第36話 家族会議


 薬が効いてきたのか、午後八時近くになって藤野が微睡(まどろ)みを見せ始めた。

「このまま小康状態が続くと思うんで、大丈夫だ。帰って少し休んだ方がいい。藤野先生は俺に任せろ」

 病状説明の後、眼鏡の奥の目で靖子を気遣い、主治医の駒田が本多に彼女を連れて帰るように言う。彼とは同じ高校で、大学も同期だった。

「そうだな。よろしく頼むよ」

 後は駒田に任せて、本多は靖子と病院を後にした。

「筒井さんが付き添ってくれているから、大丈夫だよ。少し休んでから彼女と代わればいい」

 靖子を慰めて、藤野家の門をくぐると、大勢の人たちが出迎えてくれる。皆、心配して家に詰めているのだ。

 ―――とても英さんには、叶わないな‥‥‥。

 錚々(そうそう)たる顔触れに、本多は感服させられてしまうのだ。礼と簡単な病状説明をしながら、二人は玄関へ上がり、まず応接間のドアを開けた。三十人近い人たちがいて、一斉に二人に視線を注いだ。

「どんな様子だった」

 ソファーから立ち上がって、平井安政が心配顔で近付いて来た。今し方京都から着いたとのことだった。恐縮しながら、本多と靖子が病状を皆に説明していると、キッチンから久子が茶菓子を運んで来た。

「靖子さん。あなたがしっかりしなきゃダメよ。‥‥‥それに、本多先生にも覚悟を決めてもらわないと」

 久子がきつい調子で本多の名を口にすると、

「何を馬鹿なことを言ってるんだ! 覚悟だなんて、縁起でもない! おかしなことを口走るもんじゃない!」

 安政が妻を叱りつけた。

「ごめんなさい。私ったら、そそっかしくて」

 久子がひょうきんぶって、皆を笑わせようとするが、

「分かりました」

 本多は顔を崩さずに、目で久子に決意を伝えた。すでに覚悟は決めているのだ。

「そうですよね、それでなくっちゃ。―――藤野先生もきっと良くなられますよ。さあ、靖子さん、こっちへ」

 本多に笑顔を返すと、久子は靖子の手を引いて上機嫌でキッチンへ戻って行った。

 その夜、見舞い客に一通りの挨拶を済ませると、本多は午前零時前に江東区の自宅へ帰った。祖父母にも会いたかったし、家族で話し合わねばならない難題もあったのだ。

 タクシーを降りると、長男の帰宅を待ち望むかのように広々と門が開かれ、玄関灯が明々と点っていた。久しぶりに生家の敷地を踏むと、体を包み込むように懐かしさが玉砂利から込み上げて来る。子供の頃登った槙も松も、昔のままの姿で庭園燈に映し出されていた。

「ただいま」

 玄関戸を開けると、

「お帰りなさい」

 母が黒光りする廊下の奥から、小走りにかけて来る。

「食事、まだなんでしょう」

 鞄とコートを受け取り、息子の顔を覗き込んだ。

「お帰り」

 父も右手の居間から顔を出した。

「うん」

 軽く頷くと、

「祖父(じい)さんたちは?」

 本多は両親に、祖父母の様子を尋ねた。

「あなたが帰って来るんで、まだ起きて待ってらっしゃるわ。英則さんのこともお聞きしたいって」

 本多が祖父母を「祖父さんたち」と呼んだことに、邦子は少し色をなしたが、本多は全くの無視を決め込み居間へ入る足を止めた。

「まだ起きているんだったら、話しておきたいことがあるんだ。あなたたちにも聞いてほしいんだ」

「直則さん! あなた、お父さんに向かって、何てことを!」

 息子が夫まで「あなた」と呼んだのを聞くと、邦子はもう黙っていられない。

「いいから」

 一郎は、小言を言いかけた妻を制した。

「直則にも言い分があるだろう。両親と一緒に聞こうじゃないか」

 不満顔の邦子に釘を刺すと、一郎は二人の前を黙って離れへ歩いて行く。子供の頃、あれほど大きく感じた父の背中が、今夜は何故か小さく見える。離れへ通ずる渡り廊下を歩いていると、三人の足音に気付いたのだろう、祖母の初代が離れのドアを開けた。

