第30話 北原雄治は、我が先輩
「藤野さん、―――いや、藤野先生とお呼びしなきゃいけないのかな」
社員に別れを告げ、靖子が近書院を出ようとすると、編集長室のドアを開けて桜田が呼び止めた。神戸市中央区にある女子大へ講義に来たついでに大阪で下車して、略歴の記載を手渡し出版費用の残金を支払いに寄っただけなのだ。桜田にこれといった格別の用件もないので彼に挨拶せずに帰るつもりだったが、誰かが知らせたのだろう。
「藤野さんで結構ですわ」
受付カウンター横で、靖子が笑顔を浮かべて、小走りに近付く桜田を待つ。
「それじゃ、藤野さん。僕も帰るところですから、少しお茶でも付き合って戴けませんか」
「ええ、いいですわ」
靖子も一度、彼とゆっくり話してみたかったのだ。エレベーターの前で待っていると、
「済みません。お待たせしちゃって」
くわえ煙草のまま、コートに腕を通しながら、桜田が急ぎ足で近書院から出てきた。誰の見立てか分からないが、グレーのスーツに臙脂のネクタイ、それに、淡いカーキ色コートの着こなしが見事だった。
「京都へはJRですか、それとも阪急ですか」
エレベーター横の灰皿で煙草を揉み消しながら、振り向いて靖子を見上げた。
「阪急です」
「そうですか。それじゃ、梅田駅近くの店がいいでしょう」
開いたエレベーターには誰も乗っておらず、二人だけで一階まで降りる。わずか数秒間なのに、靖子は自分でも可笑しいくらいドキドキしてしまった。
ビルの外へ出ると、淡い夕闇が立ち込めていて、街路灯がオレンジ色に輝いていた。桜田の右に並んで黄昏の並木道を歩きながら、靖子はぎゅっと唇を噛んで目を伏せた。この時刻に桜田と並んでこの道を歩くと、北原を思い出さずにはいられないのだ。彼とこの付近を歩いたのは、ほんの一カ月前のことだったのに‥‥‥。
―――話したいことが一杯あったのに。
運命の儚さを思うと悲しくて、靖子は目頭がにじんでしまう。
「どうなさったんです? ―――さては、〈ローレライ〉に出てくる、〈君〉のことでも考えられてんのかな」
スクランブル交差点を渡りながら、ウェットなムードを晴らす意味も込め、桜田が軽口をたたいた。〈ローレライ〉の原稿を通し、靖子の本多への思いは痛いほど読む者に伝わってくるのだ。
「いいえ、その人のことじゃなくて、その人の親友のことを考えていましたの」
靖子は寂しげな笑顔を浮かべ、桜田に〈君〉の存在を素直に認めた。
「‥‥‥そうですか」
原稿だけの世界であればと願っていたのに、隠し立てする気配もなく素直に打ち明けられるとやはり応える。
「桜田さんは、奥さんは?」
今度は靖子が聞く番であった。阪神百貨店前を歩きながら、気落ちした仕草の桜田を見上げて微笑んだ。
「こっちへ来るとき、離婚しちゃいましたから。‥‥‥もう結婚はコリゴリです」
離婚時のゴタゴタが脳裏に甦り、桜田は顔をしかめた。
「同じことをおっしゃってた人を知ってますわ。好き放題の生き方をして、さんざん女性を泣かして‥‥‥、でも、なぜか憎めないの」
北原と都を思い浮かべ、靖子はしんみりとなる。
「それで、彼は今も独身で?」
「いいえ、亡くなりましたわ。ほんの一カ月前。自ら命を絶ちましたの」
「えっ! ‥‥‥ひょっとして、その人は雄ちゃん、―――いや、北原さんじゃないですか?」
桜田は人込みの中で立ち止まった。
「ええ」
靖子も立ち止まると、桜田を見ないで俯いてしまった。
「やはりお知り合いだったんですね」
「ええ、クラブの先輩でしたわ」
本多に釘を刺されたこともあり、靖子は桜田にこれ以上は話せない。
「そうですか、やはりお知り合いだったんですか。同じ大学を卒業されているので、ひょっとしたら知っているんじゃないかと思ってたんですが、同じクラブだったんですね‥‥‥」
靖子と北原がクラブの後輩・先輩と知って、桜田は驚くほど神妙になってしまった。何か考えているふうで、駅ビル十七階にあるラウンジに着くまで、彼は一言もしゃべらなかった。
大阪の街が一望できるラウンジ奥の、褐色のガラス窓横に二人は腰を下ろした。桜田は運ばれてきたコーヒーをゆっくりと味わっていたが、
「本多さん、ご存じですね。北原さんの親友の」
不意に本多の名前を出して、目の前の靖子を見つめた。
