第31話 苦い再会
靖子と梅田でコーヒーを飲んだ二日後の土曜日、桜田は今後の身の振り方を決める示唆が与えられればという淡い期待にも駆られ、兼六園の紅葉まぶしい金沢へのドライブ予定を立てた。精神的には無頼といって良いこれまでの人生だったが、その原点を共有した女性に会いに行く決意をしたのだ。靖子に出会わなければ死ぬまで会うことはなかったが、彼女によって、心奥に沈めたはずの過去が騒(ざわ)めき始めたのだった。
「美佐ちゃん。土、日の二日間、車を借りられないかな?」
金曜の夜、夕食の席で美佐子に車の使用を申し込むと、
「なんやの、殊勝な顔して。ウチは乗らへんさかい、徹ちゃんの自由にしたらええて、いっつも言うてるやんか。‥‥‥ところで、二日間も、どこ行くん?」
快諾したものの、美佐子は行き先が気になる。
「金沢へ行ってこようと思ってるんだ」
「さては、晩秋の能登半島を、大学の女先生と回るつもりやな」
「いやぁ、そんないいもんじゃないよ」
桜田は箸を置いて頭を掻いた。藤野靖子と能登旅行が出来るなら最高の旅情が味わえると思うが、現実はそんなに甘くはないのだ。それどころか、彼女の背後にいる人物によって、桜田は職を失うことを覚悟せねばならなかった。
―――本多という人物が動いているんだったら、近書院はもう終わりだな。
一昨日、JR大阪駅のコンコースで、改札へ歩く靖子の後ろ姿を見送りながら、桜田は覚悟を決めたのだった。社長と深谷の不正に、これまで全く気付かなかったと言えば嘘になるが、無関心でいようと決めてきた。かかずらいたくなかったのだ。安い給料で扱(こ)き使われ、文学とは程遠い原稿を読まされた挙句、正義感の発現まで要求されたのでは、それこそ堪ったものではないのだ。
もっとも、詐欺まがいの商法が、桜田のプライドを著しく傷つけてきたのも事実であった。同人誌から少し有望な新人を見つけては、「本を出してはどうですか。きっと売れる本を出しますから」と、次長の仲内が悪魔さながらの囁きを漏らしては、高額の金を出させ売れない本を出版してきたのだ。社内では公知の事実で、この手法による出版で売れた本は皆無であった。これだけでも良識を疑いたくなるが、発行部数まで誤魔化し作者からくすね取っているのが事実なら、立派な犯罪行為で、桜田は呆れてものが言えなかった。
不正の噂は、近書院へ勤め出してすぐ北原から知らされた。
「桜田さん、社長と深谷は無茶苦茶なことしてるらしいで。こないだ本を出した若宮っちゅう新人に、帳簿見せろ言われて、えらい剣幕で詰め寄られてたんやて」
親類縁者に頼み込んで千部あまり購入してもらったのに、社長と深谷は三十五冊しか売れてないと言い張ったというのだ。
「どうやら、不正は恒常的に行なわれてきたようやな。俺の本も摘み食いされてると思うと、頭にくるで。法学部の助教授してる親友の本多に相談したら、詐欺罪で告訴したらどうや言うねん。真剣に考えとこ思てんねん」
その後も何度か本多の名を聞かされたが、あの時が最初だったと思う。藤野靖子に本多の名前を確認したのは単なる思いつきに過ぎなかったが、彼女が頷いたのを見て、桜田の頭に真っ先に浮かんだのは、北原が漏らした〈刑事告訴〉だった。親友の弔いのためなのか理由は定かではないが、本多は社長と深谷を詐欺罪で告訴するつもりだろう。そうでなければ、あれだけの作品を近書院から出す理由が、桜田には思いつかなかった。
本多の読み通り、桜田は彼の計画を社長に知らせる気は毛頭なかった。むしろこんなダーティな出版社は、一日も早く消滅したほうが正に世のため人のためなのだ。作家志望の、哀れな被害者の出現を阻止するためにも、それが最良の策であろう。
「徹ちゃん。大学の女先生と一緒に行かへんのやったら、いったい誰と行くん?」
美佐子は、桜田が誰かと一緒に行くと決めてかかっている。
「残念ながら、一人旅だよ」
会う女性は金沢在住で、夫とそこで病院経営をする、女医の岡林正子だった。今後が吉と出るか凶と出るか、彼女に会えば筋道が見えそうな、そんな漠然とした予感が湧いてくるのだ。
