「羽衣あられ」を1袋買って席についたのである。(当時僕の記憶では、映画館の売店イコール羽衣あられなのである。)スクリーンが暗くなり映画が始まった。

あらすじを簡単に説明すると、この映画は1968年大映制作で、江戸時代に海の向こうの遺跡のある国で墓荒らしが、4000年の眠りから吸血妖怪ダイモンをよみがえらせてしまう。南蛮船に乗って日本に上陸したダイモンは代官に憑依し次々と人々を吸血し殺してしまう。この代官の家に住んでいた河童がいつもの代官の姿と違うことに気づきその正体が外国妖怪のダイモンであることを知り仲間の妖怪達に伝える。このままでは日本中の人々がこのダイモンに殺されてしまうと思った妖怪達は日本中からダイモンと戦うため大集合する。河童、油すまし、青坊主、ろくろ首、二面女、雲外鏡、から傘、海坊主、ぬらりひょん、天狗、雪女等々日本中の日本の妖怪が力を合わせて日本人の為に、ものすごく強いダイモンに何度も何度もかかっていくのである。そしてとうとう最後にはその団結力がダイモンの息の根を止めるのである。子供心にもこの日本の妖怪達の人間を思う姿に泣きそうになった記憶がある。3馬鹿とも映画館から出てきたときは、すかすがしかった。「怖かったけど日本の妖怪ってええなぁ~。俺らもいつまでも友達やで~。」とタコちゃん。「あたりまえやんか。ダイモンかかってきてもやっつけたるわぁ~。」いつも調子のええ3馬鹿であった。                 

追記 この「妖怪大戦争」は1968年に公開されたが、2005年には、当時の有名俳優によりリニューアルされ公開された。 つづく


























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第2章 町立 勝浦小学校11 


実は僕は、和歌山県と福岡県のハーフである。うちのおかあちゃんは、福岡県遠賀郡(おんがぐん)芦屋(あしや、兵庫の芦屋やないで。笑)から関門海峡を渡り勝浦に嫁に来たのである。だから僕の体には九州の血が半分流れていてあの博多っ子純情のごとく純情な男なのである。(九州の皆様改めましてよろしくお願いします。笑。)というわけで、家のおかあちゃんは、嫁に来て僕が生まれてから2年ごとに夏休みの約1ヶ月僕や弟たちを連れて里帰りしていたのである。つまり僕が偶数の歳である。小学校2年の夏休みも8月1日に僕と真ん中の弟を連れて勝浦から天王寺までくろしお、新大阪から新幹線に乗り小倉まで行き、乗り継いで折尾まで行き、タクシーで芦屋の実家まで行った。新幹線が走るようになってかなり早い時期に乗っていたのである。勝浦からは今と違い、ほとんど半日かかったように思う。芦屋の実家は商店をやっていて、お菓子やら野菜やらジュースやら何でも屋だった。ひいばあちゃんとおじいちゃん、おばあちゃん、おかあちゃんの弟が住んでいて、僕たちは1ヶ月、近くの海で泳いだり、おばあちゃんの野菜の仕入れに着いていったり、近くの神社で遊んだりしていた。何せお菓子食べ放題、ジュースのみ放題、アイス食べ放題の実家である。たまにおばあちゃんから「タケちゃん、食べ過ぎばい。おかあさんに怒られるとよ。ばあちゃんないしょにしとくけん。あまり食べたらあかんとよ」とおこられたりもしたが。たまにおかあちゃんの弟の車で山口県の秋芳台や黒崎のデパートに行ったりもした。おかあちゃんにはお姉さんが2人おり一番上のおねえさんは直方(のうがた)と言うところで養鶏をやっていた。下のお姉さんは遠賀川にある競艇場に通っていた。僕たちは、にわとりのおばちゃん、ボートのおばちゃんと呼んでいた。僕たちは九州に行ったときは、必ずにわとりのおばちゃん家に親戚一同で1泊2日で遊びに行く。言い忘れたが、僕たち兄弟が2年ごとに九州に行ったのは僕が中学2年までだ。おとうちゃんは、まぐろの仲買の仕事があるので、勝浦で留守番。ただし、僕や弟が小さいときは、僕たちが帰る前の日に九州に迎えに来たりもしていた。話戻り、にわとりのおばちゃん家での話だ。午前中に芦屋を車で出て直方に昼頃つき豪華な昼ご飯を食べ午後卵の荷分をいとこ等も交え子供達5人くらいで手伝う。前もって取って置いた卵を機械に乗せ大きさに振り分けられた卵を箱に詰めていく。これが楽しい。時々落としてしまうが。落とした卵は晩ご飯のおかずになる。笑。しばらく手伝って、僕たち子供はクーラーの利いた部屋で一眠り。当時親戚でクーラーの付いている家はここだけだった。初めてクーラーという物を見たのも、にわとりのおばちゃん家である。僕たちがグースカグースカ寝ている時におかあちゃんと、にわとりのおばちゃんたちは、鶏の丸焼きや焼き肉など豪華な晩ご飯の用意をする。「ごはんよー」の声が目覚まし代わりである。たらふく食べて、にわとりのおばちゃん家の大きなお風呂に入りカラーテレビでテレビを見て広い部屋で雑魚寝である。翌朝早く、にわとりのおばちゃんに起こされ近くの農家に新鮮な牛乳をもらいに行く。これを温めて飲む。これが濃厚で抜群にうまい。朝食はハムエッグと牛乳である。その後子供たちはおばちゃんたちと養鶏場に入り、手を鶏につつかれながら卵とりをし、機械にかけて荷分けをする。昼ご飯を食べて夕方車で直方から芦屋に帰る。もちろん子供たちは夢の中である。2年に1回の楽しい夏休みの過ごし方である。    つづく。






















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第2章 町立 勝浦小学校12 


小学校2年生の長い夏休みも、秋の運動会も終わり冬もすぎ春が来て僕たちは、小学校3年生となった。クラス替えがあり僕は今度はタコちゃんと同じ1組、ナカシャは、4組だった。僕たちの担任はベテランの中先生という女性だった。

僕たちが3年生になる春休みのある日、タコちゃん家は、勝浦小学校の入り口にある文房具店に引っ越した。前の家主が訳あって引っ越し、タコちゃんのおかあさんが、文房具店を引き継ぐことになったためだ。タコちゃんは、仲の町から出ていってしまったが、隣の区であり僕たち3バカトリオは永遠に不滅なのである。実質タコちゃん家が誰よりも小学校に近いので、楽に登校できるはずなのだが、僕たちはいつも遅刻ぎりぎりすべり込みセーフという状態だった。

この頃僕たちの間ではやっていた遊がある。タッチごっこだ。

「おーい、昼休みタッチごっこやろらよ。」タコちゃんが、給食の僕らの大好物カレー汁を食べている(正確には飲んでいる、カレーは飲み物です。)クラスの男子(お~懐かしい呼び方や)に呼びかけた。「お~、ええね~、やろら~、体育館集合やぞ」ナカシャが答えた。そして他の皆も「お~、分かった、ズルズル」とカレー汁を飲みながら答えた。

昼休みのチャイムが鳴り5分で給食を全部食べた男子(その頃の僕らは5分でコッペパン1本、メインのおかず、小皿のおかず、牛乳1本を平らげるのなんて朝飯前、僕は3分で食べ終わっていた。そうじゃないと生きていけない。家の家族は7人家族で5人男でいつもおかず゛の取り合いである。必然的に早食い大食いになる)は、もうダッシュで体育館へ。急がないと他のクラスに体育館をとられるのである。タッチごっこは、ほぼ体育館全体を使うのである。男子全部で16名くらい。「そしたらグッパーやぞ、せーの」でグーかパーをだす。グーチーム8人とパーチーム8人に分かれる。簡単に言うとグーチームとパーチームに分かれた2チームは、舞台側の壁と反対の壁とを各陣地として体育館中を走り回る。そのときに相手チームのメンバーにタッチしたら相手の陣地の壁に片手をついてとらえられる。2人目のとらえたメンバーは一人目と片手ずつで手をつなぐ。その捕らえられた一番新しいメンバーにまだ生きているメンバーがタッチできると、捕らえられたメンバーが生き返りまた体育館中を走れ回れる。時間内で生きているメンバーの多い方が勝ちという非常に疲れるが僕らにとっては非常に闘争心のあおられる遊びである。

各陣地の壁に分かれたチームは「それでは、タッチごっこはじめ~」のかけ声で走り回る。さわられそうになるとふんわり交わす。なかなか忍者みたいな奴もいる。

体育館シューズには底に滑り止めみたいな感じになっていて思い切り走ってキューキューと方向を変える奴。うまく出来ず壁に激突するアホ、せっかく助けるのにタッチしようと思って行ったのによそ見をしていて助けられないこれもアホ等いた。このタッチごっこ僕らの勝浦小学校では、そう呼んでいたが他の地域は分からないし、こんなハードな遊びがあったんだろうか。昼休み全力で走り回った男子たちは、5時間目は皆、頭の中はおねむりごっこであった。                                         つづく。
























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第2章 町立 勝浦小学校13 



「なあ、タコちゃんとナカシャ。新しい基地作りに行かへんか。前の基地大分古なってき て遊べんようになってきたやん。なあ、明日休みやから行かへん。」と僕。 基地って何やねん。って思われている方。もうちょっとお待ちを。この話読んでいくと分かるんで。「ええねぇ。行こ。行こ。めちゃくちゃかっこええ基地つくろや。なあ、ナカシャ」「そうやねぇ。材料もすぐ集まるやろ。俺集めとくわ。」ナカシャもうれしそうにそう言った。「頼むで、なかしゃ。よっしや。そしたら明日朝9時にナカシャとこ集まろら。」「うん、わかった。じぁね。」学校帰りに僕ら仲の町3バカトリオは、固 い男の約束を結んだのである。基地を作るには古くなったまぐろ船で使っていたしび縄、板切れ、かなづち、くぎ、ひも、そして枯れ葉や笹そして太書きの何色かの油性マジック、基地が出来上がったとき食べるお菓子とジュース。まあこんだけあればいいてしょう。しび縄は、桟橋に行けばそこら中に捨ててあったものをお裾分けしていただいて(捨ててあるの拾ってくるのだが)、板きれは、市場へ行くと古くなってこれまた、使わなくなったトロ箱をくずして板きれにし使う。これを何枚か用意する。金槌とかは家から借りてくる。つまり材料はただである。そして翌日 、我らの愛車仮面ライダー号(自転車)にまたがり、なかしゃんちへ集まった。「中山くーん。あそぼー。」「おう、いこか、今日のお菓子は、サッポロポテトバーベキュー味やぞ。そしてファンタグレープやぞ。どえらいやろ」ナカシャの家は、酒屋でお菓子もジュースもいっぱいあるのである。しかも最先端のものが。「うそ、バーベキュー味なん。俺今日で食べるの3回目や。どえらいげ。さすがナカシャ。チュウしたろか。」「あほか、気持ち悪いわ」それから僕らは、材料を手にし歩いて勝浦小学校の裏山へ行った。 4本のある程度太い木を探し飛び降りると降りれる高さのところに□の字に板を打ち付ける。そして平行にその上50センチくらいのところに左と右と奥に板を打ち付ける。はじめの下の板に田の字に板をはわす。そして、しび縄を奧から手前、左から右へと編み目になるよう掛けていく。しび縄の編み目ベットが出来上がると、その上に枯れ葉と笹を集めてきて敷きしめる。そして手前の木の目立つところに基地の名前を太マジックで書き打ち付けるのである。

