第33話 親友の忘れ形見


 飛ぶ弓矢さながらに過ぎ去る日々。十二月に近づくに連れ、壁のカレンダーの滞留時間が加速度的に短縮の度合いを増す。四、五、六月と十、十一、十二月では後者が前者の二倍の早さではないか、そんな疑惑が湧く月に北原は亡くなってしまった。三十五日も、新たな記憶の日々が刻まれることなく、あっと言う間に過ぎ去り、十一日の水曜日にその日を迎えてしまった。本多は講義を口実に義理を欠いたが、靖子は小林に代講を頼んで供養に参列した。

「ただいま」

 五時過ぎに大学へ戻った靖子は、古賀都と一緒だった。

「どうぞ、かけて下さい」

 都にソファーを勧めて、本多も彼女の向かいに腰を下ろした。一カ月近く前に見たときに較べ、彼女は見違えるほど明るくなっていた。あの時は靖子同様、倒れんばかりに打ちひしがれていたが、今日の彼女は生き生きとして、見た目に体重も少し増えていた。

「どうぞ」

 紅茶をテーブルに並べると、靖子は都の隣に腰を下ろした。

「―――ね」

 靖子はしゃべりたくてうずうずしている。都が苦笑いを浮かべ、お手上げとばかり呆れた仕草で同意を与えると、

「直則さん。古賀さん、妊娠しているんですって!」

 靖子はテーブルに身を乗り出し、こぼれる笑顔を本多に向けた。

「ほう!」

 本多も自然と顔がほころぶ。部屋へ入って来たときに感じた、不快な気分が吹き飛んでしまった。いかにも幸福そうでしっとりと満ち足りた都に、本多は北原への背信を嗅いだが、早とちりであった。

「北原は知っていたんですか」

 知らずに逝ったのであれば悔いが残るし、知っていたのなら無責任だ。

「実は私も知らなかったんです。だから、あの人は尚のこと知らなかったと思います。―――亡くなる一カ月ほどの間、本当に色々あったでしょう。やっと落ち着いて一息つくと、そういえばあるべきものが無いなって。病院で見てもらうと三カ月でした」

 靖子にも聞かれたのか、都は彼女と目を合わせ、屈託なく笑って本多の疑問を解消したのだった。

「北原さんの御両親にまだ話してらっしゃらないのよ。私は話すべきだと思うんだけど」

 笑いながら横目で都を睨み付けて、靖子が本多にふくれっ面を向けると、

「でもあの人のお母さん、何だか話しにくいでしょう。きっと怒り出すわよ」

 都は話したくないのか、靖子の膝に右手を置いて笑いながら彼女の抗議をはぐらかした。

「いや、北原のお母さんは決して怒らないと思いますよ」

 むしろ喜ぶだろうが、都の気持ちが分かるだけに本多は軽い弁明だけにとどめた。

 ―――それにしても‥‥‥。

 本当に北原は知らなかったのだろうか。本多も千津とのことで経験があるが、避妊には細心の注意を払ってきた。恐らく北原も同じだろう。先程の都の口振りから、彼女が妊娠を知らなかったのは偽りでないと分かるが、北原も同じと言われると本多は少々合点が行かなかった。〈ばんカラ浪速ポルノ作家〉の異名をとる男で、こと女体に関しては楠岡も舌を巻く感知能力を持っていたのだ。

 ―――もっとも、あの状況では無理がなかったのか‥‥‥。

 腑に落ちない疑問点を、本多が苦笑いを浮かべ否定したのに、靖子が呼び戻してしまった。

「でも北原さんもひどいわ。婚姻届に印を押しておきながら、届けなかったんだから」

「えっ! 北原は婚姻届を作成していたのか?」

 本多がテーブルに身を乗り出した。

「私が悪いんです。冗談と思って、出さなかったんだから。自殺する前の日に電話があったときも、『もう出したわよ』って、嘘をついたんです」

 本多と靖子を見回し、都が北原をかばう。

「でも、北原さんが自分で出すべきだわ。もしそうしていれば、お腹の赤ちゃんは嫡出子の身分を取得できたのに‥‥‥」

 靖子の言うように、死ぬ前に婚姻届さえ出しておれば子供は嫡出子となる。しかし出さなかったのだから、私生児として扱われる。死後認知の方法もあるが、手続きが面倒で、たとえ認知が得られても非嫡出子であることに変わりなかった。都は責任を持って育てるつもりだろうが、最近は低くなったとはいえ生まれてくる子のハンディを考えると、靖子は北原に文句の一つも言いたいのだろう。

「ね、直則さん。何とかならないのかしら。北原さんも、『困ったことがあれば、本多に相談したらいい』って、都さんに言ってたらしいから」

「えっ! 俺に相談しろって。‥‥‥北原の奴め!」

 本多は苦笑いを浮かべ、天上の北原を睨み付けた。妊娠を知っていた可能性が再浮上したが、死人に口なしで真実は闇の中だった。

「何とかならないこともないが、法学部の先生に法を破ることは教えられないな」

 北原の遺言とあらば、本多は彼の頼みを聴いてやらねばなるまいが、靖子の質問は苦笑いを浮かべ煙に巻いてしまった。

「もう! また、いつものように私を除け者にするつもりなのね。自分だって法学部の教師をしているくせに」

 靖子はぷぅとふくれたが、目は怒っていなかった。

「古賀さん、私に考えがありますから、婚姻届を持っているんだったら渡してくれませんか」

 本多は都から署名入りの婚姻届を受け取り、自分の講義鞄の書類入れに仕舞い込んだ。

 以前、確か二年近く前だったが、仁美から頼まれてよく似た仕事をしたことがある。その時も依頼人は女性だった。彼女の内縁の夫が莫大な財産を残して死亡したが、相続人は仲の悪かった弟一人だけだった。

「直さん。知絵ちゃんは旦那さんの看病に一生懸命やったさかい、婚姻届を出すの忘れたんえ。そやのに、バーのホステスやゆうて難癖つけられたら可哀相やんか。法律上、なんも相続権がないなんて、あんましや」

 仁美が一番熱心だったのを覚えているが、あの時は、小林の友人で公務員をしている田中が快く引き受けてくれた。死ぬ前に婚姻届を受け取ったのに、手続きを失念してしまったことにして、死亡前の届け出を認めてもらったのだった。今回も田中に頼むというわけには行かないが、前回と異なり不満を漏らす相続人は考えられず、前回ほど法的なトラブルは表面化しないだろう。被相続人たる北原の両親に至っては、諸手を挙げて賛成する。本多は確信していた。

「さ、この話はこれくらいにして、今夜は皆で温かい京料理でも味わおう」

 北原の忘れ形見に七カ月後に会えるのだ。都との親睦と前祝いを兼ね、本多は小林とスハルノも誘って夕闇迫る京の街へ繰り出したのだった。


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