「直則、直則かい!」

 魂を震わす、祖母の孫を呼ぶ声だった。

「お祖母ちゃん、ただいま」

 祖母の手を取り、本多は抱きかかえるようにして居間へ運ぶ。これから、彼女にまで宣戦布告するのが辛くて遣り切れない。

「直則か! よく帰ってくれた。さ、ここへ」

 祖父に促されて、彼の横に腰を下ろす。

 ―――役者がそろったな‥‥‥。

 四人を見回して、本多は大きな溜め息を吐いた。

「英則君の具合はどうなんだ?」

 皺だらけの手で孫の手を握り、ぜーぜー喉を鳴らしながら祖父が本多の顔を覗き込んだ。

「英さんのことは後でゆっくり話すことにして、まず聞いてほしいことがあるんだ」

 祖父と三人に断わりを入れる。

「靖子と結婚しようと思うんだ、いや、結婚するつもりだ」

「―――もう、嫌ですよ。恐い顔をして、いったい何を言い出すのかと思ったら、おめでたい話じゃないですか。靖子さんなら、お母さんも大賛成ですよ。ねえ、お義母さん」

「そうですよ、そうですとも」

 祖母も皺だらけの顔をくしゃくしゃにして相槌を打つが、父と祖父は事態をよく認識しているのか、真剣な表情を崩さなかった。

「靖子は家訓に従うような女じゃない!」

 本多は非難を込めて吐き捨てた。

「お母さんも最初はそうだったんですよ。でもね、段々分かってきたんですよ。これが一番だって。それにこんな家があってもいいんじゃないかって」

「そうだよ。曽(ひい)お祖父さんの代から守られてきたもんだよ。靖子ちゃんだって、きっとそうするよ」

 案の定、邦子と初代の反論が返って来る。

「英さんが、なぜ、五十六で死の危機に瀕することになったか分からないのか! 家訓の不条理じゃないか、英さんをここまで追い込んだのは!」

 本多は二人に怒鳴りつけてしまった。

「―――直則。私やお父さんが、何の疑いも持たなかったと思っているのか。個人の尊厳と両性の平等を基本原理とする、憲法や民法解釈を展開しながら、家訓を擁護する似非(えせ)法学者と思っていたのか? もしそう思っているんだったら、少し考えが浅いぞ」

 父は祖父の反応を待ってから、ゆっくりと口を開いた。

「結局、私もお父さんも、今のお前と同じように選択を迫られた時があったんだ。家訓を擁護するか、無視するか。―――この場合、無視というのは破壊と同じといって良いだろう。そして、決めたんだ。修正を加えながらも、家訓に従おうと。確かに不条理な点がある。しかしこれはどんなものにもあるもので、完全無欠なものなんて、この世にありはしない。もちろん求めるのはいい。だが、混沌と無秩序の危機は常に覚悟せねばならないと思うんだ。無いものを求めるんだからね」

 一郎は眼鏡の奥の射るような目で、息子に念を押した。

「話が抽象的になってしまったが、結局、二者択一を迫られて、お父さんと私は家訓を選んだということなんだ。例えば‥‥‥、自分の息子に犯罪の嫌疑がかかったとする。やっていないと信じる親もいれば、やったかも知れないと思ってよく調べてから判断する親もいるだろう。しかし、私とお父さんは、やってないと信じる親を選んだんだ。人間の究極の価値選択の問題としてね。もちろんこの場合、息子が犯罪を犯していたと後日分かったときは、責任をとることは当然だよ。それを前提にして、やってない。やるはずがない、と信じる親を選んだんだ」

 北原のことがすぐ頭に浮かんで来て、本多はずるい例だと思ったが黙って聞いていた。

「だから、お前が靖子ちゃんを選んで家訓に従わないというのなら、それはそれでいいと思っている。京都へ行ったときから、あるていど予期していたことなんだ。‥‥‥お父さんも私も、男の子が一人だったからかもしれないね。もし二人いれば、違った選択をしていた可能性は否定できないだろう。学者というのは、ある意味で自由で、結構、考える人種だからね。―――幸治君とこや龍一郎君とこはそんなわけには行かないが」

 分家である英則の実家や橋本家を引き合いに出して、父は本多に理解を示したが、真の理解なのか、説得するために少し引いて見せただけなのかは、本多一郎の腹を割って中を覗かないと分からなかった。

「いずれにしても、家訓の解体は公言しない方がいい。靖子ちゃんが一族の者から集中攻撃を受けるから。正直の子孫がどれほどの数にのぼり、特に分家筋はいまだに正直祖父さんへの崇拝が強く、信仰といってよいほどなのは、お前もよく知っているだろう。静かに闘って、最後に笑うのも一つの方法ではないか。スロー・アンド・ステディ・ウインズ・ザ・レイスの諺が言うように、ゆっくり着実に、だよ。そうしないとこの、というか正直との勝負には勝てないぞ」

 アドバイスとも策謀とも取れる表現で、父は息子が提起した問題を締め括って、

「さあ、お祖父さんとお祖母さんに、孫の元気な顔を見せてやってくれよ。せっかく英さんが作ってくれた機会なんだから。靖子のお祖父さん、お祖母さんになる人たちなんだぞ」

 家族会議を、五年振りの再会を懐かしむ、ほろ苦い団欒の場に変えてしまった。


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