いわゆる木を利用したベットを作るのである。これが僕らにとっての秘密の基地である。「なあ、基地の名前なんにする。」タコちゃんが聞いた。「そうやな~。仲の町トリオハウスにしよら。」とナカシャ。「なんか、もうちょっとかっこようならんかな。」と僕。「仲の町グレートデラックハウスにしよら。」「ええやん。どえらいげ。」 単純に僕らは、すごいとか、でかいとか強いとかいう英語を並べたらええと思っていたアホであった。その名前を板にへたくそな字で書いて釘で打ち付けた。「それでは、我々の基地完成を祝ってかんぱーい。」ファンタグレープの缶で乾杯。そしてサッポロポテトバーベキュー味をほおばる。そして3人そろって叫んだ。「お~。ベリーグレートデラックスおいし~い。」ほんまに幸せな奴らであった。 つづく。              

























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第2章 町立 勝浦小学校14


「なあ、なあ、タコちゃんとタケちゃん。」友達のナカシャが僕らの顔をながめながら話しかけてきた。僕たちが小学校3年生の11月頃の話だ。ナカシャは、名前が中山でナカヤマが36回ぐらい変化してナカシャとなった。僕らはあだ名付けの名人なのである。「なあ、桟橋の近くにピンクに塗った小屋あるやろ、あれなんか知ったあるか。」とナカシャ。「あ、あれか。横の壁もピンクのペンキで塗ったあるし。入り口もピンクのカーテン張ったあるんやで。この前、お母ちゃんにあのピンクの小屋何なんって聞いたんやけど。『そんなんあんたら知らんでもええんやよ。』って教えてくれなんだわ」とタコちゃん。「俺も何か知らんけど、おっちゃんらピンクのカーテンから入っていって出てくる時みんな笑顔で出てくるらしいで。何かのお店かもしれんど。」と僕。「俺の隣のおいちゃんに聞いたことあるけど大人のパラダイスっていうてたで。」とナカシャ。「パラダイスってどういう意味なん。」とタコちゃんと僕。小学生にはパラダイスは分からないのだ。

「今から見に行かへん」とナカシャ。今は午後5時、秋も終わりの頃なので薄暗い。僕らは、ナカシャの家から歩いて約5分のそのピンクの家の前まで行った。看板には「ピンクヌ〇ド」と書かれていて、スポットライトみたいので照らされている。入り口は、ピンクの厚めのカーテンだけ。そのカーテンが少しだけ横にずれていてかすかに中が見えた。真ん中に丸いステージみたいなのがありその周りに椅子がその丸いステージに沿っていくつか並んでいた。浴衣姿のおっちゃんが4、5人ステージから一番前の席に並んで座っていた。ステージ上では、これまたピンクの布みたいなのを着たおばちゃんが寝そべっていた。僕らは、それをじっと眺めていたが、突然後ろから「こら、おまえら何しよんや。ここは、大人のパラダイスやぞ。子供は来たらあかんねぞ」と声がした。「パラダイス」そこに立っていたのは、ナカシャ家の隣のおっちゃんだった。


と、言うことで、勝浦のバスターミナルの近くのN商店の隣には昔、「ピンクヌ〇ド」というストリッ〇小屋があったというお話である。今は空地になっている。ちなみに僕は中に入ったことは無い。大人になる前に無くなってしまった。また現在勝浦には、風〇関係のお店はございません。念のため。つづく。


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第2章 町立 勝浦小学校15


正月が終わり、僕たちは小学3年生の3学期を迎えた。始業式の時僕たちのクラスに転校生が来た。大阪から来た長髪の西 良樹だ。「西良樹君です。よろしくお願いします」「はい、みんな仲良くせなあかんよ。西君あの席に座ってくれるかな」中先生が僕の隣の席を指さした。ということで僕と西君とは、世なんか気があって、タコちゃんも交えて良く遊ぶようになった。西君は、母子家庭でおかあさんが、スナックで働いており、北浜の観光会館の近くのアパートに住んでいた。僕とタコちゃんは良く西君の家に遊びにいった。西君のアパートには、なんと当時十万以上する電子レンジがあり僕とタコちゃんは、初めて電子レンジという物を目にした。近くのオークワで冷凍食品の食べたい物を買ってきて僕たちに西君は食べさせてくれた。彼の小遣いは1日1000円だった。僕とタコちゃんは1ヶ月3,000円。一桁違うのである。申し訳無かったがいつもおごってもらった。僕たちは4年生になりクラスは変わらないので、いつも遊んでいた。そんなある日事件が起こった。僕たちは西君がたまたま散歩しているとき、観光会館の近くに倉庫があり、少し高いところにある窓のガラスが大きく割れており僕たち子どもなら楽に入れる位のスペースがあり隣の塀によじ登って入れることを発見した。西君は見つけたとき、そのスペースから中に入ったら発泡スチロールがいっぱい積んでおり床にもきれいに並べられており床の上にも楽に降りれて、壁に高く積まれている発泡スチロールを殴ったり蹴っ飛ばしたりして遊んだらものすごくおもしろかったと僕たちに話した。「なあ、俺も何回か行ったけど、見つからんし、上から飛び降りたりしたらおもろいよー。今度いかへんかー。」と僕とタコちゃんを誘ったのである。次の土曜日僕たちは3人で、出かけその悪の遊びへとのめりこんでいった。1か月が過ぎ、ある日曜日の午後ナカシャも誘い倉庫に向かい発泡スチロールの上に飛び降りて僕たちは遊んでいた。突然ドアがガラガラと開き、おっちゃんが立っていた。「こらー、おまえら、なにしよるんじゃー」僕たちは固まってしまった。「この発泡スチロールなんじゃ、おまえらがやったんかー。警察行くかー」僕たちは勘弁しておっちゃんに連れられ近くのまぐろの仲買の方の家に連れていかれた。発泡スチロールはマグロを送るための発砲スチロールで僕たちは、倉庫のほとんどを粉々にしていたのである。一人ひとり名前と住所を聞かれた。すぐに親が呼ばれた。僕はおっちゃんたちに「この子は今日だけついてきただけなんです」とナカシャをかばった。でも本当である。おっちゃんたちは、「ほんまかー、よしお前だけは許したる」とナカシャは帰された。西君とこはお母さん、タコちゃんとこもお母さん、うちはお父ちゃんが呼ばれた。運悪く僕のうちは、マグロの仲買でおっちゃんたちは、当然うちのお父ちゃんを知っている。

お父ちゃんは、ただ謝るしかなく、3人の親で分割し弁償するということで警察には言われなかった。そのあと僕たちは別れ、お父ちゃんは先にバイクで帰っていた。家ではお父ちゃんも、おかあちゃんも何も言わなかった。ただ、それが、余計つらかった。その後、西君は4年の夏休み前に引っ越してしまった。今でも忘れない事件だ。   つづく

























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第2章 町立 勝浦小学校16


「なあ、タコちゃん、山ちゃん、今日は、K川先生来んのかなぁ~。」タコちゃんは、もうおなじみの親友であり、山ちゃんは、名字に山が付くのでそのまま山ちゃんである。「さぁ~。まだ7時5分やから分からんで~。」とタコちゃん。僕の小学4年生の時の話である。当時勝浦小学校の下のグランド(通用門から上がっていき今のプールのある左奥、お寺側)に木造立て2階の校舎跡の建物があり2階が家政学校、1階の1部屋が空手道場、もう一部屋が剣道道場に借りられていた。空手道場つまり和道流博正会勝浦支部の道場でK川先生はそこの勝浦支部長、僕らは生徒だった。小学3年生の夏休みにまずタコちゃんが空手を習い始め、僕も小学4年生になってすぐに、ナカシャも夏休み前に習い始めた。山ちゃんは、僕とタコちゃんのクラスメートでタコちゃんとほぼ同じ時期に習い始めていた。僕のおとうちゃんも大学時代より空手をやっておりK先生と同じマグロの仲買いだったので、K川先生、Y木さん、R野さん、K郡さん、H中さんたち先生方といっしょにこの道場で空手を教える役だった。生徒は、全部で20人くらいいただろうか。「ガラガラ、ドンドンドン」入り口のドアが開いてK川先生がやってきた。K川先生は、背は低いのだが、ものすごい筋肉質で頭髪はなく、眼光が鋭くちょっと猫背気味に歩くので、ものすごい迫力だった。もちろん黒帯でその黒帯も所々色がはげており貫禄十分、いつも竹刀をもって僕らを教えていた。本気で叩かれた。普段は非常にやさしく冗談も言う先生なのだが、いざ稽古となると目つきが変わり戦闘態勢に入ったゴリラに変わる。

まるで大魔神が変身するときのようである。ある日僕らの昇級試験に付いてきてくれたK川先生は見本として他の支部の有段者の若者と組み手試合をやって見せてくれたが、K川先生は暑くなると胴着からと頭髪のない頭から湯気が上がる。試合の途中相手がちょっとふざけた格好をとった。

初めは、おおめに見ていたK川先生だが、何度もふざけた態度を見せる相手の若造に中段突きと蹴りを一発。相手は壁際までぶっ飛び、気絶してしまった。それを見ていた僕ら生徒は、K川先生だけには、間違ってもふざけた態度は取るまいと改めて心に誓った。K川先生は、空手の練習日で無い時も、毎日仲買の仕事が終わったあと道場の外にぶら下げたサンドバックで突きの練習をしていた努力家であった。そのサンドバックには、所々赤く血が付いておりそのぐらい毎日練習していた。僕は小学4年から6年の終わりまで習い1級(茶帯)、タコちゃんと山ちゃんは僕より半年早く始めており初段(黒帯)までいった。ナカシャも茶帯だった。この道場はこの校舎跡が取り壊されたと同時に終わったが、形を変えてスポーツ少年団の様な形で那智勝浦町でも空手を習っている子供たちがいると聞いている。中学入学と同時にやめてしまった僕たちだが今でもその道場のことを思い出すことがある。良き思い出である。                 つづく。


 


























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第2章 町立 勝浦小学校17


「吉野君、まあまあ頑張ったな」ここは、勝浦小学校4年1組、1学期の終業式の日である。担任の中先生から今まさにタケちゃんは、通知簿(僕ら勝浦の子供は愛を込めて、つうちんぼと呼んでいた。)を授かったのである。閉じたまま席に戻る。こんでもええのに、悪友たちが側に寄ってきて、「吉野、どうやった。俺まあまあやった」とたいしたことのない成績の悪友が言う。俺もまあまあかなと、ほとんど2のアホが自慢気にいう。そんな中の僕の成績、こいつ等とあんまかわらん。ただ体育だけ5だった。1月期は短距離だったので。僕はクラスで1番早かった。そして、通知簿を全員に渡し先生は、「一番前のもん、人数分夏の友取りに来てくれるかな」と声をかけた。この夏の友、地方によっては、夏の友達とかいうらしい。歴史は古く明治の末あたりからあったらしい。1冊の中に、国語、算数、理科、社会の1学期の内容の復習が出来るような学習テキストである。僕らは小学1年から6年まで夏休みはこの「夏の友」そして冬休みは「冬の友」を宿題でやった。休み中毎日少しずつやるとちょうど休み中に全部終わるように出来ているのだが、それをやらないのが僕らである。最初の1週間に遊ばないで集中して全部やってしまう強者もいたし、また最後の1週間でやってしまうこれまた強者や、全然やらないバカ者がいた。(僕やタコちゃん、ナカシャは最初にやってしまう。その間遊びに誘わない同盟を固く結んでいたので夏休み2週間目からは、カゴから外にでた鳥のように遊びまくった。最初の1週間は遊ばなかったが僕ら3バカの誰かの家で「夏の友早期終了強化合宿」を行う場合もあった。ほとんど酒屋のナカシャんちが多かった。おやつに、サッポロポテトバーへキュー味とファンタグレープがでるのである。僕らはサッポロポテトバーベキュー味族であり、ファンタグレープのファンである。「なあ、ここの問題分かるかん」「アホか、わかるわけないやろ」と何故か偉そうにタコちゃんが言うのである。

