第38話 海辺の家


 二十日の金曜日、桜田は午前中で仕事を切り上げ、十二時前に近書院を後にした。近書院へ勤めて初めての早退だった。祝日の二十三日を利用して、三泊四日の黒部逗留を予定していた。

「桜田さん、何か嬉しいことでもありはんの? 恋人に会いに行くような顔してはるけど」

 よほどニヤケていたのか、社を出るとき、深谷真身にからかわれてしまった。

「いやぁ、ちょっと急用だよ。それより、〈ライン川のほとりで〉は大丈夫なの? 三千部ぐらいすぐ売れそうだけど、ちゃんと体制は整ってんの?」

 銭勘定だけのセコイ奴と馬鹿にしていたのに、真身に本音を言い当てられ俺もこの程度かと思うと、桜田はムッとして靖子の本に話題を振った。お前と社長はこれで終わりだぞ! という意味がもちろん込められている。

「分かってますって、ちゃんと段取りはしてますから」

 事前調査でも各書店の評判は上々で、社内の者は皆気を良くしているが、特に社長と深谷は嬉しさを隠せないのかニヤニヤと機嫌が良かった。

「あ、そう。ちゃんと段取りね」

 真身の返事で、桜田は五千部刷ったのだと目星をつけたのだった。もちろん二千部は簿外にして自分たちが着服するつもりなのだ。

 ―――牝狐め! よく首を洗っておけ!

 と言う代わりに、

「近々びっくりするような事が起こりそうなんで、あなたも社長も頑張ってくださいよ」

 桜田は皮肉たっぷりに嫌みにダメを押したのだった。

 帰宅すると、ダイニングのテーブルに昼食が用意されてあった。今朝出掛けに黒部行きを告げたので、裕子が気を利かせたのだろう。この心遣いを娘に注いでやれば‥‥‥、ふと思ったが、自分のことを考えると正に男のエゴであった。メモ通り、グラタンとシチューをレンジに入れて温める。ご丁寧に、保温器に入った弁当とお茶まで準備してあった。

 平日だが今日は五・十日(五またはOのつく日。大阪では商店の決済日になっている)で、車の混雑が予想されたが、一般道上一部数珠繋ぎがあっただけで、名神高速は料金所を除き渋滞カ所は全くなかった。目的地が決まっていて、しかも先日走ったばかりの道の走行。運転に新鮮な緊張感が湧かず、桜田はなお子のことばかり考えてハンドルを握っていた。

 北陸自動車道に乗り換え黒部に近付くに連れ、心が陰(いん)になってくる。先程までの発揚状態の反動というか、反作用なのだろうか。あまり良いことが心に浮かんで来なくなる。本当に誰とも付き合っていないのだろうか。また来てくださいと招待してくれたが、単なる社交辞令に過ぎなかったのではないのか。好かれていると自分が勝手に思い込んでいるだけで、何の興味も持たれていないのではないだろうか‥‥‥。

 ―――恋か‥‥‥。

 恋愛はいくら繰り返しても、人を愛してしまうと男は少年の心に戻る。駆け引きの通ずる恋は、真の恋ではないのだ。

 ―――そういえば、恋はいつも初恋だったな‥‥‥。

 魚津インターを少し行ったパーキングエリアで、桜田は車を止めた。裕子の作ってくれた弁当を食べて、陰の心をせめて通常に戻したかった。

 高速を降りて彼女の家の前に着いたときは五時三十分を少し回っていた。海水浴場へ行こうかとも思ったが、沈みかけの夕陽を見ると、すでに帰っているような気がした。釣瓶落としの秋の陽―――北陸の陽にこそ相応しい形容であろう。明々と弱く眩しい残照が海に消えると、あっという間に辺りが夕闇に包まれてしまった。

「‥‥‥あのう、中沢さんはいらっしゃるでしょうか」

 車を降りて、白い息を吐きながら、桜田は店の奥に座る老婆に声をかけた。このまますぐ離れへ入って行くのは、さすがに気が引けた。

「えっ?」

 耳が遠いのであろう、老婆は「はい、はい」と耳に右手を添えて、腰を曲げよちよち歩きで乾物の商品の間を縫い、入り口へ出てくる。彼女が桜田の前に来たのと、なお子が横の細間(ほそあい)から出てくるのが同時だった。

