第40話 配本

〈ライン川のほとりで〉は、二十七日の金曜日に全国の書店に向けて発送された。待ちに待った流通段階に入ったのだ。書籍の流通については現在様々なシステムが構築されており一概には言えないのだが、最もポピュラーというか原則的なそれは以下のものだった。まず出版社が出版物を製作し、配本会社と呼ばれる取次店が全国の書店に取り次ぐ。書店の取り分は定価の二十%、取次店のそれが十~十五%。そして残りを出版社と作家が分けるのである。作家の取り分は通常十%だが、売れっ子の流行作家になると二十%以上の者もいて、まさにケース・バイ・ケースである。

〈ライン川のほとりで〉の配本日が金曜日に決められたのは、翌日の土・日を意識してのことであろう。靖子は土曜日に、東京駅の構内にあるJ書店で、自分の本を一冊購入した。新刊書コーナーに平積みされた本を持って、ドキドキしながらレジまで歩いた。

「お父さん、これ。今さっき書店で買ってきたところなのよ」

 父の病室へ入るなり、真っ先に買いたての本を差し出す。藤野は三日前に人工呼吸器が外され、六階の個室に移っていた。

「良かったですね。―――それに、綺麗な表紙」

 藤野に手渡された本を覗き込んで、筒井浩子が表紙の色彩に感心している。

「筒井さんにも一冊差し上げるつもりで取ってあるんですけど、手元になくて」

 出版社から著者用として既に何冊か送られてきてあるが、大学の自室で段ボール箱に入ったままだった。十六日に父が倒れてから、靖子は京都へ一度帰ったきりで、二週間近くをほとんど東京で過ごしてきた。講義は本多と小林が代講を引き受けてくれたので、靖子は父の付き添いに専念できたのだった。

「なかなか評判らしいね」

 パラパラとページをめくりながら、藤野は上機嫌だった。昨日見舞いに訪れた親族や友人たちも、さっそく買って読んでくれたらしく絶讃していた。

「ゆっくり読ませてもらうよ」

 すぐ疲れるのだろう、数ページ読むと、藤野は浩子に指示してベッドをフラットにした。

「そうよ、時間は一杯あるんだから、ゆっくり読んで頂戴」

 洗濯物をボックスに仕舞いながら、靖子も笑顔でうなずく。鼻歌でも歌いたいほど、今は何をしても気分がいい。今日、明日も知れぬ命と言われたのに、奇跡ともいえる父の回復ぶりなのだ。三日前、邦子が言った言葉も靖子の上機嫌の支えだった。

「お父さん。こないだ、直則さんが言ってた『十四年前の約束』って、私との結婚のことでしょう。邦子おばさんに言われて驚いちゃったわ。‥‥‥でも、娘の承諾もなしに結婚を決めてしまうなんて、法学部の教授にあるまじき行為だわ」

 靖子は笑みを湛えながら、父をにらみつけた。以前であれば、浩子のいる席でこのような話題を持ちだすことは思いも寄らなかったが、彼女にも知らせるべきではないか、今はそんな心境に変わっていた。

「えっ!? 本多先生と、ご結婚なさるんですか! 本当におめでとうございます。‥‥‥ああ! 何と申し上げてよいのか。本当に、もう―――」

 浩子は感きわまり、父の手を握って泣き崩れてしまった。

「―――ともかく私の知らない間に勝手に決められてしまったんだから、決めた張本人は最後まで見届ける義務があるんですからね」

 浩子のあまりの喜びように少し戸惑いながら、靖子は父にはこわい顔を向けて念を押したが声が笑っていた。

「それじゃ、よろしくお願いします」

 浩子に父の世話を託すと、靖子は二時前に病院を後にした。二時半に新宿で、大学時代の親友と会う約束なのに、病院で長居をしてしまって二十分近く出るのが遅れてしまった。靖子の親友は、東京に本社のある大手配本会社に勤務していて、マーケティング調査部に配属されていた。彼女に会って、靖子は自分の配本部数を尋ねるつもりなのだ。二時半過ぎにJR新宿駅改札に着くと、