「おい、このマーク万博のマークやったけ」とナカシャは工場のマークを指さす。ほんま天才トリオである。夏休みは、この「夏の友」と自由研究。自由研究はなんとか適当に2月期の始業式までに間に合わせる。冬の友も同じである。僕には休みの前半に集中してやって後で遊ぶ。このやり方が今も根付いている。外食したときも苦手な物をまず食べて一番好きな物は最後にゆっくり味わう。まじめにやれば、1学期の復習が出来きて、その後の2学期もスムーズにスタート出来るが、さぼったらその分自分に見返りがあり、2学期に苦しむ。今も同じような宿題はあるらしい。別の名前で。僕らの時は何と言っても「夏の友」。あまり友達にはなりたくないが。僕らの小学生の時のなつかし物である。    つづく。





























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第2章 町立 勝浦小学校18


小学校4年生のある日の事である。

「たけし、ボウリング連れったろか。」お父ちゃんはマグロの仲買いだったので土曜日は休み。僕ら小学生は昼までだった。「ほんまかん。タコちゃんとナカシャも誘ってもええ。」と僕。「ああ、ええよ。」「分かった。ちょっとタコちゃんとことナカシャとこいってくるわ。」僕の家からタコちゃんの文房具屋までライダー号(自転車であります)で5分、ナカシャとこまで3分であった。2人ともただやったら来るので。即「うん、行くよ。30分後にタケちゃんとこやね。」の返事。その頃はまだ、電話が各家庭にある時代ではなく、なかなか不便だった。そして僕のお父ちゃんは、車に乗って無く、僕ら3人はライダー号、お父ちゃんはマジンガーZ号(んなわけありません。笑。)お父ちゃんは、いかにも昔のがっしりしたおそば屋さんの出前で使うような大きな自転車に乗り勝浦駅裏のボウリング場に乗り込んだのである。その頃(昭和40年後期)はボウリングブームで、中山律子さんが特に人気でテレビでもボウリングの番組をよくやっていて、律子さんは、CMにも出ていたほどだった。「りつこさん、なかやまりつこさん~。」というフレーズが有名だった。那智勝浦町にも、今の駅裏のホテルの所に、あと元教育センターの所にボウリング場があった。(まだあったかもしれませんが、すいません、覚えておりません。)建物の上に大きなボウリングのピンが立っているので遠くからもよく分かる。なんとかボウルと。そうこうして、僕たちはお父ちゃんが、4人分のお金を払い靴を貸してもらって、仲の町4バカ(お父ちゃんごめん)グレートデラックスボウリング選手権がはじまったのである。お父上はお江戸の4大学に学んだ天才でありましたから、自分でシティボウイとぬかしていたが(汚い言葉、お父上おゆるしくだされ)結構うまく、あと何故かナカシャがうまかった。僕とタコちゃんは書くのも申し訳ないほどでありました。はい。でもそんな結果でも楽しく、子供だけで行けなかつたので、お父ちゃんに連れて行ってもらう機会が多かった。おもちゃでも野球盤も人気があったがボウリングゲームも人気があつた。しかし高かった。僕の親戚に東京で会社の社長しているおじさんがおり、盆と正月に勝浦に良く遊びに来ていた。だからタケちゃん坊ちゃんは言葉巧みにお土産のリクエストをし、デラックスボウリングゲームを手に入れていたのである。土曜日以外は、学校が終わったら良く僕の家で仲の町グレートデラックスボウリング選手権(ゲームやけどね)をおこなっていたのである。ボウリング場では、今はボールを投げると自動的にスコアが電光掲示板に示されるが、昔はスコアの用紙と鉛筆をもらい手書きである。スペアとかストライクとか全部手書き。面倒くさかったが、ボウリングをやっている間、ぼくちん達は、シティボ-イの香りに酔いふけっていたのであります。また、終わった後の一杯(いやいや、冗談です)、終わった後の瓶のファンタグレープはシティボーイの味がしましたとさ。  つづく。




























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第2章 町立 勝浦小学校19



はい、所は、仲の町僕の家。小学4年も終わった春休みのことである。「なあ、タケちゃん、5年生になったら少年野球せえへんの。脇仲チーム。やまちゃんと、西谷のまーぼー入るらしいで。」とナカシャは僕の家の僕の部屋で冒険王をめくりながら僕に話しかけた。「少年野球か、空手も始めたしな。でも空手は夜やし。うーん、どうしょうかな。」とお母ちゃんの出してくれたピーナッツサブレと少し濃いめのカルピスを飲みながら僕はそう答えた。その頃の小学生はもちろんJリーグなどないのでほとんど野球が好きで各区で5年、6年生中心に少年野球のチームがあり、大会とかあった。僕も少しは5年になったら野球やりたいなとは、思っていたがタコちゃんと山ちゃんに誘われ、そしてお父ちゃんが先生のひとりである空手を習い始めていた。「う~ん。やりたいけどな。新しいミズノのグローブ、ハマチスポーツでこうてもろたとこやしなぁ。山ちゃんもやるんやしなぁ。」

同じ空手を習っている山ちゃんが少年野球に入るのが僕の背中を押した。「俺はやるで。山ちゃんやろ、まーぼーやろ、俺やろ。メンバーたらんゆうて内田のおいさん誰かおらんか言いやったんや。」とナカシャ。「内田のおっさん、世話役なんやろ、あのおっさん、何でもやりよるね。ボーイスカウトもやりやるんやろ。家の弟入ったもん」と僕。「なあ、タケちゃんやろらよ。」「よし、分かった、やろか」そして僕らは5年生になったと同時に脇仲少年野球チームに入ったのである。あっ、脇仲というのは旧勝浦は、6区に分かれていて1区大勝浦、2区脇入、3区僕らの仲の町、4区小阪・神明、5区北浜、6区築地、この6区の他に町内には朝日町、天満、浜の宮などの地区がある。この区ごとに少年野球チームがあったのだが、悲しいかな2区の脇入と仲の町は子供の数が少なく2区と3区で1チームであった。だから名前は脇仲である。脇仲チームの6年生は立木君や、山縣君(たぶん入っていたと思うが違ったらすいません)、そして5年の山ちゃん、西谷のまーぼー、ナカシャ、僕、一つ下のさとる等でなんとか1チーム作っていたと思う。


練習は日曜日にお寺の境内だった。(結構ひろい空き地みたいになっていた)。人数が少なかったので全員レギュラーだったと思う。まーぼーはピッチャー、ナカシャはファースト、山ちゃん、セカンド、僕はなんとキャッチャーだった。さとるは、リリーフピッチャーでサードだった。(あとのメンバーはあまり覚えてません。すいません。)このチームあまりうまくなかったが、かけ声だけはよかった。「わっきょーい、りーりーりー」エラーしても「どんまい、どんまい」と大声でエラーした者がいう。練習は非常に楽しかった。

そして大会にも出たり他の区との練習試合もたまに行った。天満区のチームには、せいし君やきっかわ君などがいた。もちろん脇仲チームはボロ負けであった。試合中も「わっきょーい、りーりーりー」と脇仲チームはうるさい。もちろんエラーしても「どんまい、どんまい」である。4区には、同級生のアンちゃん、一つ下のとさ君、たなか君もいた。ピッチャーのとさ君は小学生でカーブを投げた。僕ら脇仲チームは、その曲がる球におったまげて手も足も出なかった。この試合もボロ負け。5区には、はまっちゃんや、サル君らがいた。ここも強かった。なにしろ子供の数が多い。そして1区には、あの年哉君がいた。ここも強かった。子供の数も多いし。僕たちの脇仲チームは弱かったがちゃんとユニフォームがあった。

胸の所に漢字で脇仲、そして僕は5、6年とも背番号2番、キャッチャーだった。

残念ながら僕は野球は、中学に入ると全然やらなくなったが、これもまた小学生の時の良き思い出である。今はおそらく各区の少年野球チームは無いのだろうなぁ。良き思い出である。               つづく。













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第2章 町立 勝浦小学校20


僕たちは、小学5年生になり小学校最後のクラス替えがあり、僕とナカシャは、4組で山脇という男の先生、タコちゃんは、3組となり空手と少年野球の1年間が過ぎ6年生となった。

「なあ、たけちゃん、今度かおりみなとから日本にきた映画しったあるか。ものすごいかっこええらしいで。」ナカシャが、登校してきて僕らに聞いてきた。小学6年生の時のことである。「あほか、あれかおりみなとって書いてほんこんってよむんやぞ。おれもまちごたけど。しったあるで。ブルース・リーやろ」と僕。「カンフーって中国の空手みたいのの天才で、上半身筋肉ぎゅうぎゅうらしいで。うちのお父ちゃん、言いやったけどヌンチャクいう棒2本ひもでくくったもん、びゅーん、びゅーん振り回して悪党やっつけるんやて。」と僕。「都会でものすごい映画流行ったあるらしいで。今度松竹座へ来るんやて、燃えよ・ドラゴン言うんやて」とナカシャ。「そうか、みんなで見にいこら。」と僕。「おう、見にいこら」とナカシャが答えた。当時色々なものが流行っていて、教科書を十時に止めて持ち歩くブックベルト、その先か後か忘れ又呼び名も忘れたが、段ボールみたいな厚紙で出来た四角い箱形のブックケース等があった。そんな中で僕らの眼の前に奴は現れたのである。そう、ドラゴン、はるか香港からやってきたカンフーの達人ブルース・リーその人である。後日映画を見た僕ら仲の町3バカトリオは、全国の男性がかかったブルースリー病にご多分にもれず、犯されてしまったのである。高倉の健さんの映画見た人が皆その後健さんのまねをするように、映画館を出た瞬間に僕らは「アチョー、アチョ、アチョー」の連呼である。その日の晩から、男たちは腹筋と腕立て伏せを始めるのである。僕らも当然行った。家の部屋には、ブルースリーのポスターを貼り、オモチャ屋で、プラスチックのヌンチャクを買って(僕のおとうちゃんは、通販で木のヌンチャク買いました)振り回していた。もちろんブルースリーの映画は勝浦で上映されたのは全部見たのである。レコードも持っていた。ブルースリーの映画は色んなストーリーがあるが、大体ある店で雇われているブルースリーがその店に悪党が借金や何らかで言いがかりを付けられ、その悪党の手下と店で一番強いと言われている男と戦って

悪党の手下にやられてしまう。店が困っているとブルースリーが私に任せてくださいと悪党の陣地に向かい手下の弱いものから順に倒していく。そして一番強い手下との戦いで、だいたい一度はブルースリーは倒れる。その後傷を負ったブルースリーはカンフー着の上着を脱ぎ捨て、腰に差していたヌンチャクが登場するのである。

そしてしばらく戦、相手はたいがい倒されて死んでしまう。そして最後に悪投の親分と戦い苦戦の末勝つのである。このストーリーに、そして格好よさに男はやられたのである。今は、便利な世の中で、いつでもインターネットとかで映画を見ることが出来る。今見ても格好ええ。小学6年の時の話である。さて、腕立て伏せやろかな。 「アーチョー」

つづく。































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第2章 町立 勝浦小学校21



「はーい、みんな聞いてよ。明日学習と科学の販売日やから頼んだある人は、集金袋にお金入れてもってきてよ。忘れんようにね。ちゃんと連絡ノートに書くんやで~」

「はーい」皆元気良く返事。小学6年生の時の話。「サル君、明日科学の発売日やと。先月号に載ったあたけど今度の付録日光カメラやぞ。」と僕。「うそ。ほんまかん。日光カメラほしかったんや。楽しみやね。」僕の斜め前に座っているサル君は、ニコニコ顔でそう答えた。それを聞いていた僕の向かいに座っているナカシャは、「日光カメラかん。どえらいええげ。貸してよ。僕学習やさかに。頼むで、タケちゃん」「ああ、ええよ。300億兆万円で貸したるわ。」と僕。