「あっ! ‥‥‥やっぱり来てくれたんですね」

 嬉しそうにはにかむ顔が夜目にも鮮やかだった。白い頬がぱっと桜色に染まったのが、明らかに見て取れたのだ。

「どうぞ」

 なお子に促されて、彼女の後を歩いて行く。一時間前、陰に沈んだ心は嘘のように、沸き上がる自信と恋の確信に満たされ始めていた。

「食事を作っていたところなんです。何もないんですけど、食べられます?」

 玄関の手前で振り向くと、髪を掻き上げ少女のような仕草で桜田を見上げた。

「いや、食べてきましたので、構わないでください」

 玄関へ入ると、照明のせいだろうか、それとも足りないものを見つけたのだろうか、家の中のムードは先日に較べずいぶん変わっていた。

 なお子の向かいに腰を下ろして、先日と同じコーヒーを飲む。カップを抱くようにして口に運んだ。

「コーヒーがお好きなんですか」

 桜田の仕草を見て、なお子はくすっと笑った。

「父がそんな飲み方をしていたんです。―――そういえば桜田さん、父にどことなく似ています」

「本当ですか。そりゃあ光栄だな」

 なお子と共有する、しかも大きな絆が出来たようで、桜田は単純に嬉しかった。

「父が付けてくれたのは奈緒子という漢字だったんですけど、市内に同姓同名の方がいらっしゃるんです。しかも学校の先生をなさってるんで、よく間違い電話がかかってきたんです。だから平仮名のなお子に変えたんです」

 東京から帰ってしばらくの間、間違い電話に悩まされたのが平仮名に変えた理由だが、相手の人からの働きかけもあったようで、それで変えるところがなお子らしくて、桜田は微笑ましかった。ゆっくりと時の経つのも忘れ、なお子の話に耳を傾けていたが、

「そろそろ失礼しなきゃ」

 柱時計が八時を打ったのを機に、桜田は立ち上がって暇を告げた。市内のホテルに宿泊するつもりだが、あまり遅くなると泊めてもらえるか心許ない。それに田舎のことでもあり、長居はなお子に迷惑がかかる。

「ウチだったらいいんですよ。もしまだ泊まられるところが決まってないんでしたら、泊まってもらっても」

「‥‥‥いいのかな」

 本当にいいんだろうか。現実が期待を遙かに超えてしまうと、当の本人が不安を覚えてしまうのだ。それに彼女の気持ちがよく分からない。立ったまま迷っていると、

「いいんです、気になさらなくて。―――私、人の噂は気にしませんから」

 いつものはにかんだ仕草だが、瞳は毅然とした決意を述べていた。

 その夜、十二時過ぎに蒲団へ入ったものの、二人はまんじりともせず暗闇を見上げていた。よせては返す、地鳴りのような波の音を聞きながら、様々な思いが心に浮かんでは消えて行った。長い夜だった。

「チッチッチッ」

 小鳥のさえずりとともに、カーテン越しの雨戸の隙間がようやく弱々しい光りを漏らし始める。

「タッタッタッタッタッ」

 漁船のエンジンも単調な響きを奏で始め、小鳥のさえずりと共に、長い夜の終わりと力強い朝の息吹を二階の二人に伝える。

「会社を辞めようとする者が無責任かも知れないが、僕と一緒にやり直してくれないか」

 天井を見上げたまま、桜田が沈黙を破って隣の蒲団に声をかけた。

「はい」

 桜田を見つめるなお子の瞳から涙が溢れた。待っていて良かった。この人に会うために、私は黒部に生まれたのだ。まだ彼の何も知らないが、そんなことは二人にとって考慮に値しない事項で、どうでもよかった。

「きれいでしょう」

 雨戸を開けて、なお子は長い間、朝日に見入っていた。


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