第37話 桜田の決意

 

 気も漫(そぞ)ろ。ここしばらくの桜田の日常は、この形容が正に言いえて妙であった。特に黒部から帰ってからは、精神の焦点がいったい奈辺に向かうのか、自分でも予測困難な落ち着きのなさだった。

「どないしたん、徹ちゃん。この頃、ちょっと可笑しいで。発情期の鹿みたいにウロウロして」

 美佐子によくからかわれる。社内ではからかう者はさすがにいないが、作業ペースが以前に較べ大幅にダウンしていた。

「編集長、何とか早う仕上げてくださいよ」

 原稿の校正が一向に捗らず、次長の仲内によく文句を言われる。

「馬鹿野郎! もうすぐ打(ぶ)っ潰れる会社の仕事なんか、まじめにやってらんねぇよ!」

と、啖呵を切るとさぞ気分爽快だろうが、大見得を切れないところが悩ましいのだ。

「一種の葛藤状況だな。やりたいことがあるんだが、足枷がはめられていて身動きが取れないんだ。だから心が逡巡して、仕事が出来るような状態じゃないんだ」

 今日も編集助手の山田に、苦笑いを浮かべながら言い訳を繰り返した。彼は桜田を尊敬していて、「編集長の下で修業して、早く立派な編集者になりたいんです」が口癖なのだ。だから、「やりたいこと」って何ですか、などと聞いたりはしない。魂を震わす原稿の校正と、優れた作品の編集に従事。それが出来る会社へ移りたいのは、助手の山田でさえ日々渇望する、そんな状況が近書院であったのだ。

「でも、藤野先生の作品は最高でしたね。読後感、と言うと変なんで、編集後感って言えばいいんでしょうか。こんな充実した気持ちは初めてです。早く作品が店頭に並ぶのが楽しみで仕方がないんです」

 桜田の向かいで熱いコーヒーを啜りながら、山田は少年のように目を輝かせた。

「どうやら、この葛藤状況の原因は、〈ライン川のほとりで〉だな‥‥‥」

 桜田はソファーにもたれてぼんやりと天井を見上げていたが、煙草を外して、紫煙とともに呟くように口から漏らした。中沢なお子に会いに行きたいし、近書院を辞めたい衝動に駆られて仕方ないが、それもこれも藤野靖子の作品に巡り会ったことが直接の原因だと思う。〈ライン川のほとりで〉が、桜田の眠っていたものをたたき起こしてしまったのだ。この出版社で今後、あれほどの作品に巡り会うことは不可能。この現実が近書院への嫌悪を増幅させ、逃避先が―――中沢なお子、ではないだろうか。

 ―――一度、東京へ行ってみるか‥‥‥。

 畑中憲子と娘の真知子への送金。これが身動きできない最大の足枷なのだ。

「‥‥‥編集長。昼休みの時間が終わりましたので、そろそろ仕事にかからないと社長と仲内さんに文句を言われますよ」

 ソファーに寝そべっていると、山田が遠慮がちに桜田を促す。

「―――うん。‥‥‥ところで山田ちゃん。新しい就職先でも探しといたほうがいいよ」

「え!?」

 きょとんと口を開けた山田に、

「ま、その時は、君の勤め先くらいは僕が紹介できるだろう」

 笑って誤魔化して、手渡された原稿に目を落としたのだった。

 野上家以外では滅多に外で酒を飲むことはなかったが、今夜は久し振りに京橋駅の赤ちょうちんで一杯引っかけ、八時過ぎに帰宅すると、

「お帰り。―――いやぁ、お酒飲んできたん? ええ色の顔して」

 いつものように、美佐子の愛嬌声がドアを開けた桜田を迎えてくれる。裕子と二人、リビングのソファーに腰掛けて、テレビの漫才に興じていた。

「さ、一緒にご飯食べよ」

 先に食べるよう電話で裕子に伝えてあったのに、桜田の帰りを待ってくれていたのだ。

「ちょっと待っててくれないか。電話をかけたいんで」

 二人に断わり二回へ上がる。普段着に着替えながら、何と切り出そうか迷ってしまう。

 ―――なるようになるさ‥‥‥。

 実際、なるようにしかならないものである。苦笑いを浮かべ、立ったまま電話のナンバーをプッシュした。

「はい、畑中です」

 二年振りに聞く娘の声だが、淡白なのか、それとも愛情が無さ過ぎるのだろうか、格別の感慨は湧かなかった。「‥‥‥あなたの性格が掴めないの」、二十年前、岡林正子に言われた言葉が甦ってくる。実は、自分でもいまだにどんな人間なのか分かっていないのだ。