「ほんま、安いね。400億兆万円払うわ。頼むで~。」とナカシャ。相変わらず仲の町3バカトリオの会話である。学研の科学と学習とは、僕のパソコンのアホーで調べたら

1946年学習研究社より創刊。内容は当時の学習指導要覧に対応しており1年生から6年生まで各学年別に「学習」と「科学」の2種類があり確か月刊だったと思う。

「学習」は、主に国語と社会を中心に編集。読み物が多かった。「科学」は、主に理科と算数を中心に編集。立体編集と銘打ってページの一部をハサミでちょっきんこしたり、折り曲げたりして何かを作り上げたりする読者が体で学べる工夫がされていた。またこの2種類の雑誌がすごいのは、永井豪氏や石ノ森章太郎氏のマンガが載っていたり、ムツゴロウさんが、原稿を寄せていたりしたのがすごい。またまた付録がすごかった。一例をあげると「科学」は、日光カメラ、レコードプレーヤー、カブトガニ飼育セット、磁石、ラジオ、顕微鏡、「学習」は、年賀状制作キット、鉱石セット、地図記号スタンプなどである。この「学習」と「科学」僕らの母校勝浦小学校では1階の端に給食室があり、少し離れて購買部があり、発売日に子供たちが集金袋に入れたお金をもって昼休みに交換に行く事になっていた。そして僕ら3バカトリオは、その週の休みの日僕の家に集まり早速「日光カメラを手に入れた記念グレートダイナミックスペシャル撮影会 」(前にも書いたが僕らはなんでもグレートとかキングとか付けたらすごいと思ってました。)を開催したのであります。モデルはタコちゃん。付録のカメラについていたフィルム(というかどうか分かりません)をセットしタコちゃんはポーズ。しばらく動かずそのまま。そして撮影終了。

しばらくすると タコちゃんの姿がフィルムに浮かび上がってきた。「これ、あかんやん、顔まがったあるやん」とタコちゃん。「いや、実物より男前やで。」と僕とナカシャ。

「アホか、俺仲の町のアランドロンやぞ。こんなに顔曲がる分けないやん」とタコちゃん。それを言う顔がもうすでに曲がっていたのであります。小学生の時のほんわか思い出であります。ちなみに、2009年「学習」、2010年「科学」より休刊となりました。 これも時代の流れなんですね。     つづく。
































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第2章 町立 勝浦小学校22


小学校6年生の時、僕たち3バカは人生初めての修学旅行という物にでかけたのである。最初に断っておくが、僕の手元に何故か小学校の卒業アルバムがなく、修学旅行の時の写真も2枚しかなく、あくまでも45年前のことを記憶で書くので、間違っていることがあることを予めご了承いただきたい。特に心優しい同級生の皆様方。6年生になってのしばらくたった時、僕たちは、当時のバスターミナルからクラスごとのバスに乗り三重県の鈴鹿に向かった。2泊3日のコースは、名古屋、大阪のコースだ。朝早く父兄たちの見送りの中僕たちは、バスに乗り込み一路鈴鹿サーキットに向かった。僕の隣の席は、ナカシャで相変わらず道中はアホな話をしながらであった。「皆さん、おはようございます。今日から3日間、皆さんといっしょに行動します、熊川交通の吉田けい子といいます。よろしくお願いします」若い美人なバスガイドのお姉さんが僕たちの前に現れた。タコちゃんとナカシャと集合場所に集まった時、何人かのバスガイドの方がいて「おい、俺らのクラスのバスガイドどの人やろ、あの右から2人めやったら最高やん。」って言っていたら、なんと僕とナカシャの目の前に女神が現れたのである。おもわず僕とナカシャは、握手をした。勝浦っ子純情である。昼前に鈴鹿サーキットにつき、ゴーカートなんかで楽しみ、名古屋市へ。科学博物館や名古屋城を見学し、宿へ。僕たちの部屋は、畳の大部屋でクラスの男子全員が一緒である。サル君や、馬場くん、ミー君にみうらっち、さかじー、ナカシャ、ばーさん、全部で20人。もちろん、夜は枕投げ。おとなしくねるはずがありません。夜遅くまで、男子たちの会話が続きました。翌朝は、一路大阪へ。バスの中はカラオケルームに変身し、しばらくは、歌声が聞こえていたが、やがて静かになり、所々で男子たちのいびきが聞こえだした。皆夢の中である。「はい、皆さんもうすぐ天王寺動物園に着きますよー。」バスガイドの女神の声に皆目覚め、到着後動物園で楽しんだ。初めて見るライオンやキリン、僕たちは十分楽しんだ。昼食後造幣局など大阪市内を見学し今夜の宿へ。ここも畳の大部屋で、クラス男子全員一緒。買ったお土産を見せ合ったり、トランプしたり、時間を過ごし、最後は見回りにくる担任の先生の目を盗んでまたもや枕投げ。この日も夜遅くまでさわいでいた。大部屋で運ばれてきた、朝食を食べて、僕たちは、バスに乗り込み勝浦への帰路についた。「時間の立つのは、早いですね。もう3日目になりました。これから皆さんの地元勝浦に戻ります。途中休憩と昼食をとります。バスの中で歌でも歌いますか。」女神が問いかけた。「皆さんへの感謝の気持ち込めて私が先に歌いますね。」当時流行っていた僕たちが知っている曲を女神は唄ってくれた。周りの男子生徒はうっとりしている。みんな勝浦っ子純情なのである。その後勝浦に着くまでバスの中はまたもやカラオケルームとなった。この2泊3日で各地で集合写真を撮ったり、同行のカメラマンの方に僕たち男子はバスガイドさんとの記念写真を撮ってもらったり思い出の修学旅行となった。僕たち6年4組の男子の団結力も、より固くなった。つづく。

























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第2章 町立 勝浦小学校23



小学6年生の秋になった。僕らの勝浦小学校もご多分に漏れず秋に運動会があった。運動会の目玉種目に6年生のクラス対抗100m走があった。僕のお父ちゃんは、若い頃短距離で国体へ何回も出てて和歌山で一番早かったらしくその血をひいて僕は、短距離走は幼稚園のときから小学校卒業までほとんど1番だった。勝浦町民体育大会でも、うちの仲の町は子供が少なかったのでリレーで一つ上の学年の子供と走ってもぶっちぎりで抜かすぐらいだった。(自慢たらっしくてすいません。でも事実です)。話を元に戻そう。そのクラス対抗100m走だがクラスで1人選ばれる訳だが、5クラスあり1組は大勝浦に住んでいたトシヤ君(彼は造船所のボンボンででもそれを決して自慢せずええ奴やった。今も友人である。彼も走るのが速かった)2組山ちゃん。(僕と友人で空手仲間、電気屋の息子で壊れたラジオの修理なんか朝飯前。彼も速かった。)3組ケイちゃん。(旧勝浦地区の外、朝日町に住んでいた。昔からスポーツ抜群、勉強もできて女の子に、もてもてだった。現在某役場の某課の課長。偉なったなぁ~。僕の中では勝浦で2番目に速い6年生)そして4組。タケちゃん。5組N戸君。昔から野球ばっかりスパルタ教育を受けていた。まるで星ひゅうまみたいな男。(なんか女の子にもてたし偉そうやったんで僕は嫌いやった。ごめん。でもぶっちぎりで速かった。僕の中では勝浦の6年生で一番速い男。勝浦のボルト。)つまり何故か勝浦で速い6年生が5名集まったのである。多分テレビ中継があったらリオオリンピック男子100m決勝までは、いかないが(あたりまえやん)おもろかったと思う。スタート前に本人達を前にしてN戸君が「この競争、俺が1番、ケイちゃんが2番、3番はトシヤ君か山ちゃん、そして吉村はビリやね」と大きな声で抜かしやがった。

他のみんなも「そうやなぁ~。」と言って頷いた。「吉村はビリ」他のメンバーは君付けやのに俺だけ呼び捨て。「許さん。見とれや。N戸。他のメンバーに負けてもかまんけどおまえだけには絶対負けへん。見下す奴は絶対ゆるさへんねで~。」とタケちゃんは、大魔神の様に変身したのである。

そしてスタート。「いちについて~。用~意」バーン。ピストルの音と同時にゴール目指して駈けだした。僕の横には人がいない。気配で分かる。ぶっちぎりのタケちゃん1番。2番ケイちゃん。3番トシヤ君。4番N戸。5番山ちゃん。僕は、1番の旗の所に座った。N戸が近づいてきて「吉村、速いなぁ。すごいね~。」「まあね。」と僕。ここでもまだ吉村である。「吉村様と呼べ。吉村様と」と心の中で思った。最後に一言「人を見下す奴には天罰がくだされるんやで~。正義は必ず最後に勝つんやで~。」運動会でも仲の町3バカのひとり、タケちゃんはどたばた奮闘したというお話です。  つづく。   





























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第2章 町立 勝浦小学校24


「タコちゃん、そろばんいこら」僕は愛車のライダー号に乗り、勝浦小学校正門前の文房具店にやってきた。タコちゃんとはもうおなじみの僕の親友で文房具店の息子である。勝浦仲の町の3バカトリオのひとりである。小学4年生の初めにこの場所に引っ越した。その3年生のときからの話である。「かずお、かずお、タケちゃん来てくれたあるで。はよせんかん。タケちゃんいつもおおきによ。こら、はよせんかん。」タコちゃんのお母さんは、事情があり母一人でタコちゃんと妹さんをこの文房具店と朝は早くから魚市場で小物の魚を仕入れ魚屋さんにおろす仕事をしていた。僕のお母ちゃんやお父ちゃんは本当にその働きぶりをいつも感心していた。「おう、タケちゃんごめん、ごめん、いこら」とタコちゃんも店の外に置いているライダー号にまたがった。ライダー号は、その頃流行っていた5段変速ギア付きである。かっこええが、たまにチェーンが外れた。そんなときは、手を真っ黒にして素早く直す。僕らは那智中学校の国道はさんだ向かい側にあるYそろばん学校本校に小学4年生になった時から小学6年卒業まで毎週月、水、金曜日に通った。

その頃の小学生は、そろばんや習字、硬筆、絵、数学(算数違いますよ、6ねんの時に)、など習っていたが、圧倒的にそろばんを習っている子供が多かった。オレンジ色の手提げカバンにYそろばん学校の文字が入った皆おそろいのカバンにその級の色つきテキストブック、 鉛筆と赤ペンと消しゴムの入った筆ばこ、下敷き、そろばんケースに入ったそろばん、出席帳が入っている。これに上級になると暗算のテキストブック、そして今で言う10cm四方のメモ帳を束ねたみたいな伝表というもの(本当に伝票をめくるみたいに順番にめくって計算していく)が入っていた。僕らは教室に着くとまず、前にすわっているキュウリみたいな顔でチョビひげをはやしている校長先生に出席帳のカレンダーのその日の所に印を押してもらう。それから席につきテキストを何ページかやり自分で答え合わせをする。分からないところは校長先生に聞きに行く。そしてその日のテキストを自分で答えあわせし赤ペンで採点する。これが終わったら校長先生に見せてまた、印をもらい帰宅する。だいだい1時間ぐらいそろばんの勉強をしていた。そして何ヶ月かに1度昇級試験がある。合格すると合格証とそろばんに貼る合格した級のシールをくれる。これをそろばんに貼る。当然上級者ほどそのシールの数が多い。あるとき僕らはびっくらこんした。

僕の一つ下にオモチャ屋の息子のM君がいた。彼は非常に勉強ができそろばんも飛び抜けて出来て段をもっていた。その日校長先生が僕らに「この度M君が注文してくれた特別なそろばんが届きました~。」と高々と手にし皆に見せてくれた。


