第35話 父危篤(きとく)
師走が近づくにつれ、新しい季節の実感が足元から湧き上がってくる。京都は特に朝夕の冷え込みが厳しく、吐く息が一段と白くなった。寒い季節の訪れを肌で感じ始める頃になると、本多の胸で小さなシミのようだった不安が急に大きく膨らみ出した。
―――英さんは本当に、この冬を越せるのだろうか‥‥‥。
先日の様子では絶望的と言わざるを得なかった。母の話しでも、今日まで命が長らえているのが不思議なくらいで、医者も驚嘆しているとのことだった。
「恐らく気力だけで持っているんでしょうけど、英則さんがこれほど強靭な精神力をお持ちだとは正直言って、お母さん、想像もできなかった。随分お辛いでしょうに、毎日、大学に出てらっしゃるのよ」
電話で藤野の近況を尋ねると、邦子は話しながら涙ぐんだ。気力の源を理解しているだけに、本多は複雑な心境だった。先日、家訓を無視して生きて行くと伝えたのも、わずかでも気力の足しになってくれればとの思いからだった。しかし、彼が最も望んでいることはとうとう口に出来なかった。
―――月末に、顔を見に寄ってみるか‥‥‥。
二十七日に仙台で学会があるが、帰路、東京で下車して様子見がてら、藤野の家を訪れてみよう。そう思って机の予定表に手を伸ばすと、ルルルルルーと、電話がベルを鳴らせた。
―――まさか!
電撃のように、胸に嫌な予感が走った。
「はい」
受話器を取ると、母からだった。
「直則さん、大変! 英則さんが倒れたの! 靖子さんは?」
取り乱していて、声も上擦っていた。
「靖子は講義中だ。―――もうすぐ戻るだろう」
自分を落ち着かせるためにも、本多はわざとゆっくり返答して、部屋の掛け時計に目を送った。十二時十分だから、間もなく靖子は戻ってくる。
「英さんの容態は?」
「意識不明なの。―――直則、英則さんはダメかも知れないよ‥‥‥」
皆の反対を押し、大講義室で特別講義の最中、倒れたらしい。
「ね、靖子さんを連れて、すぐ東京へ戻って頂戴」
一刻を争う事態で、邦子は哀願口調だった。
講義から戻った靖子に入院を告げただけなのに、顔面蒼白となり、その場に立ちすくんでしまった。
「元気だよって言う、電話の声を鵜呑みにしてきた私が馬鹿だったわ。‥‥‥で、どんな様子なの?」
「いや、俺も今、電話で聞いただけでよく分からないんだ。兎も角これからすぐ東京へ行こう」
曖昧な返事で逃げて支度を急がせた。小林にタクシーを呼んでもらい、取る物も取り敢えず京都駅へ急ぐ。着替えを取りに寄ることさえ禁じられ、靖子はようやくただならぬ事態を察知したのか、のぞみのシートに腰を下ろすと一言もしゃべらず、本多の手を握って涙ぐんでいた。
五時前に虎ノ門にある大学病院へ着くと、二階の集中治療室前で、邦子が憔悴し切った筒井浩子を慰めていた。
「あっ! 靖子さん!」
本多と靖子が目に入ると、邦子は廊下を駆け出して来た。挨拶もそこそこに、ブルーの予防着を羽織りスリッパに履き替え、二人は集中治療室へ入る。
「うー!」
呻き声を上げると、靖子は父のベッドの枠を掴んで泣き崩れてしまった。余りにも痩せ細って、見るも痛々しい父の体だった。
「‥‥‥ごめんなさい。‥‥‥お父さん、ごめんなさい」
本多に抱き起こされても、靖子は泣きながら何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
「‥‥‥」
英則は本多と靖子に何か話したいのだろうが、人工呼吸器をつけられているのでもちろんしゃべることが出来ない。二人を安心させるために無理に笑おうとするが、苦痛でゆがむ笑顔が見るも痛々しく、よけい靖子の涙をそそるのだった。
