第41話 経理帳簿


 ベストセラーと言うとおこがましく、また、宣伝力の乏しい近書院にベストセラーは望むべくもないが、〈ライン川のほとりで〉は好評を博し好調な売れ行きであった。配本後、一週間も経たない内に近書院が靖子に再版契約を申し入れてきた。初版本はまだ完売されていないが、売り切れるのは時間の問題とのことだった。新聞等の、報道各紙の好意的扱いも出版社に契約を促す要因であったのだろう。

 さて、月が変わった三日目の木曜日、靖子は久し振りに京都へ帰ってきた。

「お父さんはもう大丈夫だから、お前は早く京都へ帰りなさい」

 父に言われて、渋々東京を後にしたが、やはり京都に着くと懐かしい。

「やっぱり京都は寒いわ」

 オーバーの襟を立て、震える真似をして靖子は本多の部屋のドアを開けた。今年最後の月ともなると、年の瀬と新年を迎える準備のため街はエネルギーに溢れ、商店の飾りや音楽まで活気づくが、この寒さだけは如何ともしがたいのだ。

「藤野センセイ、オ帰リナサイ」

 五時過ぎなので、部屋には小林とスハルノもいて、本多がホワイトボードの前に立っていた。

「ただいま、スハルノ君」

 靖子はにこやかに三人を見回す。やっぱりこのメンバーが一番落ち着く。

「それじゃ、僕らはこれで」

 熱い紅茶を飲み終えると、二人に気を利かせて、小林はスハルノを連れて自室へ戻って行った。

「ね、直則さん。どういう手筈でやっつけるつもりなの?」

 二人が部屋を出ると、靖子はソファーに腰を下ろして本多の顔を覗き込んだ。彼の電話で、残り三社の配本部数はすでに確認済みなのだ。三社の合計が二千八百で、印刷所と製本会社の制作部数は五千百冊だった。マスコミへの献本が二十冊、著者の靖子に三十冊送付済みなので、社内在庫は五十冊という計算だ。呆れるほど強気の配本で、それだけ売れると読んでのことであろう。

「うん。どういうやり方で行こうか少し迷っているんだ」

 靖子の本で不正は明らかになった。第一次目的は達成されたが、次のステップは重大局面が控えていて、出来れば靖子を表面に出したくない。彼女を表に出さず目的を達するには、どういう手段がベストなのか見極めが難しくて迷うのだ。

 初版三千冊分の代金が支払われた時点で、余分に刷った二千冊分について詐欺罪(刑法二四六条第二項)が成立する。だからこの時点で井埜上と深谷を詐欺罪で告訴するのが一番簡明な方法だが、これでは靖子が当事者として紛争に巻き込まれてしまう。マスコミの攻勢に晒されるのは言うに及ばず、常時裁判所に詰める羽目に陥ってしまいかねないのだ。

「迷っているって?」

「うん、詐欺罪が成立するのは問題ないんだが、こちらから仕掛けるのじゃなく、誰か別の人間が仕掛けるようにしたいんだ。それか、マスコミが口火を切るという方法もある」

「そうね、こちらから仕掛けると手間暇がかかるけど、私も今は時間がないから」

 迷いの原因が分かって、靖子も思案顔になる。

「経理帳簿が手に入ると一番いいんだがな。‥‥‥しかし、これは無い物ねだりだな」

 帳簿は深谷の管理下にあり、金庫に保管されていて部外者の入手は頗る困難なのだ。本多は全く期待していなかったが、翌日、靖子が出版社を訪れると、期待もしなかった帳簿が棚ぼたで手に入ったのだ。六時前に近書院を訪れ、契約書にサインして靖子が帰ろうとすると、

「藤野さん、―――いや藤野先生だな。一緒に帰りませんか」

 桜田がオーバーに片腕を通して、奥の部屋から出てきた。

「ええ」

 エレベーター前で微笑みながら、彼がオーバーを着終わるのを待つ。

「良かったですね、好評で」

「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」

 木枯らしが舞うビルの谷間で立ち止まり、靖子は頬を紅潮させて礼を言う。

「お急ぎじゃなかったら、コーヒーでも飲みませんか」

「ええ、そうですね」

 桜田に誘われて、先日彼と入った店へ行き、同じ場所に腰を下ろした。

「単刀直入に申し上げますけど、もし藤野さんが近書院を詐欺で訴えるんだったら、僕は反対だな。デメリットが大き過ぎるから」

「‥‥‥」

 靖子は返答に窮してしまう。現時点では迂闊な言動は控えねばならないのだ。気まずさを隠すようにコーヒーカップを持ち上げ、口に運ぼうとすると、

「これ、本多さんに渡してくれませんか。僕からだって」

 桜田はアタッシュケースから封筒を取り出した。

「はい‥‥‥」

 怪訝な仕草を浮かべ、靖子が封筒を受け取ると、

「ある本の売上帳が入ってます。もちろんコピーですけど。二重になってます、表と裏の」

 何と! 願ってもない裏帳簿が手に入ったのだ。緊張気味に開いてみると、一つは三千冊の売上帳なのに、もう一つは五千冊のそれになっていた。やはり不正は恒常的に行なわれていたのだ。

「その本も前評判が凄かったんだけど、結局三千五百部程度しか売れませんでした。もちろん著者には千五百ほどしか売れてないって伝えてますけど」

 桜田は不快を隠さなかった。彼も一昨日帳簿を見て初めて知ったのだ。

「恥ずかしい話です。疑いは持っていたんですけど、現実に帳簿を見ると、なんともやり切れませんね」

 大きなため息を一つ吐いて、桜田は口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。

「大丈夫なんですか、こんなことをされて」

「いいんです。今月一杯で辞めようと思ってますから。それに、新しい経営陣の下でやり直さなくっちゃダメですよ、近書院は。オーナーの息子じゃなく、もっとクリーンな人が経営にタッチしないと」

 桜田はサバサバと後悔がなかった。

「桜田さんがコピーしたこと、バレません?」

 桜田の身に危害が及ばないかと、靖子は不安になる。

「さあ‥‥‥」

 バレるかも知れないが、その時はその時で、覚悟は決めていた。一昨日、社長と深谷が昼食に出た隙に、彼女の机から鍵を取り出し金庫を開けたが、コピーを終えて鍵を戻すとき、営業の小沢が外回りから帰って来た。うまく取り繕ったつもりだが、怪訝な表情を浮かべていたので、コピーが公にされれば告げ口されるかも知れない。いずれにしても済んでしまったことで、くよくよしても始まらないのだ。

「それじゃ、本多さんによろしくお伝えください」

 靖子を梅田駅の改札前まで送ると、桜田は帰宅を急ぐ人込みの中へ消えて行った。


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