普通のそろばんは、親玉がひとつ、小玉(というのだろうか)が4つの、縦に5つの玉があり、始める時に 左から右に人差し指で一度親玉を上にあげる。しか~し、校長先生の見せてくれた特別そろばんは、そろばんの上の所にホタンがついており、なっなんと、そこを押すと親玉がすべて上に上がり、小玉が全部下に下がるという「おそれいったか~、てめ~ら~」と言っているようなびっくらこん、なものであった。僕らは、「ぎょぇ~。なんやそれ~、めちゃええやん」といっせいに合唱した。校長先生は「皆も手にいれられるで~、1本1万円やけど」とぬかしやがった。(すいません、絶対こうてもらえん怒りから言葉が汚くなりました)「ええねん、僕。僕らはこれでええねん」とタコちゃんと僕は自分たちのそろばんを愛おしくさすりながら、だまってうなずきあった。このそろばん学校は、そろばんだけでなく、たまに、休みの日曜日など希望者で各自弁当持参で遠足等行った。那智中学校の上の鉱山跡にも遠足に行った。僕もタコちゃんも参加しタコちゃんは、しきりに「校長先生、これ金やないん、絶対金やわ、俺大金持ちになったぞ」とわめき散らしていた。どうみても銅やのに、僕も校長先生もめんどうくさいので「そうや、金や、なかなかないで」と言っておいた。

そんなんで校長先生はかなり生徒から好かれていたと思う。僕らは小学校6年卒業まで通ってそろばん2級、暗算も2級で終わった。

縁あって僕の今の家の近くには、Yそろばん学校の分校がある。(つい5、6年前まで生徒が通っていたが今は閉校している)今は、本校もやっていないと思う。僕たち、いや那智勝浦町の大人達の子供時代の良き思い出であろう。電卓なんか無かった時代の。オレンジ色の手提げカバンなつかしいなぁ~。つづく。






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第2章 町立 勝浦小学校25



小学6年生の正月が過ぎた頃、「タケちゃん、もうすぐ中学校やさかい、今度N洋服店へ学生服見に行くかん。」お母ちゃんが、僕に聞いた。「うん、今度の土曜日に見にいこよ」と僕。「よっしゃ、300万おろしとくわ」とお母ちゃん。ほんまおもろい母である。その日曜日僕らは仲の町のN洋服店に出向いた。「あれ、タケちゃん、もう中学かん、早いね。ついこの前まで鼻垂らしてそこら中走り回りやったのに、早いねえ。」と店のおばさん。「おばさん、おおきによ。でも一言おおいで」「えっ、そうかん、いつも一言多い美人のおばちゃんって有名やで~」とおばちゃん。「そんなことどうでもええさか、たけひろの学生服見せてよ。」とお母ちゃん。「すまんの~、これどうや、かっこええで~。タケちゃん似合うとおもうで」その頃の僕は、今と違いやせていて格好良かったのである。

(えっ、今も格好ええて。ありがとう、照れるがな。)そんなこんなで僕は非常に普通の学生服とズボン、そして学生帽のセットを買った。裾直しをしてもらうため預けた。いくら負けるとのお母ちゃんとおばちゃんのバトルがありお母ちゃんが勝った。「タケちゃん、お祝いやさかいこの学生カバンもつけたるわ」「おばちゃん、おおきに、今日はおばちゃん美人やね」と僕。「今日はってなに、いつもやで~」おばちゃん、「はい、はいタケちゃん帰るで」とお母ちゃん。やっぱり家のお母ちゃん普通と違うわ。小学校6年生の3月期も僕たち3バカは、いつもいっしょに登校した。まずナカシャが僕の家に来る。「タケちゃん行こー」が合図。家のおかあちゃんが「あっ、さとる君おはよう。タケちゃん早よせんかん」がいつも言うせりふ。しばらくしてタケちゃんが現れ、今度は僕らの小学校で一番学校に近い家に住んでいるタコちゃんちに行く。「タコちゃんいこー」が、合図。        

「あっ、タケちゃん、さとる君おはよう。これ、かず男はよせんかん。」が決まり文句。一番近いのに僕たち3人は、いつも遅刻ぎりぎり。「なあ、もうすぐ俺等も卒業式やん。タコちゃんとナカシャは、中学校行ったらクラブ何に入るん。あっ、ごめんナカシャは、貧しいから働きに出るんやったっけ。」「うん、お母さんとおとうさんが病気で、寝ていて薬代をかせがなあかんのでーすーって、ええかげんせえよー。おまえ。ドリフのコントか。わっはははは。」「タコちゃんは、吉本いくんやろー。岡八郎の弟子になる言うとったやん。」「うん、えげつなぁーーーー。ってどついたろかーー。」という風にアホな会話をしながら登校していたのである。僕たちの頭だけでなく季節も春らしくなってきた3月20日、僕たちは体育館にて、卒業式を迎えた。校長先生のありがたい話、来賓のありがたいのかどうかわからない話、卒業証書授与などなど。僕たち3バカも義務教育というすばらしいシステムにより無事名門那智勝浦町立勝浦小学校を卒業でき、勝浦小学校の長い歴史に3バカトリオの輝かしい功績を残すこととなったのであります。なんのこっちゃ。今後も僕たちは中学生になりドタバタ劇をおこすのである。                 つづく。





























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第3章 うれし悲しき那智中学校1


僕ら勝浦小学校を無事卒業した(義務教育やから当たり前やけど)仲の町3バカトリオは、N洋服店で買った真新しい制服に身を包みさっそうと肩で風を切り他の小学校からも悪ガキが来る入学式に参加したのであります。そして見事3バカトリオはクラス編成でバラバラのクラスになったのである。でもそのおかげで3人とも新しい友達が出来、その新しい友達も3バカトリオ共通の友達となっていくのである。たとえば今も親友のイサオ君、おったん、だいちゃん、しーちゃん、谷口のよっちゃんなどである。まだおるけど。

僕と吉田イサオ君とは、クラス別に並んだときに名前に吉がついたので僕の前に並んでいて僕から「おなじ吉つくからよろしく」と話しかけたのが運のつき、それからは磁石のごとくほんま親友になり今も親友であります。その僕らのクラス1年6組の担任になったのが、理科系大学を卒業して中学の教師になったばかりの金田しょうへい先生ある。金田と書き(かなだ)と読む。その頃さだまさし氏がソロになり、雨宿りがヒットしていた。(僕がギターではじめてマスターしたのが雨宿りです。どうでもいいが)そのさだまさし氏に、そっくりであった。黄色の色のついたスケベサングラスをかけ顔はさだまさし、乗っていた車はどぎつい緑色の軽のワンボックスで自分でキャンピングカーみたいに改造していた。そして、科学部の顧問だった。僕とサカジと谷口のよっちゃんは小学校からの友達で、中学で同じクラスになったのて3人で科学部に入った。イサオ君は野球部へ、タコちゃんとナカシャは卓球部へ入った。僕ら科学部へ入った物は特別科学が好きだった訳ではない。なんとなくである。でも入ってからが面白かった。あっそうそう顧問の金田先生は、本人の前では言わないが、皆「きんた」と 呼んでいた。教科は理科てあつた。

科学部では、天気予報をラジオで聞きながら天気図書いたり(やったことがある方は分かると思うが、書き方がわかってくると実に面白い)、アリの巣の観察したり、気象観測したり人体の事を勉強したり結構面白かつたので1年の2学期まで休まず参加した。2学期以降は別のクラブにはいるのだが、又の機会に書くことにする。中学校では色んな係りに着くことになっていた。入学してしばらくしたある日のことである。

「はい、皆きょうは、学級役員を決めるからな。1年を9月で分けて前期と後期の2期に分けるんや。今回は前期のや。今日の日直の2人、悪いけど前へ来てこれ書いてくれるか」那智中学校へ入学し5日経った朝、担任のきんた先生は、そう言って日直のいくと君とKさんを前に呼んだ。2人は左右に分かれ、きんた先生に渡された学級役員の種類を順に書いていった。全部で10くらいある。初めに学級委員長、副学級委員長、代議員、体育委員、保健委員、書記等である。学級委員長、副学級委員長、代議員は各1名、体育委員からは男女1各ずつと書かれている。いくと君達が書き終わると「ありがとう、そのままこれから決まっていく役員の名前も黒板に書いてくれるか。すまんけど」「え~と、これからこれらの役員決めていくんやけど、ひとつひとつはじめに立候補聞いて、なかったら推薦聞くようにしよか、じゃ初めに委員長から」当然誰も立候補は、ない。「はい、Iくんがええと思います。」イサオ君が言った。Iくんとは、いくと君で、たまたま今日日直で前に出ている。いくと君とイサオ君は市野々小学校出身で2人は友達であった。結構役員を決める時ってこんなもんである。学級委員長はいくと君、そして副委員長も推薦があり前に出ていたKさんに決まり、代議員は健さんにきまった。健さんは、三河小学校から来た面白い奴でその後僕とも友達になる。そして色んな委員が決まり保健委員の番になった。そして何を思ったかイサオ君が僕の名前を推薦した。僕は保健委員になった。女子は推薦でOさん。別の小学校から来た子だった。僕の隣の席で、天然パーマで魔女っ子めぐちゃんみたいな子だった。向こうから「同じ保健委員やね。吉村くんよろしくね」にこっと挨拶してきた。勝浦っ子純情のタケちゃんは一発でやられちまった「あか~ん、かわいい」である。保健委員というのは何をするかというと皆の検尿や検便集めて担任の先生に届けたり、健康診断の準備の手伝いしたりと結構皆の嫌がることをやったりした。普通だったら少し嫌な顔をして皆の検尿集めたりするのだが、Oさんは嫌な顔ひとつもせず一生懸命やっていた。そんな姿も「あか~ん」である。その後、実は後期も僕は保健委員に推薦され、そして何とOさんも保健委員になったのである。中学入学と同時に僕のバラ色の日々が続いたかどうかは、内緒である。   つづく















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第3章 うれし悲しき那智中学校2


那智中学校に入学し、素敵な女の子に出会ったタケちゃんだが、もうひとつ僕たちは素敵な物に出会ったのである。この年代に男の子は車に興味もったり、カメラに興味持ったりし出すのだが、僕たちはギターという素晴らしい物に出会うのである。僕の家には、お父ちゃんが大学生の時に買ったガットギターがあったけど、今まではあまり興味が無かったが、中学に入学した頃に僕は、さだまさしに、はまり当時流行っていたヤングフォークという雑誌で雨宿りという曲を練習しだした。初めは当然全然弾毛無かったが、毎日練習していて少しずつ弾けるようになるともうあかん、のめり込んでいくのであります。時同じくして、イサオ君もギターに興味を持ち出し、ナカシゃもギターに興味を持ち出した。原因は僕たちの前に現れたキッスというバンドだ。とげとげしいメイクと衣装の4人組だ。中学1年生の夏休み前にイサオ君とナカシャの家に遊びに行った時だ。当時僕はイサオ君とナカシャとで良くナカシャの家でレコード聞いたりして遊んでいた。ある日イサオ君がキッスのデビューアルバムを抱えてナカシャとこへやってきた。「なんや、これ。このメークなんなん。」「このバンド、キッスいうて今洋楽ではやってるらしいでー、俺初めて聞いてぶっとんだもん。テレビでもこの前槍やツタデー。もんごいかっこええでー。」とイサオ君。「本間カー、まあ、はよきかせてよー。」ナカシャがイサオ君からLPを受け取りターンテーブルに載せた。テンポのいいドラムのリズム。合わせて底をはうようなベース。歯切れのいいギターのカッテイング。シャウトするボーカル。僕たちは手ファンタグレープの缶をもったまま蝋人形のように固まってしまった。「か、かっかこええ。なんや、これ。もんごいええやんかー。」1曲で打ちのめされた。僕たちはキッスのファンになってしまった。すでにキッスはデビューしてから何年か経っており僕たちは何枚かのLPとライブ盤を手に入れ聞きまくった。たまに僕はガットギターをナカシャ宅に持っていきギターをかき鳴らしながらキッスの曲を唄ったりもした。これが僕たちの洋楽への入り口だった。他の人はビートルズとかだったが、僕たちはキッスだった。また、ある日ナカシャが「おい、これもすごいデー。ディープパープルいうねん。」「なんや、パープリンって」と僕。「ちがう、ディープパープルや。かけるでー」とナカシャ。バッキューーーン。やられた。イサオ君と僕はまたもややられた。「か、かっこええ。ギターうまいし、なんやこの高い声は」あかん、ディープパープルにも冒された。イサオ君は、なんかしらんが、オーディオ好きでステレオセットもっていてレコードをカセットに録音してもらっていた。僕もナカシャもレコードプレーヤーとラジカセはもっていたが、レコードをカセットに録音する事が出来なかったためだ。中学1年生の秋、なんとナカシャとイサオ君はエレキギターを手に入れるのである。この後のことは次回に。  つづく。



