「興奮させるとお体に障りますので」
ナースに促され、本多は渋る靖子を抱きかかえるように室外へ連れ出した。
「お嬢様、済みません! 私がいるから、お帰りにならなくなったんでしょう。‥‥‥私のような者のために、先生からお嬢さんを奪ってしまって―――」
泣きじゃくる靖子に駆け寄り、筒井浩子が足元に泣き崩れた。
「‥‥‥私の方こそ御免なさい。父の世話を筒井さんに任せきりにして。済みませんでした」
ようやく気を取り直すと、靖子は本多の腕から離れ、ハンカチで涙を拭きながら足元の浩子をねぎらった。
「さ、ここじゃ何だから」
本多に促され、四人は待合室の長椅子に腰を下ろした。
「―――そうでしたか。そんなに悪かったんですか‥‥‥」
浩子から父の病状を聞かされても、靖子はもう取り乱さなかった。
「済みませんでした。先生からお嬢さんには絶対言うなと、固く口止めされてましたが、叱られてもお伝えするべきだったと悔やんでいます」
「いいんですよ、もう済んだことですから。―――それから、私のこと、靖子と呼んでください。―――ね、お願いします」
靖子は浩子の謝罪に、小さく首を振った。母のことを思うと彼女の存在を認めることにまだ少しわだかまりがあるが、父に対する深い愛は同性として認めねばなるまい。それに、もし自分が彼女の立場だったら、同じ行動を取っただろう。
「‥‥‥直則さんも、ご存じだったのね」
寂しげな瞳で、靖子が左横に座る本多を見上げると、
「いいえ、靖子さん。直則は知らなかったんですよ」
邦子が慌てて横合いから口をはさんだ。
「済まなかった。俺も結局、言いそびれてしまった」
母には悪いが、本多は正直に打ち明けた。これほど病状が進んでいると分かっていれば、もちろん伝えたのだが‥‥‥、危うく親の死に目にも会わせられないところだった。
「もう一度、父の顔を見てから帰りますから」
着替えを取りに帰る浩子に断わりを入れて、三人で面会時間待ちをしていると、一郎が廊下を急ぎ足で近づいてきた。
「あなた、北海道から直接見えられたんですか」
邦子が立ち上がって迎えるが、妻の問いには答えず、
「靖子ちゃん。気を強く持たないと駄目だよ。大丈夫さ、きっと良くなるよ」
一郎は真っ先に靖子に声をかけた。
「北海道を旅行中だったんだって?」
息子の問いに軽く頷いてから、
「で、どんな様子だ」
一郎は本多の顔を覗き込んだ。広い肩幅、厚い胸板。大学教授とは思えぬ頑丈な体躯だが、顔はまさにインテリ然として、温厚で知性に溢れている。
「だいぶ悪いよ。―――人工呼吸器をつけている」
「そうか‥‥‥」
長椅子に腰を下ろすと、一郎は腕を組んで目をつぶった。
一時間近く経ったので、再び治療室へ入る。一郎の顔を見ると、藤野は済まなそうに体を動かして礼を伝えようとするが、
「英さん、いい、いいんだ、気にしなくて」
一郎は両手を立てて、慌てて制止した。
「お父さん。今夜は私が付き添いますから」
靖子がしゃがんで、藤野の手を握りながら耳元で語りかける。
「‥‥‥英さん。後れ馳せながら、十四年前の約束を果たさせてもらうよ。長い間、待たせて済まなかった」
二人の手を本多が握り締めると、藤野の目から涙が溢れる。空いた左手を重ねようと動かすが、細い腕に点滴の注射針が痛々しかった。
靖子には〈約束〉の中身はもちろん分からないが、直感的に自分に関することだと分かった。彼女は本多にもたれながら、父と本多の手に何度も何度も頬を擦りよせていた。
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