第32話 黒部の人


 正子の車を金沢駅のモータープールに預けたまま宇奈月へ行くわけにもいかず、桜田と彼女はとりあえず黒部の海岸から金沢へ戻った。途中、富山で降りて食事を取ったので、金沢に着いたときは七時を回っていた。

「今夜は金沢に泊まることにしたよ」

 これから高速に乗るのは、さすがに億劫だった。新しく駅裏にオープンしたホテルのラウンジで、コーヒーを飲みながら正子に伝えた。

「部屋は八四二号だから」

 別れ際、部屋のナンバーを教えたが、正子は訪れなかった。九分九厘来ないと思っていたし自分もそれを望んでいたが、零時前に正子の断わり電話を聞くと、何故かこちらが損をしたような感覚に陥ってしまう。気分直しに人影まばらな深夜の街へ出て、駅前通りの小料理屋の縄のれんをくぐった。五十年配の、寡黙な店主の斜め左前カウンター席で、黙って人肌の地酒を口に運び、新鮮な蟹と烏賊(いか)料理を味わう。料理も酒も、ほろ苦い金沢の夜だった。

 翌朝、七時過ぎに目を覚ましたが、桜田はベッドに留まって、腕枕でぼんやりと天井を眺めていた。近書院を辞めるのはすでに決めてあるが、それから先の明確なビジョンが浮かんでこない。正子とこの先一緒に―――という淡い期待無きにしも非ずであったのは、昨夜の苦い感覚の余韻が物語っていた。いずれにしても、心奥に潜んでいた淡い期待は、儚くも崩れ去ってしまった。

 もう少しベッドに留まっていたかったが、掃除機の音と女性の話し声に急かされ、部屋を出て一階のフロントへ下りる。チェックアウトを済ませホテルの駐車場を出たのは十時前だった。ロビー奥の喫茶コーナーへ入ろうかとも思ったが、正子から電話がかかってきそうな気がして、煩わしさも手伝い早くホテルを出たかった。

 高速の混雑は秋晴れの日曜でもあり当然予測の範囲内で、桜田はすぐ大阪へ向かうつもりだった。しかし金沢西インターに近づくにつれ、黒部の海岸をもう一度訪れてみたいという感情が抑えがたく湧き上がってきて、結局、米原と反対方向の北陸自動車道に乗ってしまった。

 昨日と同じ場所に車を止めて、浜辺へ向かう。昨日と違って、今日はまばらだが浜辺に人影があった。

「ほぅ‥‥‥」

 潮の匂いをかぎながら、桜田はまるで少年のような胸の高鳴りを覚えていた。昨日と同じ場所に、同じ姿で彼女は座っていた。昨日と同じ服を着て、まるでずっとここにいたかのように腰を下ろし、海の彼方を見つめていた。

 サラサラと靴の先に巻きつく砂を踏んで、彼女の後ろまでゆっくりと歩く。心にいろんなことが浮かんできて、驚くほど時間が長く感じられる。

 ―――なぜ、じっと海を見つめているのだろう。

 夫が漁師で、彼の帰りを待っているのだろうか? それとも、恋人を海で亡くしたのだろうか? 

 しばらく黙って、風に揺れる髪と白いうなじを見つめていると、桜田の視線に気付いたのか、彼女はゆっくりと振り向いた。目に涙が溢れていた。

「あっ!」

 小さな驚きの声を上げて、慌ててポケットからハンカチを取り出そうとする。

「済みません、驚かせて」

 ドキドキしながらも、桜田の足は彼女の真後ろへ近づいていた。

「可笑しいでしょう、海を見て泣いてるなんて」

 ハンカチを目に当てて、彼女は無理に笑顔を作ろうとする。富山弁だろうか、言葉に少し訛りがあった。

「いいえ。―――でも、昨日もここにいらっしゃいましたね」

「はい」

 彼女は立ち上がると、

「お宅も、―――でも、今日は昨日の綺麗な方と一緒じゃないんですか」

 桜田を見て、ようやく遠慮がちな笑みを浮かべた。問う者によっては嫌みに聞こえかねないが、彼女が言うと素朴で嫌みがなかった。結構背が高くて、一七Oセンチそこそこの桜田とは一Oセンチも違わない。

「ええ、振られちゃいました」

 苦笑いを浮かべて、桜田は軽口をたたいた。

「恋人なんですか」

「ええ、昔の」

「いいですね。私なんか、一度も恋愛経験が無いから」

 一度も恋愛経験が無いという意味がよく分からないが、おそらく激しい恋をしたことが無いという意味だろう。どうやら、独身のようである。

「私、桜田といいます」

 場違いな気がしたが、桜田はポケットから名刺を取り出した。少しというより、かなり上がっている。

「言葉使いから東京の人だと思っていたんですが、大阪にお勤めなんですね」

 名刺をのぞき込んでいたが、

「済みません、自分の名前を言うのを忘れて。―――中沢なお子といいます」

 ようやく自分の名前を口にした。

「富山の方ですか」

「‥‥‥ええ、言葉の訛りが抜けなくて。去年まで東京にいたんですよ」

 気にしているのか、なお子は目と口元に恥ずかしそうな仕草を浮かべた。

 ザーと小さく響く、心地よい波の音と潮の香り。それに何よりも、なお子の純朴でけれんみの無い性格や話し口調が、桜田には新鮮で心が洗われるようだった。東京での生活を遠慮がちに尋ねると、