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第3章 うれし悲しき那智中学校3


キッスとかディープパープルと出会った僕たちは、洋楽とりわけハードロックにどっぷりはまっていくわけだが、邦楽も聞いていた。イサオ君は、何故か五木ひろしのファンで、LPとか一杯持っていて僕にカセットに録音してくれたりした。また、ロッドスチュワートという、しわがれ声のボーカリストも大好きで、これもカセットでくれた。僕は前にも書いたが、さだまさしに、はまっており、ギターで練習もしていた。ナカシャのお姉さんが、甲斐バンドが好きで僕たちに聞かせてくれた。僕もナカシャも、これまたやられてしまって、ファンになり甲斐バンドも聞きまくった。要するに乾いたスッポンジが水を吸収するがごとく色々な音楽を吸収していったのである。今も甲斐バンドは大好きで僕の人生で一番のバンドだ。ロッドスチュワートも大好きなギタリストのジェフベックと昔からバンドを組んでいたりしたことも後々知ることとなる。中学1年生の2学期の終わり頃になると、僕は、さだまさし熱も冷め、甲斐バンドとキッス、デイープパープル中心になりまた、ギターでのコピーもこの3つに偏っていた。ある日、「俺、エレキのセット買おうと思うねん」とイサオ君がロッキンFという雑誌の裏表紙に載っている三光通販の「君もこれでギタリストだ」という広告を僕たちに見せた。アフロヘアーの兄ちゃんがレスポールモデルのエレキ抱えて、恍惚の表情でギターを弾いている広告で、レスポールモデルとアンプとシールド、教則本付きで15,000円と載っていた。「イサオ君、ほんまか、ええなぁ。で、レスポールモデルとストラトモデルどっち買うん。」と僕。「小遣いずうっと貯めていて何とか買えるんや、おれレスポールモデルで、シーちゃんもストラトモデル買ういうてたで」とイサオ君。「ええなぁ、こうたら、ナカシャとこへアンプも持ってきてバンドごっこしようら。」と僕「俺も欲しけどなぁ。金ないからしばらくガットギターでがまんかな。ナカシャは買わんの」と僕。「うーん。エレキ欲しけどなあ。どうするかわからんなあ」僕たちはナカシャとこでいつものごとくファンタグレープ飲みながら話した。2週間後の日曜日、イサオ君はバスで勝浦駅までエレキとアンプを運んできて、僕とナカシャは、勝浦駅まで向かいに行き、アンプを持ってあげた。今から「イサオ君エレキこうておめでとうお披露目セッション」をナカシャの屋根裏部屋でおこなうためである。ナカシャの部屋に着いた僕たちは、びっくりした。ナカシャのベットの脇になんとエレキが立てかけてある。ベッドにはアリアプロⅡとあり、ブラウンサンバーストのストラトモデル。約5万のエレキである。「おまえ、なんや、これ」と僕。「親戚の兄さんに安くゆずってもろた。アンプもあるで。」と壁際を指さした。「ローランドのボルト30やんかー」僕たちはこの頃やたらエレキのカタログや、アンプのカタログを見ていてかなり詳しくなっていたのである。今と違い親から買ってもらうとか、なかなかなかったんで、僕たちは小遣いをせっせと貯めてギターを手に入れたのであります。「ええやんかー」と僕。イサオ君のエレキも格好良く、ナカシャはストラト、イサオ君はレスポール、タケちゃんガットギターでセッション開始。

曲はスモーク・オン・ザ・ウオーター。ボーカル、ナカシャ。気分良くやっているとボーカルと違う声がアンプから。「エー、今日はあんまり釣れなんだのー」

ナカシャの部屋の前は港で漁船の無線をアンプが拾ってしまうのである。僕らは笑いながら、夜までセッションを続けた。  つづく。






















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第3章 うれし悲しき那智中学校4


那智中学校の1年の秋の事であります、友達のイサオ君と辻(なぜか辻だけは、呼び捨て、でも非常に仲が良かった)と、とっちゃんと僕は、音楽の授業で結構張り切って唄う方だった。イサオ君は、今もそうだが音楽のセンスばっちり、歌もリコーダーもギターもうまい。顔はオリバー君やけど。辻は中一の夏前に東京から引っ越してきた雪男みたいな奴。(何か、僕の友達サル系の奴多いな。)そしてとっちゃんは、理科系の男だがおもろい奴で歌もうまい。そしてタケちゃん。目立ちたがり屋のスポーツ刈り。その4人が、音楽のS先生の授業中元気いっぱい声張り上げて唄っていたから、授業おわってからS先生に言われた。「ねえ、吉村君等、あんたら元気ええし、声もええから、今度の植樹祭で合唱部の臨時部員として助けてくれへん。あかんかな」と。なんせ目立ちたがり屋の4人衆。女性に頼まれたら嫌とは言えぬ。4人そろってその場で「分かりました。やります」と答えた。僕らはそれぞれクラブに入っていたが、合唱部の練習に重きを置いて練習に参加した。土曜日や日曜日など他の中学校へ行って合唱部の子とかと合同練習したりした。新宮市の中学校の女生徒なんかは那智中学校と違ってあか抜けしていてかわいい子も多かったので純情4人衆は合同練習が大好きでありました。(青春やね~)。僕らは結構まじめに練習に通い、そして2年生になり、その年、昭和52年4月17日に那智勝浦町の那智高原に当時の昭和天皇と皇后様をお迎えして第28回全国植樹祭が開催された。「みんなで育てる みどりの郷土」を大会のテーマとして開催され。天皇、皇后両陛下はスギとヒノキをお手植えされた。僕たちは那智中学校でブラスバンドと合唱部であせて110名の生徒がバスで参加した。たしか「みどりの歌」とかいうタイトルの曲とあと2、3曲唄ったと思う。中学1年の秋からこの植樹祭の時は、僕は科学部から何故かサッカー部に移っていて頑張っていた。スポーツ刈りで。ただし悲しきかな補欠でした。イサオ君は入学してからずっと野球部で頑張っていた。とっちゃんと辻はなぜか科学部。まあ、僕ら4人の合唱は今考えたらやたら元気だけ良く、実力はたいした物ではなく、植樹祭の会場で唄うほどの物でも無く、かえって植えてる木が枯れてしまうような歌声だったと思う。でも毎週日曜日とか練習に参加し楽しかったし、4人の団結は日々固くなっていったのであります。植樹祭が終わった時は2年生で、4人とも別々のクラスだったが、中学生活の間は皆仲が良くよく話ししたり遊んだりもした。

僕はサッカー部だったが、中一の冬に一大事件が起こった。 つづく。

































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第3章 うれし悲しき那智中学校5



中学校1年の2学期から僕は、科学部をやめて何故かサッカー部に、サカジーと一緒に入った。科学部の顧問はキンタ先生だったが、なんとサッカー部の副顧問がキンタ先生だった。僕とサカジーは、共に補欠だったがロンパンはいてサッカーシューズはいてグランドを走り回っていた。3学期のある朝いつものようにタコちゃんとナカシャと一緒に学校へ向かった。「なあ、タケちゃん、今日何の日か、しったあるかー」とナカシャ。「ああ、もてるやつが喜ぶ日やろ」と僕。「俺ら硬派もんは、関係ない日や。チョコレートぐらいでにたにたせえへんね。軟派もんの日や」と訳わからんこと言うて自分を慰めるタコちゃん。「そうや、仲の町3バカトリオには関係ない日でございます。」と僕。バレンタインデーである。もちろんこの日まで、僕たちは、チョコレートとかもらったことがない。今と違って義理チョコってもんがなかった時代である。もし、仮にも万が一、いや絶対ないと思うが、何かの間違いで、この中のだれかが、もらったら必ず隠さず報告することと誓いながら、僕たちは各自教室に向かった。僕は教室の前まで来ていつもと違う雰囲気に戸惑った。というのは。

教室の中は、いつもと違い少し静かで、男子たちは、教室に入らず廊下に固まって静かに話している。女子たちは、教室の中にいるみたいだ。「なんや、これ。なんで男子中に入らんの」と僕は、イサオ君に聞いた。「なんか、Nさんが、大事な打ち合わせするから、男子は悪いけどカバン置いたらローカにでてくれるかん」って言われたんや。Nさんとは、僕のクラスの女子の中でも一番活発な女の子で、リーダー的な女の子だった。「なんや、それ、で皆ここにおるんか。」しょうないから僕もしばらく、外にいた。あと5分くらいで1時間目の授業が始まろうとした時、入り口のドアが開いて、Nさんが「吉村君、悪いけど中に入ってくれる」って言った。僕は、まさか僕が呼ばれていると思わないから返事しなかった。Nさんは、もう一度「吉村君」と僕の名前を呼んだ。

「おい、タケちゃん、呼ばれてるぞ」とイサオ君。「えっ、俺」と僕は、恐る恐る教室の中に入っていった。女子たちは教室の後ろに固まっていて、僕は教室の真ん中まで歩いて行った。Nさんが「吉村君、急に読んでごめんね。あのね、私の友だちのHさんが、吉村君のことが好きでチョコレート渡したいみたいやけど、勇気がないんで、私に預けたんや。受け取ってもらえる」ってNさんは、紙袋を僕に差し出した。僕は、Hさんって誰やねんと思いながらも「うん、ええよ」と受け取った。僕が受け取った後、始業のチャイムが鳴り男子たちも中に入ってきた。チョコレートもらったのは、僕一人だった。男子たちから冷やかされた。昼休みに、ナカシャとタコちゃんに会い、報告した。3人でトイレに行ったときナカシャは、おもむろに「くっそー、なんでタケちゃんだけなんや。俺ももらうぞ」と胸のポケットから櫛を出し髪の毛をときだした。僕とタコちゃんは、その姿を見て大爆笑した。チョコレートをくれたHさんと僕とその後どうなったかは、ご想像にお任せします。   つづく。


