「‥‥‥ええ」
真剣な目で見つめられて、靖子は嘘をつけなかった。
「藤野さんが近畿文学書院から本を出すのは、本多さんの指示なんですね」
「‥‥‥ええ」
今度も、靖子は頷くしかなかった。
「そうですか」
靖子の返事に、桜田はフゥーッと大きく息を吐いて目を閉じてしまった。
―――私たちのしようとしていることを知られてしまったんだろうか。
腕を組んで目を閉じた桜田の顔を見ていると、靖子は不安に襲われてしまう。やはり裏稼業は自分には無理なのだろうか。口元に自嘲気味な笑みを浮かべコーヒーを口に運ぼうとすると、ようやく桜田が目を開けた。
「いいですか」
靖子に断って、椅子に掛けたコートのポケットから煙草を取り出す。ライターで火をつけ、煙草を吸う仕草がいかにも様になっている。まるで最後に味わう煙草のように、桜田はゆっくりと紫煙を吐くと、
「さあ、文学の話でもしましょうか」
急にサバサバと、さっきまでの重苦しいムードはどこへやらで、目も笑っていた。
「僕はね、藤野さん。文学というものに対して、ちょっと変わった考えを持っているんです。闘う文学というのかな、文学はもっと先鋭化しなくちゃいけないと思うんですよ。有名な自然科学者が、哲学は自然科学の前衛たるべきだと言ったと記憶してるんだけど、文学も読者の前衛たる地位を目指すべきだと思うんだ。読者を教え導くなんてのは思い上がっていてイタダケないけど、読者に行動なり生き方を明確に提示できるものでなければいけないように思うんだ。そのためには思想性が必要なのは当然なんだけど、それだけじゃダメで、読者に一ランクないし二ランク上の行動なり生活を提示できて、現実に行動を起こす起爆剤にならなくちゃダメなんだ。この点で藤野さんの〈ライン川のほとりで〉は、現代人が忘れがちな、純粋な愛の形が紙面ににじみ出ていて、読者、特に若者が愛について考える格好の作品だよ。おまけに香り高い文章で、しかもライン河畔の描写が実に生き生きしていて、自分がそこにいるような錯覚に陥ってしまうんだ。ベストセラー間違いなしだよ」
「そうでしょうか‥‥‥」
急に能弁になってしまった桜田に、靖子は少し戸惑っている。
「全くの素人ですから、文学の話はよく分かりませんわ」
桜田の話を黙って聴いていたが、最後に意見を求められると、靖子は体の良い無難な表現で逃げてしまった。桜田の言わんとすることも分かるような気がするが、文学があまり前衛化することにはやはり抵抗がある。それに実際、全くの素人で偉そうなことは言える立場でないし、また、不安に襲われていて心ここにあらずの心境であったのだ。
「それじゃ、これで失礼します。‥‥‥あのう、阪急で帰るつもりだったんですが、気が変わって京阪にしますので、京橋までJR環状線で行きますから」
立ち上がってから、靖子はぎこちない仕草で帰路コースの変更を桜田に告げてしまった。このまま下宿へ帰るのは何とも心許なく、本多のマンションへ寄り彼の判断を仰ぎたくなったのだが、相手に悟られるところが自分でも呆れるほど未熟だった。
「それじゃ、お気をつけて。さよなら」
靖子のそわそわと落ち着きの無さに同情したのか、それとも可笑しかったのだろうか、一緒にくぐるはずの大阪駅改札前で桜田は笑顔で別れを告げると、京橋まで同行することなくコンコースの人混みに消えてしまった。
―――ふぅ‥‥‥。
京阪特急の車中でも、靖子は桜田の言動をあれこれと思い浮かべていたが、出町柳(駅)で降り、歩いて本多のマンションへ着くと、
「直則さん。御免なさい、大失態を演じちゃったわ」
開口一番、反省を口にして経緯を話すと、
「‥‥‥うむ、完全に知られてしまったな」
本多は一言つぶやいたが、深刻な様子はなく、口元に微笑が浮かんでいた。
「社長に話すかしら?」
自分の失態で〈仕事〉が完成を待たずに終わったりすると、靖子は悔やんでも悔やみ切れないのだ。
「大丈夫だよ。今の様子では、たぶん話さないだろう」
コーヒーを一口含んで、本多は自信あり気に笑った。靖子の話を聞いて、桜田という人物に妙に親近感が湧いてきたのだった。
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