「靖子。ここ、ここ!」

 親友の三村恵子はすでに来ていて、人込みの中から呼びかけたが、流行のコートを着こなし一きわ目立つ容姿だった。

「お恵、久し振り。―――何年振りかしら。でも、太ったんじゃない」

「三年振りよ。でも会う早々、ずいぶんじゃない。これでも気にしてんだから」

 三村はぷうと、ふくれっ面で靖子を睨んだ。

「ごめん、ごめん。でも、愛嬌があって、いいわよ」

「あのねぇ。それって、私が丸々太って、豚みたいだって言ってんのと同じよ! もう」

 つむじを曲げたわけでなく、おそらく会話を楽しむつもりなのだろう、三村は言葉尻を捕らえ靖子にからむが目が笑っていた。

「三年振りに会ったのに、そう怒らないでよ。でもいいわねぇ、そのコート。アカ抜けしてて。さすがね、お恵の趣味は」

 靖子はタータンチェックのカラフルなコートを褒めて、三村の機嫌を取る。

「まぁね、中身が中身だから、外だけでもいいのを身に付けないとね。―――それはそうと、靖子もすごいじゃない。まさかアンタがこんな文才の持ち主だったとは思わなかったわ。ウチの社内でも評判よ。私の親友よって言ったら、皆驚いてんの」

 人込みを並んで歩きながら、三村はアハハと白い歯を見せ愛嬌満点顔で笑った。新宿Sホテルの最上階へ上がり、ラウンジの一番奥のテーブルに向かい合って腰を下ろす。

「あのね、頼まれていたことだけど、ちょっと、おかしいのよね。初版は三千部って言ってたでしょう。それなのに、ウチが二千二百も書店に配ってるの。ほら、これ」

 三村は靖子の前にコピーを広げた。

「確かにウチは最大手だけど、関西の出版社だったら他に三社に委託するのが普通なの。でも三千引く二千二百は八百でしょう。どう考えてもおかしいわよ。ウチに二千二百で、他の三社に八百しか委託しないなんて」

「ふぅーん」

 やはり本多の推察通り、五千部刷ったようである。桜田が「少し高いんじゃないの」と不快な顔をしたのも、五千部刷る金額だったと考えると納得が行く。

「常識では考えられないけど、馬鹿なことをする出版社もあるらしいから、気を付けたほうがいいわよ。他の三社の配本状況、調べといたげようか」

「ありがとう。でも、そんな非常識なことをする出版社じゃないと思うから。もし、どうしても納得できなかったら、お恵に頼むから、その時はよろしく」

 靖子は恭しく頭を下げて、三村の注意を逸らした。今へたに騒がれてはまずいのだ。それに、他の三社の配本状況は本多が調べることになっていて彼まかせだった。


 新宿で、靖子と三村恵子が学生時代の思い出話に花を咲かせている頃、本多も学生時代の友人と大学で会っていた。

「ほんまに久し振りやな。しかし、まさかお前が関西の大学の助教授になるとは思わへんかったで」

 電話で耳にタコができるほど言ったくせに、まだ言い足りないのか、弁護士の林はドアを開けるなり同じ言葉を口にした。

「まあ、いろいろあってな」

 苦笑いを浮かべ、本多は林にソファーを勧める。

「わざわざ京都まで来てもらって済まなかったな」

「いやぁ、いっぺん京都へ出てこようと思てたんや。紅葉の嵐山でも見に。せやけど忙して、全然、時間とられへんかったんや。ちょうどエエ機会やと思て、嫁さんと子供も連れてきて、高島屋で待たしたんねん。―――そや、早う戻らな怒られるわ」

 腕時計に目をやると、林は気忙しくテーブルに書類を広げた。

「お前に頼まれてた、三社の配本状況や。これでええんやな」

「悪かったな、つまらんことを頼んで。必要経費くらい取っといてくれればいいのに」

「なに言うてんねん。藤野教授には学生時代えらい世話になったさかい、そのお返しや。先生のおかげで大学卒業できたみたいなもんや」

 司法試験の受験勉強のため、ほとんど講義に出なかったのに、藤野は文句も言わず林に必要単位を授与したのだった。

「卒業までに試験に通らなアカンかったんで、ホンマに助かったわ」

 当時を思い出して、林はしんみりとなる。

「ほんなら行くわ。あんまり待たすと嫁さんが怒りよるさかい。先生によろしく言うといてや」

 藤野のためではなく、彼の娘の本の調査のためだと何度も言ったのに、林は藤野への恩義しか頭にないらしく、恩師への伝言を本多に依頼して足早に部屋を出て行った。

「弁護士の林さんですよね」

 本多が後ろ姿を見送っていると、小林がドアを開けて廊下へ顔を出した。冤罪事件を手がけ何度も勝訴に導いているので、林は法曹界では有名なのだ。

「‥‥‥うん」

 またも藤野の人徳を思い知らされてしまった。家庭の事情で受験浪人できない林に、藤野が特に優しかったのが本多の記憶に甦ってくる。

「事件の解決、うまく行きそうですか」

 小林が小声で尋ねると、

「まあな」

 苦笑いを浮かべ、本多は意味あり気だった。


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