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第3章 うれし悲しき那智中学校6



「今日の体育、高山先生のランニングかなわなんだわ。」と僕。中学2年の時の学校からの帰り道である。「ああ、タケちゃんのクラスもランニングかん。俺のクラスも5時間目やったけど高山のおっさん、ランニングはすべての基本やって。ただ走らせるだけやで。トラックぐるぐる。おかげで汗だくや。足がくがくやし」とナカシャ。中学2年生になり 僕ら仲の町3バカトリオは3人ともクラスが違っていた。タコちゃんとナカシャは1年から卓球部に入っていて、僕は1年の3学期から何故かサッカー部に入っていた。クラスとクラブも違っていたが、いつもいっしょに約1キロ歩いて登下校していた。「なあ、帰ったら久しぶりに、にしの湯いかへん」ナカシャが言った。3人とも家には風呂があったので、銭湯には、たまにしか行かないが、なんかの機会に親や友達どおしで、にしの湯にいっていたのである。その頃町内には何軒か銭湯があり今も続いている所もある。にしの湯は、僕ら(タコちゃんは小4の時に仲の町の隣の神明に引っ越しした)の仲の町の中にあった。バスターミナルから仲の町に入る道を少し入ると右側(今の桂城の向かい)に2階建ての白い壁のビルがあり1階はスナックや飲食店が何軒か入っており2階にあがる階段を上ると銭湯にしの湯があった。「ええねえ、いこいこ」僕らは学校から帰ってタオル等を手に田中フードセンター前で待ち合わせ、にしの湯に向かった。「いらっしゃい、こんばんわ」番台のおばちゃんが、元気良く客を迎える。「タケちゃんら久しぶりやね。元気かん」おばちゃんは、お金を受け取りながらそう言った。仲の町の子供なので皆顔見知りである。「うん、元気やで~」と僕。「今、中学なんやね。早いのう、さとし君もかずちゃんも元気みたいやね。もう毛はえたか。おばちゃんみたろか~。がっはははは。」とおばちゃん。さとしはナカシャ、かずちゃんはタコちゃんのことである。勝浦の昔からのおばちゃんは、みんな明るいスケベである。「当たり前やん。もう大人やぞ。今度みせたるわ。がっははは」と僕らは、答えて脱衣場に向かった。これぐらい言い返えせんと仲の町では生きていけんのである。(なんのこつちゃ)僕らは、一応前をタオルで隠し湯船へ向かった。もちろんタオルは湯船につけたらあかん。初めに洗い場でかけ湯をしタオルを頭にのせ湯船に浸かった。「あ~~~。気持ちええのう」3人そろっての合唱である。

なんで皆喉から絞り出すように「あ~~~、気持ちええのう」というのであろうか。まあ、気持ちええからやけど。女性の方も湯船浸かる時いうのだろうか。ぜひ教えてください。しはらく僕らは湯船に浸かり、そして体をごしごし洗いエメロンシャンプーで頭(3人とも坊主頭なのでせっけんでええんだが)を念入りに洗い、またしばらく湯船に浸かりそれから脱衣場にむかった。タオルで、全身を良く拭き、3人ともトランクス(なぜか男は中学生になるとブリーフ派とトランクス派に分かれるのであります。僕ら3人は風通しが良いトランクス派です)姿で「おばちゃん、牛乳もらうで」とお金を番台のおばちゃんに渡しショーケースの扉を開けて牛乳を手に取り、上のビニールとふたを取り、左手を腰にあて両足は肩幅に開きタオルは肩にかけ、右手で牛乳瓶をしっかり持ち、一気に、ごくりごくりと飲み干した。瓶のラベルにはもちろん「天満牧場」である。(他の牧場主の方すいません。)僕ら仲の町の子供は皆天満牧場の牛乳なのである。当時の仲の町の子供の体の一部は天満牧場の牛乳でできているのである。(ほんまかいな)。余談だが僕が初めて牛という生き物を見たのは、勝浦幼稚園で遠足で行った天満牧場である。そうこうして、たっぷり銭湯「にしの湯」を堪能した僕らは、ぞれぞれ家に帰った。にしの湯は、その後時代の流れで無くなってしまったが、勝浦には大勝浦に「はまゆ」という素晴らしい銭湯が今もある。

ホテルのお風呂も、もちろん良いが、勝浦に来たときに銭湯に入るのもまた、おつなもんである。仲の町にあった、にしの湯の話でした。アイラブにしの湯である。  つづく。




















「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第3章 うれし悲しき那智中学校7



今考えてみると、僕らが那智中学校に入学した頃というのはアルバイトが許されていたのだろうか。僕とかナカシャとかタコちゃんは、夏休みにしっかりアルバイトしていた。許可されていたか、内緒でやっていたんだろう。と言うわけで那智中2年の夏休みの時の事であります。僕は1学期でクラブのサッカー部をやめ帰宅部になっていたので、何かアルバイトしたいと思っていた。「タケちゃん、夏休みアルバイトするかん」お母ちゃんが、僕に聞いた。「えっ、どこで」と僕。「家でや、市場のアルバイト夏休み中せえへんかん。お父ちゃんも喜ぶし、働いてくれやるおばさんも喜ぶで。もちろんアルバイト代あげるよ。その代わりアルバイトやから市場休みの時以外毎日やで。子供いうてあまやかさんて゛」

「うん、ええよ。やるわ」と僕。早速夏休み初日から魚市場へ行くことになった。お父ちゃんのお古の帽子、長袖の服、ジーパンにこれまたお父ちやんのお古の長靴。お古の手がき(まぐろをひっかけて持ち上げるもの)を手に朝6時に起きてしっかり朝ご飯食べて

6時50分前には着くように自転車で市場へ向かう。書き忘れたが、僕の実家は、ひいじいちゃんの時代(約100年)から4代続く老舗の生まぐろの仲買店である。

知っている方も多いと思うが、勝浦の魚市場は、土曜日と祝日の前の日が基本的に休みである。これは、東京、名古屋、大阪など都市部の市場が日曜、祝日が休みで、生まぐろの配送の関係でその前日に競りをしても都市部は休みである為だ。あと勝浦の魚市場は、朝7時に競りが始まる。都会部では、指で値段を表したりするが、勝浦はアルミで出来た短冊みたいな入札ふだに屋号と値段を白木で書いて読み上げる台に置いて、読み上げ担当の市場職員が一番高く入札した屋号を読み上げる。たとえば「一番500円ヤマサン」と言う具合だ。これは、一番の札の所のまぐろをヤマサン(ちなみに家がヤマサン)がキロ、500円で競り落としたと言うことである。僕のアルバイトの仕事は、競りをやっている側で働いてもらっているおばさんといっしょにお父ちゃんが競り落とした生まぐろを

手書きで横の邪魔にならないところまで運び、そこに木のトロ箱を運び一輪車で、氷を乗せた氷り売りのトラックまで行き屋号を告げ(氷一輪車一杯200円掛け売り)一輪車でトロ箱まで運び生まぐろを氷りづめにする。まず、このトロ箱運びが慣れないと大変である。長さ2メートルくらいの木の箱である。その時分は、今の、にぎわい広場あたりに屋号ごとに積んでいた。そこから肩に担いで持ってくる。ちょうど真ん中あたりを右肩に当て斜めにし頭からかぶるように持ち上げる。これも慣れると右肩と左肩に1つずつ持てるようになる。僕も筋がいいのか、すぐに2つ持てるようになった。でも一度だけ仲買の方にぶつけそうになった時があった。知り合いのおじさんだったので事無きを得たが、気をつけないと当時市場で働いていた人たちは喧嘩ばやい恐い人たちばかりだったので危なかった。ほんまやで。次に一輪車。これにもペンキで屋号が書いてあり、氷のいっぱい入った一輪車をあちらこちらに生まぐろや道具、トロ箱の置いている細いところをバランスを取りながら自分家のトロ箱まで運ぶ。何回ひっくり返したことか。でも何回かやるうちにこつがつかめ慣れる。ひっくり返した氷は素手で一輪車に汚れていない上のほうだけ入れて運ぶ。また、生まぐろは、ビンチョウ以外尻尾切っている。仲買いの方はその尻尾の色や、つやとかを見て買うかどうか判断する。

トロ箱には、胴体の部分と尻尾を2本分入れる。まあ生まぐろの大きさによるが。またヒレをハサミで落とす。それもバイトの仕事。ビンチョウは尻尾切っていないのでそのまま木の箱に入れる。氷詰めしたら屋号のマークの紙と送り先の紙を貼りそれで一丁あがり。次の競りをしている場所へ急ぐ。それの繰り返し。生まぐろの水揚げが少なかったらバイトは早く終わるし、水揚げが多いと遅く終わった。まあ昼前までには終わったけど。アルバイトは時給だった。まあまあのお金になった。中2の冬休みも、中3の夏休みもこの市場のアルバイトをした。僕の同級生も親が仲買いの者もいたのでアルバイトしていた。

親がやっていなかっても何かの紹介でやっている者もいた。やりやすかったバイトで勝浦ならではのアルバイトだったと思う。多分、今市場で働いている僕ぐらいの方々は中学生ぐらいの時市場でアルバイト(正当にお手伝いの方もいらっしゃるでしょう)していたと思う。思い出深き魚市場でのアルバイトである。 つづく















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第3章 うれし悲しき那智中学校8



なんやかんやで、僕たち3バカトリオも中学3年生になった。女の子なら花の中3トリオとなるのだが、なにせちょっとひげも濃くなり筒ある、声変わりした坊主頭の中3バカトリオである。元気だけはあった。3人は別々のクラスだったが、僕はイサオ君と同じクラスで、担任は1年の時と同じ、きんた先生だった。1学期のある日のことである。

「きりーつ。礼、よろしくお願いします。」「はい、おはよう。皆今日はラジオを作るぞ。 はい、列の前のもんは、ラジオのキット取りに来てくれるか」中学3年の夏休み前の技術の時間のことである。技術の越やん先生(先生は生徒の皆から越やんと呼ばれていた)は、そういって前に皆で注文していたラジオキットを配った。「はい、この3時間目と4時間目で完成させるように皆頑張って作るように。はよ出来たもんは、遅いもんの手伝ってもええぞ。それでは列ごとに作業台に分かれて」僕らは列ごとに6つの作業台に分かれた。各作業台には、ペンチやニッパー、半田こてや色んな道具がそろっていた。僕らの列は、サルくん、いさお君、アンちゃん、三浦っち、山ちゃん、そして僕の6人だった。僕らは箱の中身を四角いプラスチックの箱に入れ作業台を囲む様に座り説明書に沿って組み立てて行く。山ちゃんは、家が船関係の電気器具の修理店で、小さいときから色んな電気器具を分解したり修理して遊んでいたので、ラジオづくりなんて朝飯前であっというまに組み立ててしまった。組み立て行程は、まず磁石にコイルを何回も巻いてそれを基盤に取り付け、部品を基盤に半田付け、スピーカーやイヤホンを取り付けその基盤をラジオの箱に収めると簡単に書くとこんな物である。この最初のコイル巻きがなかなか時間がかかり大変だった。なんとか、やりきり少しずつ完成に近づいていった。山ちゃんは、組み立ての遅いサル君を手伝った。4時間目終了までに6人とも出来上がりクラスの皆もほとんどの者が出来上がった。4時間目終了のチャイムが鳴った。「きりーつ、礼、ありがとうございました。」「皆できたか。ラジオ持って帰って家で使えよ。はい、ごくろうさん。」僕らは、自分たちの教室に戻りでっかい弁当を取り出しフタにやかんに入っているお茶を入れ弁当にむしゃぶりついた。僕はいつも、イサオ君と山ちゃんと3人で弁当を食べていた。「なあ、山ちゃんとイサオ君、弁当食うたら体育館の階段のとこでラジオ聞かへん。たぶん12時位やから音楽番組しやるかもしれんで」と僕。「そうやな。まだ、音楽きいてないもんな。さっきは、なんかアナウンサーのしゃべりだけやったもんな。キッスの曲とかかかったらたまらんぞ。」とイサオ君。「ええなあ、俺帰ったら夜これで鶴光のオールナイニッポンきくんや。もんごいええらしいぞ」と山ちゃん。「よっしゃ。弁当くうたか、ラジオもっていくぞ」と僕。僕ら悪ガキ3人はラジオを手に体育館の階段の所に行き、階段に腰掛けた。

「それでは、3年5組タケちゃんと山ちゃんとイサオ君のラジオ局の開局でありまーす。」 僕らは、ラジオスイッチを入れボリュームいっぱいにし、チャンネルを合わしていった。なんか音楽らしきものが聞こえてきた。チャンネルを微調整する。「ダンシングクイーン、ダンシングクイーン」「おお、アバやん。ダンシングクイーンやないか。」僕ら悪ガキでも大ヒットしているアバのダンシングクイーンぐらい知っている。3人とも同じこの曲にチャンネルを合わした。「お~、お~、お~、なんとかかんとかダンシングクイ~ン」