出版社勤務―――どことなく通常の会社勤めと違う響きが漂うが、以前ほどでないにしても、そこに働く者は多少なりとも変わった経歴を持つ者が多かった。が、中でも桜田のそれは異彩を放つものであった。新聞社の部長職を棒に振った過去。これだけでも立派な変わり種だが、大学五回生のとき、有名国立大医学部学生の身分も失っていた。
文芸部に入り、同人誌の主宰者になって医学に興味を無くしてしまったこともあるが、身分喪失の直接の引き金は岡林正子との結婚を彼女の父に反対されたことだった。なぜそこまで追い詰められたのか今もって理解に苦しむが、最終的には心中を決意し、兼六園近くの旅館に投宿して薬と遺書まで準備する念の入りようだった。しかし、極限状況に至ってさえ、死を観念的にしか、というより観念的に捕らえようとする桜田の気取りに気付いて正子が離れて行った。今日決行という朝、目を覚ますと彼女はおらず、
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。私は父の所へ帰ります」
枕元に走り書きの便箋が裸のまま置かれてあった。
正子に去られ、言い表わしようのない挫折感と、なぜか強い自己不信が残った。無力感に苛まれ死ぬことも出来ず、全くの抜け殻同然の身に授業料滞納による放校処分が追い討ちをかけた。もし、文芸部先輩のコネによる、新聞社への縁故入社がなければ桜田は確実に朽ち果てていただろう。結局、拾った命といってよいが、今後の人生を見つめ直すためにも、当時と違う余裕のある目で正子を眺めたかった。
六時にセットした目覚ましに起こされ階下へ下りて行くと、ダイニングのテーブルには朝食が整っていた。
「おはようございます」
裕子が、パジャマ姿の桜田にキッチンから声をかける。
「おはよう。青山さん、いつも済まないねぇ」
礼を言って、バスルームの隣の洗面へ入り髭を剃る。裕子の作ってくれた弁当を車に積んで、自宅―――のような野上家を出たのが七時三分前。桜田は近畿自動車道を抜け、名神高速へハンドルを切った。土曜日だが、さすがにこの時間帯は車が空いていて気持ち良く走れる。米原で北陸自動車道へ入る頃にはようやく日差しも勢いを増し、ハンドルを持つ手にうっすらと汗がにじむ。正に秋晴れといってよい快晴の中で、山の紅葉が目に鮮やかに映し出されていた。車窓の自然をゆっくりと味わいながら、桜田は正午過ぎに金沢に着いた。
駅前のモータープールへ車を入れ、駅ビル構内の喫茶店に入ると、正子が奥のカウンターでコーヒーを飲んでいた。
「‥‥‥ご無沙汰。―――まさか金沢まで来てくれるとは思わなかったわ」
少しはにかみながら、立ち上がって桜田を迎える。二十数年前と同じく色白で端正な面立ちだが、やはり年は隠せない。厚めの化粧と濃いルージュ、ネイルエナメルまで逆効果だった。一七Oセンチ近い背の高さは相変わらずで、桜田と向かい合うと目が平行の位置にあるが、スラリとした長身は当時に較べ二回りほど肥えていた。
「いや、僕もまさか君が手紙をくれるとは思わなかったよ」
ブレザーを脱いで、桜田は彼女の右横に腰を下ろした。
「いいかな」
煙草を断ろうとするが、その前に彼女がバッグから煙草を取り出し口にくわえた。
「いいのかな、病院は市内なんだろ? こんなところで昔の恋人に会っても」
「いいわよ、気にしなくて。主人の浮気は有名なんだから、私だって浮いた噂の一つや二つくらい立てても。‥‥‥それに、あなたがその気だったら、私、本気で主人と別れてもいいと思ってるんだから」
フーッと煙を吐いてから、正子は桜田を見て意味あり気に笑った。あながち冗談とも思えないのは、桜田の反応を窺う彼女の目を見れば分かる。
「‥‥‥二人にとって思い出の、兼六園へでも行きましょうか」
コーヒーを飲み終えると、正子が立ち上がって誘った。彼女の真っ赤なスポーツカーに乗ってお目当ての庭園近くまで行ったものの、駐車場の満車表示と道にまで溢れんばかりの観光客を目の当りにすると、とても待つ気になれなかった。
「ドライブでもしましょう。その方がゆっくり話せるから」
まるで独り言のようにつぶやくと、正子はハンドルを右に切って先程までいた駅へ向かう。
「どこへ行くつもりなんだ?」
「高速へ入って、黒部まで走りましょう。あなたさえよければ、今夜、宇奈月に泊まってもいいんだから」