「‥‥‥色んなことをしました。OLや塾の先生、それにセールスも」

 あまりしゃべりたくないのか、なお子はそれ以上詳しく述べなかった。

「もうお昼どきなんですね。時計を持ってないから」

 はしゃぎ声に呼ばれるように、波打ち際でランチを広げる家族連れを振り返って、なお子は微笑みを浮かべた。桜田が黙って相槌を打つと、

「よろしかったら、家へ寄られませんか。この近くですから」

 遠慮がちな笑顔で振り返ると、桜田を見上げてはにかんだ。

「いやあ、いいのかな」

 警戒心の欠片(かけら)もない招待に、桜田は構えてしまった。初めての女性にそこまでの自惚れはないとの、実はこれも自惚れだが、後悔先に立たずで後の祭りであった。

「そうですよね。可笑しいですよね」

 なお子も微笑みの中に後悔を浮かべると、

「いえ、伺わせて下さい」

 桜田は慌てて前言を翻したのだった。

 彼女の家は夏の海水浴場から一キロも離れていないところにあって、海岸通りに面した商家だった。もっとも乾物店は昨年母が亡くなってからは老夫婦に貸しているとのことで、なお子は店の裏にある二階建の離れに住んでいた。

「こんにちは」

 すでに八十近い、腰の曲がった老夫婦に挨拶して、なお子の後から離れへ通ずる倉庫と商店の細間を歩いて行く。

「どうぞ、入って下さい」

 離れのガラス戸を開けると、白い長靴とピンクのサンダルが上がり口に並んでいた。部屋数は少なくて、一階は二間、二階は三間だろう。六畳間の奥に三畳あまりの板の間があり、テーブルと椅子が二脚向かい合わせに置いてあった。テーブルに飾られた白いコスモスがぽつんと一輪、可憐で寂しげだった。

 玄関へ足を一歩踏み入れて、桜田は形容しがたい透明感に包まれてしまった。まるで何かを渇望するような部屋だった。質素で小綺麗に片付けられているが、何かが足りないのだ。恐らくなお子の心を写しているのであろう。

 椅子に腰を下ろして、彼女の入れてくれたコーヒーを口に運ぶ。小さなテーブルに向かい合って座っていると、桜田は何とも安らいだ気分に浸れるのだ。

「天と地が創造されたままの姿でしょう」

 ガラス越しに原野とそれに続く海を見つめて、なお子がしんみりと呟いた。庭ではコスモスが風に揺れ、枯れかけの赤茶けた向日葵が種をまばらに留めていた。

「二階の窓から見える山際が、とても綺麗なんですよ。朝日に映えて。朝、お日様が上るのが楽しみなんです」

 現代人が忘れ去った純真な心。桜田はなお子に強く魅了されながら、藤野靖子の魅力がその容姿や教養だけでなく、彼女の根源に潜むものであることを理解したのだった。

「大学を卒業してから、これまでずっと苦しいことばかりで‥‥‥、黒部の自然だけが心の支えなんです」

 〈ローレライ〉に言う〈君〉と黒部の自然。向日葵と月見草に対置できる二人の女性だが、桜田はなお子の言葉に新鮮な驚きと強い感動を覚えていた。

「‥‥‥可笑しいですね、こんなこと誰にも話したことがないのに―――」

 自分を見つめる桜田の顔から彼の思いを感じ取ったのだろうか、なお子はテーブルに視線を落として辛かった過去を話し始めた。金沢の大学を卒業して地元の工業高校へ赴任したものの、自信をなくし一年で退職したこと。男子生徒の自殺が今も心に重くのしかかっていること。やり直そうと決意して東京へ出たが、人間関係に悩んで苦しんだこと。母が自分のたった一人の理解者だったのに、彼女の死に目にもあえなかったこと‥‥‥。

「聖書の言葉が全部本当だったら、私はこんなにも苦しまなくていいと思うんですが‥‥‥。でもこんなことを考えること自体、ダメなんでしょうね」

 辛い日々を思い出して、なお子は目を伏せて下唇を噛んだ。

「僕も色々あったけど、‥‥‥でもこれから、いいこともありますよ」

 桜田は言葉を控え、目の前のなお子に微笑みかけた。初めて会話を交わした女性に、

「一緒に人生をやり直しませんか」

 とは、いくらなんでも口に出来なかった。

「近いうちに必ず、伺いますから」

 海岸まで見送りに出たなお子に別れを告げ、桜田は秋晴れの北陸道を帰路についたのだった。


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