英語はわからんが、ダンシングクイーンだけは、分かる。「ええぞ、ええぞ」3人は、訳わからんダンスをしだした。ディスコ状態である。「なんとかかんとかダンシングクイーン、なんとか~、かんとか~、お~、お~」知らん人が見たら学生ズボンはいた坊主あたまの中学生3人が暑さにくるって踊っているみたいだ。「お~、お~、ダンシングくい~ん。」「はい、アバでダンシングクイーンでした。いや~、いい曲ですね」とアナウンサーがいった。僕らは、自分たちの作ったラジオがうまく聞こえた事は元よりそのラジオから洋楽が流れてきたことに感動した。「もんごい、ええげ、アバええやん。」僕らはそれからしばらく他の洋楽も聞いたが、やはりダンシングクイーンが一番だった。体育館から教室に戻るときも、もちろん3人そろつて歌いながら戻った。

「お~お~お~お~、なんとかかんとか~、ダンシングクイ~ン、お~お~お~」

懐かしい中学校生活のひとこまであります。















「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第3章 うれし悲しき那智中学校9


中3ともなるとかなり格好付けたくなる年頃である。「なあ、イサオ君、そのズボンもものとこ普通のより太ない」と僕はイサオ君に聞いた。イサオ君は、前にも書いたが中一の時から友達で那智山から通っている。エレキも持っていた。このイサオ君今は某楽団でサックス吹いてます。昔から音楽の才能は抜群でした。顔はガリバーやけど。「これ、知らんの、ツータックいうてこのベルト通すとこの下2段階に折り込んだあてニッカボッカみたいにモモのとこ太なったあるんや、格好ええやろ、ナカシャもこれやで」「ほんまかん、かっこええやん、ナカシャもそうかん、俺も買おう」と僕。イサオ君がツータック履いていたのも驚いたが、それよりあの3バカトリオのナカシャが履いていることが腹たった。負けられんと思った。その日の帰り道、ナカシャに聞いた。「ナカシャ、ツータックはいたあるん、どこでこうたん」「あっ、これN洋服店で売りやるで、それからこれも」とナカシャは上着の裏を見せた。そこには龍の刺繍が入っていた。「何やそれ、格好ええやん。」「タケちゃん、格好ええやろ、あんまり派手な刺繍はあかんやろうけど、これくらい何気なく入っているやつやったら大丈夫やで、これもN洋服店やで」「ほんまかん、あのおばさんとここんなんも置くようになったんや、今度こうてもらおう。」

そして、家に帰り次第「なあ、お母ちゃん、ツータックっていう学生ズボンあるんやけどこうてくれん。お尻のとこ、きつなってきたんや。ナカシャもイサオ君もツータックなんやで」家のお母ちゃんは、ナカシャのことは僕と同じくアホやとおもてるけど、たまに遊びに来るイサオ君は、ええとこのボンボンや思ててかなり気にいってたのである。その彼がツータックなんで、「そうやね、、今のズボンも古なってきたさかいこうたるわ」とお母ちゃん。その次の土曜日また初めに書いたようなアホみたいなお母ちゃんとおばちゃんのやりとりがあり僕はツータックのズボンを履いていくようになったのである。

中学3年の1学期に待ちにまった修学旅行があった。行き先は東京である。2泊3日である。

僕たちは、当日紀伊勝浦駅に集合した。前日いつしょに帰ったタコちゃんが、集合時間近になっても来ていない。しばらくして、マスクをしたタコちゃんとお母さんが現れ、担任の先生と話ししだした。タコちゃんは、昔から遠足とかあると緊張して必ず熱を出していた。今回も熱を出したが、一生に一度のことなので、先生にお母さんが頼み込んだ。保健の先生が付きっきりでの参加となった。「おばちゃん、大丈夫やで、僕らも気を付けるさか」と僕とナカシャもお母さんにいった。「タケちゃん、さとし君頼むね」お母さんは、すこし安心したようだった。タコちゃんは、午前中は少ししんどそうだったけど、富士宮についたころは、列車のなかでぐつすり寝たこともあり熱もさがり元気になつたみたいだ。僕たちは、紀伊勝浦駅から名古屋ま特急、名古屋で新幹線に乗り換え、富士宮へ、バスに乗り換え富士山5合目へ、箱根に向かい芦ノ湖遊覧とか楽しみ東京入り、千代田区の「たかぎ」という旅館に宿泊。翌日は国会議事堂、後楽園遊園地とかに行き、宿泊、3日目に新幹線にて名古屋へ特急に乗り換え勝浦へと戻ったのである。修学旅行でのエピソードは、たくさんあるが、またの機会にする。              つづく。

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「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第3章 うれし悲しき那智中学校10



「だんな、ええ金儲けの話あるんやけと゛、ききたないでごわすか。えへへへ。」とナカシャが僕に話しかけてきた。「うん、おぬし又なにかやらかすつもりか。おぬしも悪よのう。しか~し、わしも黄金色に光る板はきらいじゃないぞ。えっ、おぬしも好きじゃろ」とまたまた仲の町3バカトリオの2人は何かたくらんでいる。中3の夏休み直前の僕とナカシャの話である。「その金儲けてなんよ。あやしいことやないやろね。と僕。「あほんだら、まともな話やぞ。」と、まともやないナカシャが言う。「だから、なんやねん。」とまたまた、まともやない僕が言う。「俺中3なってクラブやめてからまじめに学校終わってから熊野情報配りやるのしったあるやろ」とナカシャ。ここは、ナカシャの家のナカシャの屋根裏部屋である。ナカシャはこの前買ったアリアプロのエレキを片手に、大ちゃんが置いて行っているローランドのギターアンプにコードをつなぎ、僕は同級生のむっつんがこれまた置いているドラムセットにまたがり、ディープパープルのハイウェイスターのレコードに合わせ演奏し終わった後、ナカシャの4つ上のお姉ちゃんが差し入れてくれたカルビーバーベキュー味をもぐもぐほおばりながら、ファンタグレープでのどを潤しながらこの話をしている。「ああ、しったあるよ。それがどしたん」と僕。「夏休みの間だけ手伝う気ない。夏休み、うちの店も結構忙しくなるさか、店出来るだけ手伝ってくれってお母ちゃんにいわれたんや。そんで、週3日くらいと集金てつどてくれへんかな。もちろん、その分払うさか。もぐもぐ。」「う~ん、もぐもぐ、どうしょうかな、もぐもぐごくり。ま~、ナカシャ大先生の頼みやさか、やろか。その代わり2日間そのエレキ貸してくれ。ええやろ。もぐもく」と僕。「え~、こうたばっかしやぞ。う~ん、まあええわ。わかったよ。もぐもぐ。」と言うわけで僕は翌日から3日間はナカシャといっしょに担当地区の朝日町あたりを熊野情報を配り配達場所を覚え4日目からは一人で配った。次の週から月、水、金の3日配った。熊野情報というのは、今の熊野新聞の前の前の名前であり、仲の町の万清楼というホテルの前身が金波というホテルであり、その横に熊野情報の事務所があった。僕らは自転車で配った。7月の20日くらいから配っていたので、8月の初めに集金も行った。配っている家一軒一軒昼間に廻った。「すいません、熊野情報です。集金に来ました。」と僕。「ああ、ごくろうさんやね、いくら」と気持ちよく払ってくれるといいのだが、行っても留守や、「悪いよ~、今日持ち合わせないさか、3日後にきてくれるかん」と言われたり、「は~い、ちょっとまってよ」とすけすけのネグリジェ姿で出てくるホステス(やと思った)のお姉ちゃんが金を払ってくれるという何度でも行きたくなるうれしいこともあった。あれは、中学生の純情少年にはあきません。鼻血ブーになりそうでした。未だに脳裏に焼き付いております。そんなこんなで僕は夏休みいっぱいナカシャのお手伝いをし、アルバイト代を頂戴した。まあまあのお金になった。よう考えるとアルバイト禁止やったかもしれん。でも今思うとええ経験やったと思う。雨の日や風の強い日とかもあった。夏休みの間だけやったけど楽しかった。アルバイト代もらうとき僕はナカシャにはっきりと声を大にし目を爛々と輝かせてこういった。「集金やったらいつでもやるで~。」ナカシャがいった。「タケちゃん、集金ほど楽しもんないやろ」僕は、何度もうなづいた。 つづく。


























「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」

第3章 うれし悲しき那智中学校10



「なあ、タコちゃんとなかしゃ、高校どこへいくん」中三の2学期のある日の帰り道でのことである。僕は、2年の3学期には、サッカー部をやめていて、ナカシャもタコちゃんもクラブは中三の夏休みで引退なので、授業終わったらすぐに下駄箱の所に集まり、僕ら3バカいつもアホな話ししながら家へと向かっていたのである。僕たち3バカは学生服は、上着は裏地に龍の刺繍入り、ズボンはツータックで、坊主頭だった髪の毛も長髪になっていた。「俺は、新商かな。新高いける頭ないさかね」とタコちゃん。ナカシャも「俺も新商やな。成績悪いし。」とナカシャ。「俺は、新高行こう思う」と僕。「大学行きたいからな」と僕。「ナカシャは、高校出たら店継ぐいやったけど本当か」と僕。「ああ、本当や」「タコちゃんは、高校でたらどうするねん」とナカシャ。「俺か、出来たらアニメーションの専門学校行ってアニメーターなりたいねん。」とタコちゃん。「まあ、タコちゃん絵うまいもんねぇ。でもナカシャの方が昔から上手て、賞状いっぱいもろてるやん。」

「タケちゃん、俺の事応援しやるんか、けなしやるんかどっちやねん。」とタコちゃん。「あのなぁ、俺等ちっちゃいときから友達やど。アホなこと聞くな。もちろん、けなしやるに決まったあるないか。なぁ、ナカシャ」「あたりまえん」とナカシャ。「おまえら、絶好や、もう遊んだらん。」とタコちゃん。「え、絶好なん、ナカシャ、タコちゃんもうナカシャとこへ来ておいしいカルビーバーベキュー味とファンタグレープ飲みたないんやて。」と僕。「えっ、絶好解除。これからもバーベキュー味とファンタグレープよろしくお願いいたします。ナカシャの旦那」とタコちゃん。これが、中三の受験を控えた3バカの会話である。「イサオ君は新高やて。山ちゃんは、電気関係の高校行くゆうてたよ。」と僕。「ふーん。」とナカシャとタコちゃん。と言うわけで、僕とイサオ君は新高を目指し、タコちゃんとナカシャは新商目指し初めて受験勉強という物を受験日前日までお粉ツタのである。年が明け3月の上旬に僕たちは那智中学校を無事卒業し、もちろん学生服のボタンは一つもなくなることもなく、何日か後に僕とイサオ君は、新宮高校を受験、同じ日にタコちゃんとナカシャは新商を受験した。受験日から1週間後に僕とイサオ君は、合格発表を見に行き、見事合格。たこちゃんとナカシャも合格した。この日の夜担任の先生から電話があり「あっ、きんた先生、ありがとうございます」と答えてしまった。きんた先生は「かなだです。おめでとう。」と言ってくれた。何日か後、僕たちはナカシャんちにギターやらお菓子、ジュースとか持ち寄り「僕たち合格してしまったんだもんね。あめでとうどたばた大宴会」を開催したのであります。僕たちはお利口ちゃんばかりなので、アルコールはございません。ほんまどす。というわけで、僕たち仲之町3バカトリオは、高校合格という形でバラバラになってしまうが、友情はバラバラどころかもっとと固くなり今も続いている。これで、この「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」は終わり

です。今までご愛読ありがとうございました。また、何か書きたくなれば書くかもしれません。その時までごきげんようです。  つづかない。 おわり。





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仲の町3バカトリオどたばた奮闘記 吉村 剛 @yoshee50

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