話の中身は大胆だが、正子は信号待ちで止まってさり気無かった。この四月に舞い込んだ手紙で、夫婦生活は破綻の域だと書いてあったが、あながち誇張ではなかったようだ。
「宇奈月で泊まるにしても、車は僕のに乗り換えていこう」
このスポーツカーは桜田の趣味ではないし、彼女の運転は危なっかしくて不安だった。
「まだ命が惜しいのね」
「惜しくはないけど、情緒不安定な女性と事故死ってのは、御免こうむりたいよ」
苦笑しながら、助手席から精一杯の負け惜しみを言う。駐車場で車を乗り換え、桜田の運転で金沢東インターから高速へ入った。
「四十を過ぎると、女には色々、迷いが出て来るのよね。不惑っていうの、あれは嘘ね」
ぼんやりと車窓の景色を眺めながら、正子がつぶやくように口を開いた。付き合いたくない話題に無視を決め込み、桜田は聞こえない振りをしてウインカーを出し前の車を追い越す。
「私って、子供が出来ないでしょ。―――子供がほしいって、旦那が外で子供を作ってるの」
無視へのしっぺ返しか、正子は唐突に子供の話題を持ち出し、運転席を見つめた。「主人」が「旦那」に変わったが、正子の唇が少しゆがんでいた。
「‥‥‥済まない」
子供の話しをされると謝らないわけに行かない。
「そんなつもりで言ったんじゃないのよ。―――でも辛いのよね、あのとき産んどいたらって、最近よく思うの」
「‥‥‥」
こんな話を聞きに、わざわざ金沢くんだりまで来てしまったのかと思うと、自分の甘さにうんざりしてしまう。桜田が仏頂面を浮かべたので、正子は度が過ぎたと思ったのか、
「ね、最近は食べることしか楽しみがないの。だから、見て」
機嫌を取ろうと、彼女はシートベルトの上からピンクのワンピースの腹部に手を当てた。
「‥‥‥そうかな」
確かに若い頃とは較ぶべくもないが、中年女性としてはまだまだ誇れるほうで、皮下脂肪がそれほど目立つわけではなかった。会話が途切れたままハンドルを握っていると、まもなく黒部インターの表示が目に入ってくる。
「降りるよ」
助手席に声をかけると、正子は目に涙を溜めていた。左ハンドルなので彼女に支払ってもらい、黙って料金所を通過する。
「海を見ようか」
気まずい沈黙を破るために声をかけるが、今度も返事はなかった。一般道を少し下がって、右へ折れ、宇奈月と反対方向へ向かう。二十分も走ると海岸沿いの狭い道路に行き当たった。桜田はハンドルを右に切って、人気のない海水浴場の駐車場へ車を止めた。
「降りよう」
正子を促して、浜辺まで並んで歩く。夏の盛りは富山や金沢からの海水浴客も集め賑わっていたのだろうが、秋の海辺はさすがに寂しく人影は見えない。ただ剥き出しのシャワー設備が寂寥を誘うだけだった。
「さあ、かけろよ」
砂浜にコートを敷いて、正子に勧める。潮風に吹かれながら、打ち寄せる荒波をぼんやり眺めていると、
「‥‥‥ね、あの人。じっと海を見つめているけど、何を考えているのかしら」
正子が桜田にもたれ肩に頭を乗せたまま、ようやく口を開いた。
「うん?」
彼女の指の先を追って行くと、ひょろっと半ば枯れた草木の陰に隠れて、先客が一人、波打ち際に坐っていた。茶色のヤッケにブルーのジーンズがよく似合う。緩いパーマの髪を潮風になびかせ、膝を抱いて海を見つめる横顔が寂しかった。二人に気付いて小さく会釈したが、濃い眉の下の憂いを含んだ瞳は、藤野靖子のそれとどことなく似ていた。三十過ぎ―――女性が新たな転機を迎える年頃で、既に過ぎ去った身にはふっと引き込まれる羨ましい色香が漂う。
「‥‥‥綺麗な人ね。特に磨かれる前の、素朴な原石の輝きは、まさにあなた好みで堪らないでしょう」
桜田が見とれていると、正子が皮肉を込めてからかう。
「そうだな」
正直に頷きたくない場面だったが、それを許さない元女性文芸部員の分析と、対象の持つ、秘められたる魅力であった。
「―――もう、帰りましょう」
ワンピースの襟を立て、しばらく桜田の胸に顔を埋めていたが、彼の注意がよそに行っているので面白くないのか、正子が先に立ち上がった。海が夕陽に赤く染まり始めたというのに、浜辺の女性は波の彼方を見つめたまま、サンダルの足が濡れ出しても腰を上げる気配がなかった。
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