「真知子ちゃんか」

 一緒に暮らしていたときに呼んだ「マーちゃん」と言おうとしたが、何か背負い込みそうな漠然とした不安感に襲われ止めてしまった。

「はい、そうですけど。どちら様ですか」

「桜田です。―――お母さんはいますか」

 パパだよ、と言おうとして、今度も止めてしまった。

「はい、代わりました」

 憲子の声を聞いても全く感慨がなかった。

「僕だけど、少しいいかな。仕事の邪魔になるんだったら、後でかけ直すけど」

「ええ、いいわ。仕事はオフィスですることにしてますから」

 以前と較べ、憲子の口調は驚くほど素直で穏やかだった。桜田が正直にこちらの事情を打ち明けると、

「わざわざ東京まで出向いてくれなくても結構です。こちらも何とか立ち行くようになりましたので、送金はお断りしようと考えていたところなんです。長い間、済みませんでした」

 案ずるより生むが易し、とはよく言ったもので、願ってもない憲子の返事だった。こちらは掃き溜めさながらの出版社勤務のままなのに、彼女は引く手あまたの売れっ子作家に変身していたのだ。この業界の不思議なところで、以前と全く変わらぬ手法とパタンで童話を書き挿絵(さしえ)を描いていても、何かの折に急に大化けしたりしてしまう。すると、これまで味噌も糞もの言いたい放題だった批評家連中が、書かれているこちらが赤面する賞讃を送り始めるのだ。憲子が良い例で、ただ、若いスタッフを三人も雇うまでとは桜田も予測の範囲外だった。

「あちらに対する対抗意識に駆られてしまったの。―――ごめんなさい」

 ようやく一緒に暮らしていたときの口調に戻った。

「―――それに、お分かりでしょう」

「‥‥‥うん」

 受話器には真知子のはしゃぐ声に混じって、男性の声が届いていた。

「幸せそうだね」

 優しくささやくと、

「ええ」

 憲子は受話器の向こうではにかんだ。

「元気でね‥‥‥」

 娘をよろしく頼むよ、と言おうとしたが、未練たらしくて止めてしまった。

 階下へ下りると、美佐子が首を長くして待っていた。

「徹ちゃん、早う、早う」

 待ち切れないのか、体を揺すって、桜田に席に着くよう急かせる。今夜の鍋料理は蟹ちりだった。

「御免、遅くなって」

 桜田が席に着くと、

「もう! さっきから蟹さんがハサミを長ごうして待ってんやから。ビールも早うから注いだんで、気抜けてしもたやんか」

 ビールを一口味わい、向かいの席から美佐子が口を尖らせる。酢橘の香りが鼻に酸っぱく、切り口が青々と瑞々しかった。

「近々、近書院を辞めようと思ってるんだ」

 蟹脚をせせりながら、桜田は美佐子を見ないでさり気無く伝えた。

「えっ! かまへんの?」

 東京への送金がすぐ頭に浮かんだのだろう、箸を動かす手を止めて桜田の顔を覗き込んだ。

「うん、さっき話がついたよ」

「そんなら、ここ、出ていくん?」

「いや、申し訳ないんだけど、もう少し置いてほしいんだ」

 ビールで赤くなった顔を下げると、美佐子と裕子は笑顔を見合わせ喜んだ。

「裕子ちゃん、もう一本、といわずもう二本、ビール出して来て」

「はい」

 いつもは美佐子の血圧を気にして渋るのに、裕子は文句も言わず笑顔で冷蔵庫へ立ち上がった。


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